▽HiMERU
電車に乗り込んでポケットを覗くと、桜河がぐっすり眠っていた。聞けば、部屋の鍵を開けるだけでもとんでもない大冒険だったらしい。いつも以上に小さな身体で働き回って、さぞ疲れたに違いない。ポケットの寝心地はいいのかどうか分からないが、ハンモックのように縫い目にもたれかかって眠る桜河は気持ち良さそうにぽかんと口を開けている。
実際に桜河の体温を感じているんだろうが、あどけない寝顔を見ているとじんわり胸が温かくなる。心が凪いで、息が深く吸える。本来なら今ごろは、駅に着く度に憂鬱と不安に押し潰されていたはずだったのに。
弟の、要の容態を聞きに行くのに桜河を連れて行くなんて、我ながらどうかしている。桜河の言うとおり、本当は天城にでも預けて1人で来るべきだった。
あのとき、そうだ、この後病院へ行くんだと思ったら自分でも驚くほどするする、もっともらしい言い訳が口を突いて出ていた。何を言っているんだと気付いた時点で取り消そうと思ったけれど、今度は反対に、どうしても言葉が出てこなかった。
桜河が行くと応じてくれたとき、驚くほどほっとした。今ごろになってようやく思い至る。医者に診せず話だけ聞くのなら、桜河が病院へ出向く必要は全くない。桜河のためのような口ぶりで提案しておいて、本当は誰のためだったのか。
家族としての生活を求めたり、駅まで連れ出してほしいと頼ったり、俺はいくつも年下の男の子にいったい何を期待しているんだろう。ましてこんな、吹けば飛ぶほど小さくなってしまった背中に何を背負わせるつもりでいるんだろう。
減速した車内に単調な声が響いて、最寄り駅への到着を知らせる。完全に停止してドアが開くのを待つだけのわずかな時間が、この駅はいつも妙に長い。そのくせ、ドアが開いて閉まるまでの時間は妙に短い気がしている。おかげで変に気が急いて仕方がない。
ポケットを覗くと、いつの間にか桜河が起きていた。あくびの最中に覗いてしまったせいで、ばつの悪そうな顔をしている。おはようと心の中で声をかけて微笑みを交わし、小さく頷いてからホームに足を下ろす。
連れて来るべきではなかったとか連れて来てしまったものは仕方がないとかぐるぐる考えているけれど、本当は俺が桜河に連れて来てもらったのかもしれない。ポケットを気にしているだけで一歩一歩が軽く感じる。
誰ともぶつからないよう慎重に人混みを抜けて地上へ出ると、あっという間に病院に着いた。こんなに近かったかと驚きながら自動ドアを抜けて、3階奥のトイレへと向かう。
俺をここまで運んでくれたのは桜河だとしても、「HiMERU」の状態について話し合う場に同席させるわけにはいかない。桜河だってそんな話を聞かされてはきっと困るだろう。どこか人気のない場所で待っていてもらうのが、お互いのために一番良い。
幾度となく病院へ通ううちに、このトイレを使う人が他と比べて圧倒的に少ないことは把握していた。1人になりたいときや軽く変装を施したいときなんかには重宝する。
ポケットを開いてそっと手を差し込み、洗面台の上に桜河を下ろす。内緒話ができるように自分もしゃがみ込んで目線を合わせる。
「移動中は問題ありませんでしたか?」
「まあな。変な姿勢やったのにえらいしっかり寝てしもたわ。寝たら治るかなっち思ってたのは甘かったらしいけど」
コッコッコ、と苦笑する桜河の後頭部には寝癖がついてしまっている。
「治し方を聞くためにも、HiMERUはもう少ししたら医者のところへ行かねばなりません。それで、その間だけ桜河にはこちらにいていただきたいのですが、大丈夫そうですか?」
「ここって、お手洗いか? まあ待っとるぶんには構わんけど、人に見つかったりせんやろか」
「こちらには滅多に人が来ないので大丈夫だとは思うのですが、そうですね。いつでもSOSを発信できる状態で桜河のスマホを置いていくとか、そういったことで対処できれば――」
話しながら、ふと視線を感じて振り向くと、小学生くらいの子どもがじっとこちらを見つめてぽかんと口を開けていた。
「なっ、何者なんじゃ!? 全く気配を感じんかった!」
「それは俺も同じですが……とにかく撒きましょう。早く手に乗ってください」
