まだ時折冷たい風が抜ける日の昼下がり、やわらかく茂ったメタセコイアの影を歩いていた。春服を見に行った帰り道。ベビーカーを避けて1歩前に出ていた桜河が、くるりと振り向いて、大きな紙袋を差し出した。
靴紐を結び直し、こちらを見て微笑む。ふくっと盛り上がった両頬に落ちた木漏れ日が、あまりにも綺麗な円を描いたので、思わず吹き出してしまった。なぜ笑われているのか分からない桜河がちょこんと小首を傾げると、木漏れ日はなめらかな皮膚の上をゆらゆらと滑り、次々と模様を変えた。
事情を知り、憤慨したふりをする桜河をなだめていると、ふと、ショーウインドウに映る自分と目が合った。瞬間、世界から音が消えたような錯覚に陥った。ぎくり。心臓か喉か、どこかその辺りが収縮し、耳障りな音を立てた気がした。
見たことのない表情だった。HiMERUになってからはもちろん、それ以前にも。ドッペルゲンガーなんて信じてはいないが、例えるならまさに、そういう類いのものと鉢合わせたような気分だった。自分ではない人間が鏡の向こうで笑っている。それも、心底楽しそうに。
今思えば明らかな異常事態だったのに、何故深く考えずに流してしまったんだろう。かわいい後輩、いじらしい。一緒にいると楽しく、穏やかな時間を過ごせる相手――そう思っていたから。違う。相手にかかわらず、そんな可能性は微塵も考えなかったに違いない。
恋なんて、あるはずがないと思っていた。動物的な本能を人間社会に受容させるための方便だとすら思っていた。数多の小説でさも真実であるかのように語られていても、これが恋なのだといくつ捧げ持たれても、俺には分からなかった。分かりたくなかったのかもしれない。
実の父親が俺を置き去りにして、母親の死から立ち直った。そのきっかけになったかもしれない感情なんて、分かるはずがないと思っていた。俺には、自分より大切なものがあるのだから。
窓を打つ雨の音をぼんやりと聞いている。
梅雨のシナモンは客足がまばらで、空調がほどよく効いている。予定のない休日に油を売るには、この上なく都合が良い。
こうもじめじめしていると何をやる気にもならない。半分を超えても一向に山場に差し掛からない文庫本を端に押しやってもう1時間以上、だらだらとスマートフォンをいじってばかりいる。
冷め切ったコーヒーにくちびるを浸けて、閉じたばかりのフォトスタグラムを手癖で開く。もう何度同じことをしているだろう。
「もー、HiMERUくんのせいで湿度が増すからやめてほしいっす」
いつの間にか、他の客はいなくなっていたらしい。入り口付近に立つ椎名が、モップにもたれかかりながら声をかけてくる。
「なんです藪から棒に。椎名のくせに、失礼ですね」
「えー、無意識? さっきからずーっとため息ばっかり何回もついて、何か嫌なことでもあったっすか?」
聞いておいてどうせたいした興味はないだろうに、まっすぐに心配されて参ってしまう。天城を拾ったくらいだ。椎名は基本的に善良で、ときどき困る。
「あ、でも難しい話はお腹が空くからやめてほしいっす。そうだ、晩ご飯のおかずはHiMERUくんの好きなものにする? 何がいいっすか?」
にこっと笑う椎名に、つられて笑ってしまう。思っていた通りの言葉が続いた。全人類がこれくらい分かりやすく出来ていたら良かったのにと思いかけて、すぐにそれはそれで困るなと思い直す。
「今日は煮魚がいいと桜河が言っていたでしょう」
最近、桜河は魚料理を好んで食べる。身体計測の結果がどうにも気に入らなかったらしい。ブラックコーヒーの克服はいったん諦めたのか、牛乳ばかり飲んでいる。
この日も、桜河は牛乳を飲んでいた。スマホに目線を落として、今度は漏れ出たため息を自覚する。笑ったおかげか、悩みの種は変わらず手のひらに乗っているのに、心はいくらか軽くなったような気がした。
暗くなった画面に映る自分の顔をちらりと確認して、椎名を手招く。
「それよりも、暇そうな椎名に聞きたいことがあるのですが」
「えっ、僕暇そう? どのへんが? いや、まあ忙しくはないっすけどね」
ぶちぶち言いながら歩いてくる椎名の背後で、モップがカツーンと音を立てて倒れる。バックヤードへと片付ける姿を横目で見ながら、写真アプリを開いて、目当ての画像を表示した。
「これを見て、何か気になることはありますか。椎名に何かを期待しているわけではないので、率直に、思ったことを言ってください」
