恋(こい・こひ)①人や土地、季節などを思い慕うこと。愛で慈しむこと。②異性、ときには同性に特別の愛情を感じて思い慕うこと。恋すること。
特別(とくべつ)普通一般のものとは別扱いにするのが良いほど違うこと。
▼こはく
ソファーに寝転がって、手のひらの画面と睨めっこしている。明度を最低に設定しているせいで、文字が読みづらいことこの上ない。さらに背もたれに長辺を沿わせ、鉄壁の防御を敷いている。パソコンがあるのにわざわざスマートフォンを使っているのは、大きな画面に映して、万一にも人に見られたら困るようなことを調べているから。
もっとも同室のジュンはんは入浴中で、そうでなくとも人の画面を無断で覗き込むなんて狼藉は働かない。わかっていても、とても無防備にしてはいられない。
閲覧履歴をスイッと弾く。遡っても、遡っても、画面に躍るのは「恋」の一文字。こんなもん見られた日には、わしは…… 何をしでかしてしまうか、皆目見当もつかん。
ため息をつきながら履歴を閉じると、派手に装飾された見出しがドンと目に飛び込んでくる。
「これは恋なの?あの人への気持ち、簡単チェックで診断しよっ!」
暗い画面でも分かるほど鮮明なピンクに彩られたページ。こっちは真剣に悩んどるのに、えらい楽しそうやないの。フリー素材であろう外国人女性の笑顔を睨め付け、また一つため息をついた。
あの雨の晩を思い出すと、まだ体が熱くなる。心臓がどくどくと脈を打つ。HiMERUはんは、何を思ってわしに……額にそっと触れてみる。くちびるの柔らかな感触、温もりが蘇った気がして、慌ててコシコシと擦る。もう、何日もずっと、その繰り返し。
あの後、入浴を済ませてベッドに横たわると、間も無くHiMERUはんが帰って来た。ドアの外にレジ袋の擦れる音を聞くや否や、スマホを手放し目を閉じた。正直、あんなことがあった後、どんな顔をして迎えればいいのか分からなかった。
「ただいま帰りました……桜河?」
足音がカーペットに吸い込まれながら迫ってくる。丸めて抱いた掛け布団に口もとを埋め、深い呼吸を繰り返して気配を偽った。
「ああ、もう寝ていましたね」
背中にかけられた声には明らかに安堵の色が滲み出ていて、わしはそのまま、たぬき寝入りを決め込むことにした。HiMERUはんは真隣のベッドに腰を下ろすと、しばらくの間じっと、ただわしを見ていた。
朝、コーヒーの匂いで目を覚ますと、HiMERUはんはとっくに身支度を済ませて新聞を読んでいた。
「おはようございます、桜河。今日はいい天気ですよ」
ニコッと微笑んだその顔がもう、すっかりいつもの「HiMERUはん」に戻っているのを見て、ああ、昨日のことを聞くタイミングはもう逃してしもたんやなっち思った。
事の始まりは、寮に帰って来たその日の夜。聞けなかったHiMERUはんの気持ちをインターネットなんぞが知っているはずもないのに、つい出来心で調べてしまった。
「でこにチュー なぜ」
表示された回答は案の定、納得のいくものではなかった。友情、祝福、賞賛……的はずれな答えに腹が立つ。あれが、あのチューが友情の印やっち言うんか?毎日思い出しては心臓がズンドコ暴れて困っているのに。ずっと額がくすぐったくて、なにか物足りなくて、今も息が苦しいくらいなのに。
あれやこれやとワードを変え、他の答えを探しているうち、ふと本質的な疑問にぶつかった。あの口づけが友情の印やったとして、なんでわしは不満なんやろ?逆に何と書かれていたら満足だったのか。そもそも仲間のくちびるが額に触れた、ただそれだけのこと。なぜこんなにも深く捉われているのか……だいたい、それよりもっとすごいことをさせてしまっているのに。
思い当たる答えは、ある。座敷牢で育っとったって「桜河」や。わしだって鈍くはない。こんなのは漫画や小説、映画やドラマではよくある話。お決まりの展開。ただ、わしはまだ「それ」を知らんから……確信が持てん。この気持ちが何なのか。
HiMERUはんのことは好きや。それは出会って間もない頃から変わらない。慣れない洋服、初めての衣装。意地張って着方を聞けず、上着に頭がつっかえてもがくわしを、ため息つきながらも助けてくれた人。口では「予定に遅れたくないので」と言いながら、やっと襟ぐりから顔を出したわしに向けられた眼差しは、見惚れてしまうほどに優しかった。あの時、わしはたしかにHiMERUはんのことが好きになった。