わたわたと桜河をポケットに仕舞い、足早に立ち去ろうとする。幸い、頭の回転は早くないらしい。ぱちぱち瞬いている隙に男児の隣を通り抜け、軽く安堵すると、背中に大声がかかった。
「こびとだ! ねえお兄ちゃん、それこびとでしょ?」
「ふふ、何のことでしょうか。さっぱり心当たりがないのですが……ごめんなさい、ちょっと急いでいるので失礼しますね」
後ずさりしながら廊下へ出ると、少年も後を追ってくる。
「ちょっとだけでいいからオレにも見せてよ。ね、いいでしょ」
「本当に何のことだか、すみません、これから用事がありまして」
「うそだ、オレ見たもん。こびと持ってるんでしょ、ねえ見せて、見せてってば」
現場などではいつも天城や椎名が適当にやっているので、聞き分けのない子どもをどうあしらっていいかが分からない。もしこの子どもがHiMERUのことを知っていたらと思うと邪険にすることはできず、じりじりと距離を詰められる。
「おばあちゃーん! 来てー!」
挙げ句の果て、少年は援軍を呼んだ。祖母らしき女性の声が女子トイレの方から聞こえてくる。もう、なりふり構ってはいられない。
「桜河、しばらく揺れますよ」
言うが早いか、全速力で階段を駆け下りる。不審者にでも仕立て上げられてしまったら、大人には為す術がなくなってしまう。確実に勝てるものが歩幅くらいしか思いつかなかった。
1階まで降りた後、一度売店と外来を経由して、完全に撒いてから病棟に戻る。周囲を入念に確認して病室に滑り込むと、崩れ落ちるようにして座り込んだ。
ポケットから這い出してきた桜河が波打つ肩に腰掛け、口に手を当ててえずいている。ロケバスが酷い山道を走っても、逆バンジーで打ち上げられてもけろっとしている桜河が酔うなんて、どうも相当揺れたらしい。
「すみません、まさかあそこに人が来るなんて思わなくて」
「うん、まあ、お手洗いやしな……うげぇ、はあ、あーちょっとは落ち着いてきたかも」
せめて地に足をつけて立ちたいだろうと思い、桜河を洗面台に乗せて立ち上がる。
ノックもしないでこの部屋に入るのは初めてのことだった。呼吸はある程度整えたのに、心臓がばくばくと激しく脈打っていて、今にも口から溢れそうだ。
もしも要が起きていたら――考えただけで足がすくむ。手のひらサイズの人間、その子を連れてきた理由、「HiMERUはん」と呼ばれるお兄ちゃん、いったい何からどう申し開きをしていいのか分からない。
恐る恐る覗くと、要は静かに寝息を立てていた。伸び放題の髪の隙間から、また親指を咥えているのが見て取れる。寂しいのか苦しいのか、あるいはその両方なのかもしれない。意識が戻るようになってから始まった癖は一向に直らない。ふやけた指を抜き取って、鬱陶しそうな髪を払ってやる。
「お兄ちゃんが来たよ、要」
桜河に聞こえないようになのか、それとも要を起こしてしまわないようになのか、抑えすぎたせいでほとんど声にならなかった。タオルケットをかけ直して部屋を見渡す。またグッズが増えたらしい。とうとう置き場がなくなったのか、枕元にまでぬいぐるみが置かれている。
尻ポケットでバイブレーションが鳴って、面談の時間が迫っていることを告げる。そろそろ病室を出て医者のもとへ向かわなければならない。
入り口の方へ戻ると、桜河はなんとも言えない表情を浮かべて体育座りをしていた。勘の良い子だ。ここがどこなのか、すっかり分かっているらしい。
「桜河。本当にすみませんが、ひめ……その、俺はもう行かなくてはなりません」
「それは分かっとるし、さっきみたいな目に遭ったら困るからここで待っとれっち言うならそうするけど、なあ。ぬしはんはわしがここにおっても良ぇんか?」
桜河はいつもまっすぐに俺と向き合おうとしてくれる。俺が逃げても隠しても、勝手に信じることにすると言って笑う。だからこうしてじっと見つめられると、言う言わないに関わらず、本当の気持ちを考えざるをえなくなってしまう。
「はい……ここで待っていてください」
他のどこで待っていてもらうのかとかもう行かなければとか切羽詰まった現実問題は差し引いて考えても、桜河が少しの間ここにいることは嫌ではない――と思って、少しびっくりした。自分で連れ込んだとはいえ、HiMERUの心臓部に踏み込まれているようなものなのに、非常事態が去ってからも追い出すなんてことは考えつきもしなかった。
