▽HiMERU
大通りから二つ曲がった一歩通行の住宅地。2階建ての四角いアパートに寄せて、タクシーが停止する。初乗り料金で済む距離にもかかわらず、快く運んでくれた好々爺に礼を言い、電子マネーで支払いを済ませる。風は生温い。右折する車体を会釈で見送り、ランドリーバッグを肩にかけ直した。
単に面積が狭いからか、子ども時代の記憶があるせいか、日本の住宅街は生活の気配が充満していて息が詰まる。夜はまだいい……夕方が最悪だと思う。17時のチャイム、我が子を呼ぶ声、2人で一つの影法師、無遠慮に漂う夕飯の臭い。帰る場所を持たない者を追い詰めていることに気づきもしない、その他大勢の優しい日常。
スマホの明かりを頼りにブレーカーを上げる。小さな流しとIHコンロ、冷蔵庫、ロフトベッドのほかには家具も家財も何もない、殺風景なワンルーム。あたたかでにぎやかな寮の居室も決して居心地悪くはない。けれど、こういう部屋の方が落ち着いてしまうのは変えられない性分なのだろうか。かりそめだとしても、かつて渇望した居場所を手にしているのに贅沢な話だ。
寮に移って以来、1人で食事を摂ることがめっきり減った。1人で生きていた頃は、栄養補給さえできればそれで良いと思っていたのに、近頃では「みんなで食べると美味しいっすから」などという椎名の言葉が実感を伴って理解できるようになってしまった。あまつさえ、仲間と美味しいすき焼きが食べたいと奔走する始末。他者と大皿料理をつつくことにもはや一切の抵抗を感じていない。
こういう変化に気づいた時、変わっていく「自分」とはいったい誰を指すのか、一瞬立ち止まって考えてしまう。当然、「俺」の方だろう。「HiMERU」はもともと愛されていてしかるべき存在なのだから。
俺自身のこととなると途端に分からなくなる。どうせ1人に戻るのに、変化することに何の意味があるのか。思考を放棄していると言った方が正しいのかもしれない。持てる自意識が一つしかないのなら、それはHiMERUに寄せておいた方が良いに決まっている。
洗濯機を回して戻っても、部屋はまだ冷えていなかった。バッグから取り出したコーラを一口含んで、すぐに後悔する。気の抜けた、甘ったるい液体が舌や喉にまとわりつく。冷たい飲み物を買ってくればよかった。病院に着いたのは面会時間終了のほんの15分ほど前。売店に寄る余裕などなかったにしても、探せば表にも自販機くらいあっただろうに。
バッグにはもう1本、未開封のペットボトルが入っている。緑色のラベルが巻かれた、ブラックのボトルコーヒー。先日、プロデューサーが珍しく熱弁を振るっていた新商品。口数が多いとは言えない彼女をそうさせたコーヒーがどんな味なのか、密かに気になっていた。
埃まみれのコンセントを払って差し込み、空の冷蔵庫にコーヒーを入れる。飲みかけのコーラはシンクに注いだ。シュワシュワと力なく音を立て、茶色い泡が弾ける。ラベルを剥がし、軽くすすぐ。そろそろゴミの日に合せて来ないといけない。大量のペットボトルで二つ目のゴミ袋が埋まりかけていた。
裾で手を拭いて、ロフトに上がる。マットレスなどない。板張りに座り、本来枕元であるべき棚に置き去りの本を手に取る。左綴じの、表紙が外れかけた薄っぺらい冊子。どこまでも抽象的なくせに、愛だの人生だのと問いかけてくる児童文学。俺は昔からこの話が好きじゃない。なのに、ずっと手放せずにいる。小さな王子様がどこか要に似ている気がして。
本当は要に渡す予定の、なんでもない土産のつもりだった。帰国する日、早く着きすぎた空港でなんとなく買っただけ。今にして思えば、なんて歪な贈り物だろう。あの子が横文字の本を読めると思っていたなら、なぜ児童文学を選んだのか。これを選ぶ時、俺はあの子が喜ぶ顔を思い描いただろうか。