でも、それならあのチューが友情の印でなにがあかんのやろ。燐音はんへの好きと、ニキはんへの好き……ラブはんやジュンはん、坊や斑はん、プロデューサーはんらへの好きとHiMERUはんへの好きは、いったい何が違うんや。例えばわしの額に触れたくちびるの主がラブはんやったとして、果たしてわしはこんなこと考えとったやろか。考えれば考えるほど頭がこんがらがっていく。
とにかく、やってみてから考えよう。たった 11問っち書いてあるし、デタラメやったらデタラメやったでその時や。
ごくり、喉が鳴る。恐る恐る「診断スタート」のボタンをタップした。ごてごての装飾をゆっくりゆっくり読み込んで、パッと画面が切り替わる。
「目が覚めた時、最初にその人のことを考える」
一つ目の質問に、心臓がぴょんと跳ねた。今朝も考えた。今日はなんの予定で一緒だったかとか、会ったらまず昨日あったあの話をしようとか、そんなことではあるけれど。なんなら寝る前にも考えてしまうし、昨日は夢に見たような気さえする。
なんだか、手のひらの機械に胸の内を見透かされているような気がして落ち着かない。そんなことはありえないと思いつつ、指先だけで長辺を掴むように持ち直して、YESと書かれたボタンをタップする。次の質問はすぐに表示された。
「その人のいいところをたくさん挙げられる」「離れると寂しく感じる」「その人のことをもっと知りたいと思う」……全て、全て心当たりがある。連符の速さで脈打つ心臓。浅い呼吸で、震える指で、次々ボタンを押していく。
最後の質問を確認するなり、スマホを放った。もう十分だった。結果なんて見なくても、痛いくらいに分かった。
「その人にもっと触れたい」
触れたい。目を閉じて思い描く。サラサラとした細い髪。背丈に対して華奢な手指。真っ白な首に浮き出た喉仏。そして、あのくちびるに。ミントが香るリップクリームに守られた、柔らかで温かなくちびるに、そっと触れてみたい。
ふに、とくちびるを押してみる。明らかに硬く、平べったいそれは指に他ならないとわかっているのに、つま先が甘く痺れた。
「桜河」
優しい声が蘇る。ああ、HiMERUはんに会いたい。そう思ってはっとした。ついさっき別れたばかりなのに。自覚してしまえば、もう止まらない。胸の中で淡い想いが膨らんでいく。なあHiMERUはん、どうしよう。わし、どうやらぬしはんのことが好きみたい。
呆然としたまま、天井のクロスを見つめていると、浴室の扉が開く音がした。
「あれ、サクラくん寝ちまいました?」
「ううん、起きとるよ」
ジュンはんの声に、上体を起こしながら答える。わしも入ってしまおう。立ち上がり、スマホをポケットに突っ込む。
「よかった。風呂お先に……って、なんか顔赤くないですか?」
「えっ」
パッと頬に手を当てると、まだほんのりと熱かった。HiMERUはんとチューしたいっち考えとったらこうなりましたなんて、ジュンはんが知ったらどんな顔するやろ。白目剥いて倒れ……はせんか、アイドルやし。
「大丈夫、ちょっと暑かっただけやと思うわ」
「暑い?うーん、もうちょっとクーラーの温度落とした方がいいですかねぇ?」
「ううん、気にせんといて。わしもお風呂頂いてくるわ」
入れ違いに腰を下ろしたジュンはんが、ペットボトルの水を飲みながらヒラヒラと手を振る。着替えをまとめて背を向けると、今度は
「あ、ちょっと待ってサクラくん」
と呼び止められた。
「そういえばオレ、今度の土日いないって言い忘れてて」
ジュンはんはテレビ台の共用カレンダーを引き寄せ、青いペンで「泊」と大きく書き込んでいく。
「ああ、お仕事?どっか行くん?」
「北海道らしいです。今度もお土産買って来ますよぉ」
「ほんま?うれしいわ。楽しみに待っとるから、気ぃつけて行って来てな」
「おやすみ」を交わし、浴室に入る。土曜日…… たしか遅い仕事はなかったはずやし、夜は部屋で一人、ゆっくり過ごそか。服を脱ぎながら考える。
そういえば、わしにはHiMERUはんへの恋心とはべつに、もう一つ大きな問題があったのを忘れていた。教えてもらったことは忘れないうちに復習するのが基本とはいえ、共同生活を営む身の上。なかなかタイミングを計らうことができず、今日に至る。HiMERUはんに教えてもらって以来初めての留守番やし…… よっしゃ、一人でやってみよか。おかしな決意を胸に秘め、下着を洗濯かごに放り込んだ。
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