「後で迎えに来るので、見つけやすいようにこの辺りにいてください」
ただ、要に触れたり近づいたりはしないでほしい。桜河がわざわざ俺が嫌がるようなことをするはずがないことは分かっていても、念のために言い含めて、連絡用にと桜河のスマホを置く。愛されて育ったらしい、人の痛みが分かるこの子の度量の大きさには何度も助けられてきたけれど、人一倍好奇心が強いのもよく知っている。
「うん……ほな、分かったで。ここで待っとるから安心して行ってき。わしのこと聞くのも忘れんといてな」
両手で俺の小指を包んで、桜河はこの部屋で初めて笑顔を見せた。もしかすると指切りのつもりなのかもしれない。そう思うと、あまりのいじらしさにぐっとくるものがある。
「ええ、約束です。必ず聞いてきますね」
手帳を持ち、慌ただしく病室を飛び出す間際、洗面台を振り返ると桜河が手を振っていた。小さく手を上げ返して歩き出す。何でもない仕草なのに、それだけでこれから挑むことが特別なことではないように思える気がして不思議だった。
「十条さん、診察室へどうぞ」
看護師に呼ばれて立ち上がる。室内へ入ると、顔を上げた医者が柔和な笑みを浮かべて目の前の椅子へと促した。
「こんにちは、どうぞ座ってください」
「失礼します」
軽く会釈して腰を下ろす。毎月のことながら、カルテを捲ってうんうんと頷いている医者に声をかけるタイミングを測りかね、静かに膝を見下ろしている。ティッシュまみれのパパゲーノを思い出すと、ほんの少し息が楽になる気がする。
「最近、お仕事の方はどうですか」
穏やかな声、なんてことない世間話。なのに早速、未だ要と会えていないことを責められているように聞こえてしまう。身体がこわばって、勝手に喉がつっかえる。
「えっと、その、おかげさまで順調です。PBBの……ええと、こましかの余韻もあるのでしょう。ユニットとしての活動はそこまで忙しくありませんが」
「それは何よりです。こましかが流行ったときのように出突っ張りでは身体を壊してしまわないか心配ですが、忙しいのはいいですね。要さんの部屋もいっそう賑やかしくなってきて、壁なんかなかなか壮観ですよ」
「はい、今しがた見てきたところです」
壁に貼られたたくさんのポスターを思い出して、口角を上げる。一部は自分で貼ったんだろう。ガタガタに傾いているものが何枚かあった。
医者は笑みを返すようにゆったりと頷いて、ようやく顔を上げると、
「さて、要さんの経過についてですが」
と切り出した。
「おおむね順調です。特にリハビリは大変よく頑張っていますね。まだ眠っている時間も長いのでいつごろとはっきりしたことは言えませんが、この調子で続けて、痩せた筋肉が戻ってくれば自力で歩けるようになるでしょう」
差し出されたタブレット端末には、看護師に脚をマッサージしてもらっている要の姿が映っている。痛むのか、時折顔をしかめながらも看護師に励まされて、にこにこうれしそうに笑っている。
「自力で……そうですか」
スワイプされた画面には、続いてバーに掴まって歩く練習をする動画が再生される。何度も転びそうになりながらも、めげずに立ち上がる姿に目頭が熱くなる。本当ならこんな思いはしなくても、自由に好きなところへ歩いて行けたはずなのに。あの日のことは何度思い出しても怒りのあまり目が眩む。
「また、踊れるようになるでしょうか」
「そうですね。この調子でリハビリを続けて、心の方も落ち着いてくれば不可能ではないはずです」
心は身体のようにレントゲンを撮って見えるものではない。ステージで心も身体も壊されてしまった弟が再びステージに立つことができるのかという問いに、医者は無責任に断言することはしない。だから信頼しているのだが、俺はいつまでHiMERUでいればいいのか、今日も答えを得ることはできない。
「手の機能や食べる量など含めて身体の回復は進んでいますが、心の方はまだ、なんとも言えませんね。落ち着いて会話ができる日は以前に比べてずっと増えましたが、全てが元に戻ったように支離滅裂に喚く日も依然としてあります」