「HiMERUくん、今日はなんか、オブラート食べちゃったんすか?」
エプロンで手を拭う椎名にスマホを差し出して、口元を隠すように頬杖をつく。見せたのは、桜河が先刻フォトスタグラムにアップした写真3枚のうち、俺だけが写っている1枚。先週、商店街の角に出来たカフェへ2人で出かけた時に撮られたものだった。
「えっと、どこを褒めれば」
「適当に褒めておけばHiMERUは喜ぶとでも?」
「だって、こはくちゃんもそう言ってたし」
へらりと桜河の名を出され、ぐっと喉がつかえる。椎名に限っては特に、絶対にそんなはずはないのに、心の内を見透かされているような居心地の悪さに、早口でまくし立てる。
「HiMERUが完璧なのは自明なので結構です。他に何か思うことは?」
確かめたいのはただ、この写真が特別な意味を持って見えるのは俺の思い過ごしだということだけ。ユニットのメンバーを写した、何の変哲も無い日常の1枚だという後押し。だから、椎名がひねり出した答えが俺以外にまつわるものなら、これで全てが解決する。
「うーん、これ撮ったのはこはくちゃんかなあ、とか?」
期待とは裏腹に、椎名はずばり核心を突く。仕事の話は説明しても分からないのに、どうしてこんな時だけ勘がいいのか。桜河のアカウントではなく、わざわざ保存した写真を見せているというのに。
「桜河にそう聞いていたんですか?」
「いえ、何も聞いてないっすよ」
「では、今日は何時からシナモンに?」
「ええ? えっと、12時っすね」
「ということは2時間はスマホを見ていないわけですね。何故、これが桜河が撮った写真だと思ったのです」
せめて、どうか当てずっぽうであってくれ。祈るような気持ちで、固唾を呑んで椎名の顔を覗き込む。食以外に興味のない椎名に現実を突きつけられようものなら、言い訳の余地がなくなってしまう。
「んー、なんて言えば良いんすかね? こはくちゃんといる時のHiMERUくんてこう、根菜と一緒にじっくり煮込んだ鶏肉みたいな雰囲気というか……あ、優しい! 優しい感じがするっす」
独自の表現で、ささやかな希望を事もなげに打ち砕き、椎名はへらりと微笑む。
「HiMERUはいつでも優しいでしょう」
「今のこの状況をどう説明するつもりなんすか?」
椎名を巻き込んででも目を背けたかった答えが、椎名のおかげで目の前に駆け寄ってきてしまった。わざとらしくため息をついて、手をひらひらと振る。
「もういいです、HiMERUには考えることがあるので、椎名は何処か行ってください」
「呼んでおいて!?」
それでも特に怒りもせず、1度戻ってきてグラスを満たすと会計を済ませ、新デザートの試作をすると言ってバックヤードに入っていく。椎名の善良さには、ときどき助けられもする。
フォトスタグラムを開くと、桜河のアカウントが表示される。写真は全部で3枚投稿されていた。
1枚目は、その場で写りを確認した自撮りの2ショット。2枚目は机に並んだケーキ。椎名に見せた3枚目は、いつの間に撮っていたのか、窓の外を見ているHiMERUの横顔だった。
「ラブはんみたいにもっと更新した方が、ファンの人らは喜んでくれるやろなっち思うんやけど、こういうのって難しいわ。何が正解なんやろ」
ケーキと牛乳、コーヒーを待つ間、桜河はそう呟いてうなだれた。
「そう難しく考えずとも、桜河がいいと思った物を撮ればいいと思いますよ」
そやな、と小さく頷いた桜河は照れくさそうにスマホを取り出して、四苦八苦しながら2ショットを撮った。その後もケーキや顔つきのフォーク、観葉植物まで、張り切って撮っていた。
そうして厳選した3枚がこれなのかと思うと、息が苦しくなる。カフェに行ってから今日まで、何日もかけて真剣に選んだんだろうなと思うと余計に。
「HiMERUはんとカフェ」
一見素っ気なく見える1文も、熟考の果てにこうなったんだろうなと思うと、心の隅がくすぐられているような気になった。
コメントを一つ一つ読んでみても、椎名のような指摘はなくて、ひとまず安堵する。それでも焦燥感が止まないのは、やわらかな表情が持つ意味に心当たりがあるから。
たぶん、椎名が本当に言いたかったのは「優しい」じゃない。椎名が作ったスープを思い出せば、なんとなく分かる。じっくり煮込んだ鶏肉というのは、要するに「とろとろ」だ。