適当なページを開き、読むともなく目を右へと滑らせる。文字は全く頭に入ってこない。ぼんやりとした意識はふっと身体を抜け出し、数日前の夜へと移っていく。
閉店後のシナモンに呼びつけられた。電源を落とした自動ドアを手で引いて店内に入ると、明かりを絞ったカウンターに天城が1人で座っていた。
「よォ」
ひらり、いつもの調子で手を上げる。話があるというから来てやったのに、まさかまた麻雀かモノポリーじゃないだろうな。一つ空けた席に腰掛けると、奥から椎名が出てきた。
「あ、HiMERUくん来た? おつかれさまっす」
「こんばんは、椎名」
「ご飯食べた? まだなら賄い持ってくるっすよ」
「ありがとうございます。飲み物だけいただけますか」
桜河は来ないのかと辺りを見回す間に、椎名がジンジャーエールを注いでくれた。
「じゃ、僕は仕込みがあるんで」
と手を振り、またキッチンへと戻っていく。
「今日は俺とあんたしかいねェよ」
天城が何の話をしたいのか、呼ばれた時点から察してはいた。それでも、こちらから切り出すのは癪ではぐらかす。
「オセロでもするつもりですか?」
「はん、お望みとあらば用意してもいいぜ」
「いいえ、けっこうです。それで本題は?」
結局、こうなるわけか。ストローを手に、苦々しい気持ちで氷をつつく。これ以上回り道をしても時間の無駄ではあるが。
「見当はついてんじゃねェの?」
「質問を質問で返されるのは好まないのですが……まあ、そうですね」
おおかた、桜河のことでしょう、分かりやすくこの場にいないわけですし。黙ってジンジャーエールを含む。ピリッとした辛みが喉に気持ちいい。
このところ、桜河の様子がおかしい。そわそわと落ち着きがなかったり、話しかけても上の空だったりする。かと思えば、これまで以上に張り切って仕事に打ち込んでいて、時にやる気が空回りしてしまうことすらある。あとはやたらと目が合うとか、そうかと思えばすぐにそっぽを向いてしまうとか、しょっちゅうため息をついているとか、突然牛乳を好み始めたとか、枚挙にいとまがない。見る人が見ればすぐに分かってしまう。
「近頃のこはくちゃん……ありゃー恋っしょ」
天城は珍しく落ち着いたトーンでそう言って、こちらに向き直った。
「なァ、メルメル?」
流石に天城も分かっているらしい。相手がどこの誰なのか。
「さあ、HiMERUにはよく分かりませんが」
「ふーん? セクシー担当メルメル先生ともあろうもんが、見かけによらず初心なんだな」
ニヤッと上がる口角。覗いた犬歯の憎たらしさと言ったらない。そうかと思えば、真剣な顔で向き直ってくる。
「それで、あんたはどうなんだ?」
「どう……とは?」
天城は答えない。ただじっとこちらを見ている。いつもの姿からは想像もつかない凛とした瞳。グラスの氷がカラリと音を立てる。
桜河が誰に焦がれているのかは分かっている。あの桜河が、隠そうとしていることすら隠しきれていない感情。あれほど巨大な恋慕のベクトルを向けられては、気付かないわけがない。よほど鈍いか、あの子に関心がない限りは。
椎名はどうだか知らないが、天城も当然気付いた。珍しく茶化す気も無ければ、止める気も無さそうだが……事態を正確に見極めておきたいといったところなんだろう、付け入る隙を狙う悪意から仲間を守るために。それに協力しない理由はない。でも、俺はHiMERUも守るために、正しく線を引かなくてはならない。
「どうもこうも、あれくらいの年ごろにはままあることでしょう。身近な年上に抱く憧れを恋と勘違いしてしまうことは」
天城は知るよしもないだろうが、2人きりの浴室で手淫されているのだから、16歳の桜河にとっては思い込みも致し方ないことだと思う。