「ええ、看護師さんからある程度聞いているのです。どうも制服の、ブレザーを着た青年を……加害者たちと同じ服装の男性を見ると記憶の蓋が開いてしまうようですね」
先日は、同級生の見舞いに来ていた男子高校生を遠目に見て、ひどく暴れてしまったのだと看護師から電話があった。制服が玲明のものと似ていたらしい。要の心に残る傷は今も深い。
「お兄さんはまだ、要さんと話せないままですか」
不意に医者に問いかけられて、胃が鷲づかみにされたような気分になる。実の父親が異様に若く見えるせいで正確なことは分からないが、それよりは少しばかり年上なんだろう。穏やかに微笑む医者にはきっと、悪意なんて微塵もない。頭では分かっていても、責められているような気がしてやまない。
「はい……まだ一度も。いずれ『HiMERU』についてきちんと話さなければならないとは思っているのですが、それもどう説明したら要を傷つけずに済むのか、なんと言ったら伝わるのか分かりませんし……もう少し回復してからでも遅くのではないかと、まだその、考えあぐねているところです」
HiMERUについて説明するどころか、まずどんな顔で要の前に立てばいいのか、なんと声をかけていいのかも分からない。せっかく頼りにされていたのに、いい気になって弟の小さなうそにも気付けず、肝心な話は何もできないままみすみす危険に晒した無能な兄。相談もなく夢の続きを描き足して、弟に成り代わり、弟がいるべき場所で生きている。その分際で、要に何かを言う資格があるのかすら分からない。
「ええ、要さんにお仕事の話をするのは時期尚早かなというのは私も思います。もう少し心の整理がついてからでも十分遅くはないでしょう」
俯いて小指の先に触れると、桜河に握られた感触が残っている。待っとるから行ってき――また俺の願いに巻き込んで危ない目に遭わせてしまったばかりだったのに、居心地悪そうな桜河を置き去りにしようとしているのに、笑って背中を押してくれた。あのとき小さい子に言って聞かせるような言葉を選んだのは、俺の陰鬱とした気持ちに気付いていたからなのかもしれない。たぶん、まず病院まで付いて来てくれたことからしてそうだったんだろう。
「何もかも一度にと気負いすぎることはないんですよ。まずは天気の話から始めたっていいんです。天気の話なら、エレベーターに乗り合わせただけの他人とだってできるでしょう。少しずつ、できることから始めて続けていけばリハビリと同じで、次はもっと難しいことができるようになりますから」
とんと優しく肩を叩かれると、十も年下の子どもに戻されてしまったような気分になる。
結局のところ、俺を責めているのは医者ではなく、俺自身に他ならない。自分を責めれば責めるほど見舞いの足が遠のいてしまうことに、心のどこかでは気付いていても止められず、ついに1人では病院へ来ることさえ困難なほど怖くてたまらなくなってしまった。
「今度、折を見て……俺が会えそうなときに、要が起きていないか問い合わせさせていただいても構いませんか」
手のひらをきゅっと握って、なんとか声を絞り出す。まずは天気の話からでいい。具体的に諭されると、ほんの僅かでも肩の荷が軽くなったように感じた。真っ暗闇の中でぼんやりと行くべき道が見えたような気がした。
「もちろん構いませんよ。それでお越しいただいて、もし2人きりで会うのが難しいようなら、まずは私やスタッフが同席して世間話をするのもいいでしょう」
「分かりました、そうさせていただくかもしれません」
少しだけ目線を持ち上げてみると、医者はにこやかに笑ってこちらを見ている。
「要さんもお兄さんもよく頑張っています。点滴穿石と言うでしょう。あ、べつに親父ギャグで言っているわけではありませんよ。無理せず、ゆっくりでも進めば良いということです」
病院だから点滴なんて思い浮かびもしなかったのに大真面目に否定されて、ちょっと笑ってしまった。吹き出した弾みに目が合っても、もう責められているような気持ちにはならなかった。
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