甘やかな、少し気の抜けた横顔。初めに写真を見たとき、愕然とした。単にHiMERUの表情を管理できていなかったからではない。カメラの前で同じ表情を作ろうとしても、きっとできないだろうと思ったから。
意識してこんな風には笑えない。それを、あの子は捉えた。狙っていたわけでもないだろう。何気なく撮った1枚で、俺自身も知らなかった心の奥まで切り取ってしまった。
つまり、俺はいつも、桜河の前ではこんな顔をしているんだろうか。それでは、まるで、俺が桜河を――認めがたい現実が目の前にどっしりと横たわっていて、ぎゅっと目を閉じる。桜河の笑った顔が浮かんで、喉の奥がキュッと鳴る。
雨はまだ止まない。何かを泡立てる音が、キッチンから聞こえている。
じっと机に突っ伏していると、ドアが開く音がした。濡れた靴音と椎名の声が響く。
「いらっしゃいませーって、こはくちゃん。お仕事早かったんすね」
「うん、この天気やからちょっと巻いてな」
「おつかれさま。奥にHiMERUくんも来てるっすよ」
桜河の声が鼓膜を揺らした瞬間、身体が起き上がり、額に貼り付いた髪を払っていた。今の今まで見向きもしていなかった文庫本を開いて、集中している気配を装う。
「HiMERUはんも来てたんやね。ここ座っても良ぇ?」
「おや、桜河」
まるで今気付いたかのように顔を上げて、ぱっと視線を落とす。本の余白がいやに白く見えて、落ち着かない。水を一口飲み込んで、咳払いをする。喉の奥に何かが詰まっているような感じがして。
「んんっ……はい、どうぞ。ロケはどうでしたか?」
「うまくやれたと思うで」
「そうですか、それはよかった」
それきり、言葉が続かない。何か面白いことでもあったんだろうか。桜河はもう少し話をしたそうにこちらを窺っていたものの、やがて観念したのか、トートバッグから課題のノートを引っ張り出す。
向かいに座る桜河はどこからどう見ても高校生なのに、何を血迷ったことを考えているんだろう。頭ではそう思っているのに、さっきからずっと目が文字列の上を滑っている。シャープペンの音に気が取られて、さっぱり話が頭に入ってこない。それを桜河に悟られたくなくて、一定のペースでただページをめくる。
「なあ、ぬしはん、なんか怒ってる?」
同じ動作を10回ほど繰り返したころ、桜河がおずおずと口を開いた。
「え?」
「もしかしてフォトスタに上げた写真、何かまずかったやろか?」
「いえ、そんなことは」
しょげた声色に、胸が痛む。否定しようと顔を上げて、またすぐに目を逸らしてしまう。得体の知れない力が加わって、どうしても視線が上がらない。これでは口でなんと弁明しようが、怒っていると言っているようなものになってしまう。
「そんなことはありません。ただ、その……」
なんだ。そわそわして、言葉が浮いてしまう。自分が何を言いたいのかよく分からない。今さら目を見て話すのが恥ずかしいだとか、息の仕方が分からなくなってしまったとか、到底口に出せるはずもない言葉がぐるぐると巡る。それらが典型的な「症状」だと気付いて、いよいよ頭が白くなる。
「ただ、なに?」
「握ってみてもらえますか」
気付いた時にはそう口走って、右手を突き出していた。探偵が犯人を指すときのように、ピンと人差し指を立てて。
推理はあくまでも推理。確かめるまでは誤りだという可能性も大いにあるのだから。もっともらしい言い訳をとってつけている間に、指先は自信なく垂れていく。
「ええけど、本当にどうかしたん?」
困惑しきった声で笑って、桜河がそっと手を伸ばす。きゅっ。握られたのは人差し指のはずなのに、心臓を掴まれたような気がした。
「これで何が……ってぬしはん、顔どうしたん?」
「あの、桜河。HiMERUはどうにも調子が悪いようなので、先に失礼します」
言うなり立ち上がって荷物を掴み、シナモンを飛び出す。点滅している横断歩道を走って渡り、そのまま走れるところまで走って、気が付くと雨が止んでいた。
傘を閉じると、濡れたメタセコイア並木がきらきら風に揺れている。右を見ても、左を見ても、桜河のことばかり思い浮かんで、右手の人差し指がぴくりと跳ねる。顔が熱い。
いつかのショーウインドウを覗くと、遠目にもはっきり分かるほど頬が紅潮している。見たことのない表情に、胸がざわめく。もう言い訳のしようもない。認めて、早急に対策を練らなければならない。
あからさまに恋をしている。
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