「プロデューサーのお姉ちゃんも身近にいるのにか?」
「それは……知りませんけど」
桜河が恋い慕っているのは「HiMERU」に他ならない。純粋で綺麗な、完璧なアイドル。俺が見せている姿、見せたい虚像。
「HiMERUは、魅力的なアイドルですから」
相手が桜河であろうと、HiMERUが愛されるのは当然のことで、それは歓迎すべきことなのだと言外に主張する。何の問題もないのだという表情を繕って。
そう、あの子が愛してくれているのは「俺」じゃない。そんなことは分かりきっているのに、いざ言葉にすると胸が捻じ切れそうに痛んだ。あの子は本当の「俺」を、張りぼての中身を何も知らない。知らないものは愛せるはずがない。冬の「ゲーム」が現実になっただけで、事態は何一つ変わっていない。変えられたのは俺しかいないのに、俺はあの子に愛されたいと願ってしまった今も、変えようとすらしていない。
天城はしばらく黙って俺の顔を眺めた後、
「ま、あんたがいいなら俺っちは言うことねーよ。馬に蹴られたくねーしな」
と一笑した。
「蹴られてもピンピンしてそうですね」
「まあな。なァ……ちなみに、お上りさんのこはくちゃんが仕事中は全くそんな素振りを見せなくなるのは、あんたなんでだと思ってんだ?」
「それは……アイドルだからでしょう。切り替えて当然なのですよ」
口にしてから、少し違和感を覚える。もちろん、アイドルとしてそうあるべきだと思うし、アイドルである桜河のことを信じている。でも、それができる状態であるなら、あの子の恋煩いが筒抜けになるはずはないのに。
「ま、それはそうなんだけど。なるほどな」
そう言ってグラスを干すと、天城はニィッと笑った。
「なんですか、気味が悪い」
「いや?そのうち分かるさ」
そのうちというのは、夕方のことだろう。天城と椎名が何か企んでいるのは勘づいていた……まあ、椎名については演技なのか本気なのか定かではないが。
ラジオ局の控え室。思えば、あちらから「是非に」ともらった仕事だったのに、水も置かれていないのは不自然だった。まあそんなこともあるかと気にしていなかったが、あれも天城の仕込みだったに違いない。
収録の後、楽屋に戻るなり椎名が空腹で崩れ落ちた。バッグをひっくり返してお菓子を探す桜河に、天城は財布から千円札を数枚取り出して渡した。
「こはくちゃん、悪ィけどひとっ走り、下のコンビニまで頼めるか?ついでに全員分の飲み物も買ってきてくれ」
椎名の食料事情にもいつのまにかすっかり慣れ、常に誰かがなんらかの食べ物を持ち合わせているおかげで、椎名が倒れることは滅多になくなっていた。多少動転したのか、桜河はマスクもつけずに駆け出して行った。
やがてはち切れんばかりのビニール袋を抱えて戻ってきた桜河は、買い込んだ菓子パンや惣菜パン、おにぎりを剥いて、次々と椎名の口元にあてがっていった。みるみるうちにそれらを飲み込む椎名を見るともなしに見ていると、
「はいよ、残りがメルメルの分だ」
と天城がビニール袋を渡してきた。礼を言って受け取ると、中にはHiMERUが好きな銘柄のコーラと、ボトルコーヒーが1本ずつ入っていた。あ、このコーヒー。そう思って、誰が飲むのかと机を見やった。桜河の席には緑茶が、椎名の席にはかえって喉が渇きそうないちごミルクが置かれていた。天城は、手に持った炭酸水にスマホを翳している。
「天城……2本入っていますが」
困惑して尋ねると、天城は
「あん?ああ、こはくちゃんが数え間違えたんだろ。燐音サマが奢ってやるから取っときな」
と手のひらをヒラヒラさせた。
「はあ…… ありがとうございます」
そうこうしているうちに放送作家らが戸を叩く。「HiMERU」は、コーラが好きなので。コーヒーを飲みたい気持ちをぐっと押さえ込み、バッグに仕舞った。
洗濯機が止まる音で我に返る。開いた本は1ページも進んでいない。元の場所に戻して、ロフトを降りる。
身をかがめ、乾きたての洗濯物を取り出しながら考える。夏だろうが関係ないとばかりに静電気がバチバチ弾く。
どこまでが天城の仕込みなのかは分からないが、天城が言いたいのはつまり、そういうことだろう。桜河が焦がれているのは「HiMERU」ではないのだと。馬鹿な、そんなはずがない。俺は俺自身を誰にも見せていないのに。必死で否定材料をかき集める。心を守る一番の術は期待なんてしないことだと分かっているから。なのに、希望を捨てられない。
俺がこのコーヒーを飲んでみたいと思っていたことを、桜河は知っていたんじゃないか。プロデューサーがその話をした時、傍にいたのは桜河だけだった。べつにコーヒーを好むのは俺だけじゃない、みんなが選べるように5本入れただけかもしれない。そう考える方が自然だ。HiMERUにはコーラがあったのだから。なのに、どうしても希望を捨てられない。俺を思って選んでくれたのかもしれない。そう考えると、胸が甘く痺れて、うまく息ができない。
畳んだタオルや着替えをランドリーバッグに戻して、タクシーを呼ぶ。エアコンを消し、冷蔵庫のプラグを抜いて、ボトルコーヒーを取り出した。よく冷えている。
靴を履いて、ブレーカーを落とし、外に出て鍵を閉める。階段に足をかけると、ちょうど向かってくるタクシーの明かりが見えた。
車内に乗り込み、行き先を告げる。静かに流れ始めた景色から、手元に目を落とす。じんわりと汗をかいたペットボトル。かすかに震える手でキャップを開けて、一口含む。鼻から抜ける、コーヒーの匂い。彼女の言うとおり、すっきりとしていて、味が濃くて、美味しい……とは思うが、本当のところ、味なんて分からなかった。
「今日の楽屋、なんか変やなかった?」
洗濯物を部屋に運んだ後、桜河からメッセージが届いているのに気がついた。
「天城が差し入れを断ったようです。おつかい、ありがとうございました」
返事を打って、2枚ほどタオルを畳む間に次のメッセージが来た。
「飲み物5本あったと思うんやけど、コーヒーがどうなったか知らん?」
「ああ、それならHiMERUが頂きました」
少し逡巡して、正直に答える。そんなところを誤魔化してもしょうがないと思ったから。画面を伏せてスマホを置き、黙々とタオルを畳んだ。普段は気にしたこともないくせに、端と端をそろえることに意識を集中させた。エアコンはよく効いているのに、じっとりと手が汗ばんでいた。
ブブッ。スマホが震えて、座ったまま飛び上がりそうになった。気付かなかったふりをして、作業を続ける。
タオルと、要の着替えも畳み終えてから、恐る恐るスマホを手に取った。ロックを解除して、ホールハンズを開く。
「ほんま? よかったわ。それ、ぬしはんにと思って買ってん」
二口飲んでも、三口飲んでも、変わらず胸がいっぱいで、味は分からない。でも、きっとこの世のどんなコーヒーよりも美味しいのだろう。
まるでお守りか何かのように、結露で濡れたボトルを両手で包み、そっと口づけをする。あの夜の記憶がふっと蘇った。あの狭いユニットバスで、桜河の額にも同じようにくちびるを押しつけた。あれは、祈りだったのかもしれない。俺を見つけてくれますように、愛してくれますように。
神なんて信じていない。そんなものがいるのなら、要があんな目に遭うことはなかった。けれど、願うことはやめられない。
星奏館にはまだ着かない。今夜は星が綺麗だ。
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