スマートフォンが鳴り始めたのは、裏口でタクシーを待っている時だった。狙いすましたかのようなタイミングの良さに、面倒ごとの気配を感じ取る。
今夜は天城と椎名、桜河が3人で飲みに出ている。椎名が居酒屋のプレオープンに招待されたとかで、俺にも声はかかっていた。ソロでのラジオ出演があったので断ったが、きっと今ごろ、天城を中心に滅茶苦茶な飲み方をしているに違いない。
桜河と椎名には悪いが、気付かなかったことにしよう。着信を切りかけて、小さな違和感に気付く。酔った天城が俺を引きずり出したいのなら、桜河にかけさせるくらいの小細工はしてきそうなものだが――発信者は椎名だった。
「もしもし?」
「あ、HiMERUくん? お仕事はもう終わったっすか?」
「ええ、まあ」
椎名の疲れ果てた声色に嫌な予感をひしひしと感じながら、正直に申告する。
「はぁ、よかったっす。もう僕一人では手に負えなくて、助けに来てほしいんすけど」
「嫌ですけど」
間髪入れずに断ると、椎名の悲鳴が耳をつんざく。何事かと声をかけてもさっぱり応答がないあたり、状況は芳しくないらしい。
タクシーに乗り込んで、とりあえず居酒屋の方面へと向かってもらう。
天城が学生だったことなどそもそもありはしないのだが、あいつはいったい幾つになるまで学生のような飲み方をするつもりなんだろうか。目に浮かぶ惨事が少なくとも10通りはあって、こめかみを軽く押す。
落ち着いた頃合いを見計らってスマホを耳に当てると、椎名が
「こはくちゃん、大丈夫? 頭は打ってないっすか?」
と話しているのが聞こえる。
「桜河? 桜河がどうかしたんですか?」
てっきり天城が暴れていると思っていたのに、聞けば酔い潰れた桜河が、寝返りを打った弾みに掘りごたつへ落ちたらしい。天城は当然酔っ払っていて、椎名は
「助けてHiMERUくん。燐音くんは僕がなんとかするんで、こはくちゃんを迎えに来てあげてほしいっす」
と言い募る。
本当は、桜河がいる時点で行かないという選択肢はなかった。分かっていて、わざとらしくため息を吐いてみせる。渋々行くのだと、自分自身に言い聞かせるために。
「はあ、事情は分かりました。店の住所を教えてください……今回だけですよ」
調子よく褒め言葉を並べる椎名をあしらって、電話を切る。運転手に住所を告げ、到着までの間、目を瞑る。
桜河が20歳になって3ヶ月。ビールも飲めないくせしてめっぽう強い、あの子が酔って寝るなんて。底なしとはいえ、仕事で飲酒する機会が増える前に一度、身内の席で失敗しておいた方がいい――数多の失敗を経てきた天城の方針で、Crazy:Bの面子で飲むときは、予定が許せば特に止めないことにしていた。それにしたって限度があるだろう。いったいどれほど飲んだのか、想像もつかない。
店に着くと、個室の掘りごたつから桜河の上半身が生えている。椎名が途中で諦めたのか、邪魔されたか。
「HiMERUくん、来てくれたんすね」
後者だろうな。椎名は天城に絞め技を掛けられ、すぐ側の床に転がっている。
「燐音くん、起きて。放してほしいっす」
天城の尻を蹴って、椎名を引き剥がす。
「これは、確かに椎名一人に任せるのは酷でしたね」
椎名まで酔っ払っていたら目も当てられないことになっていた。いつも「お酒を飲むと胃に入る食べ物の量が減っちゃうんすよね」などと言っているので、最悪の事態を回避するために飲まなかったというわけではないだろうが、素面でいてくれて助かったことに違いはない。
「お会計は?」
「なんとか済ませてきたっす」
「そうですか。ではあとは各々頑張る方向で、反省会はまた後日としましょう」
分かりやすくげんなりした顔を見せる椎名の肩を叩き、桜河の前にしゃがみ込む。
顔色は悪くない。伸びをする猫のような体勢で、普段通りすやすやと寝息をたてる桜河がおかしくて、きゅっと頬をつまむ。指先が燃えるように熱い。
「桜河、起きてください。帰りますよ」
声のかけ方が悪かったのか、桜河は起きるどころか、カタツムリのように掘りごたつに入っていこうとする。
「ちょっと、桜河」
テーブルで頭を打たないよう、脇に手を差し込んで引っ張り出す。少し汗ばんだ桜河の身体はぐにゃぐにゃと、脱力こそしているものの重い。
「大きなカブみたいっすね」
「笑っている暇があるなら手を貸してもらえますか」
天城を抱えて帰るためのカロリーが必要なんだろうが、死屍累々といったこの状況で冷えたポテトをむさぼる椎名に笑いが込み上げて、尻餅をつく。天城は薄手のシャツで簀巻きにされ、大人しく眠っている。
なんとか収穫した桜河を床に転がして、なぜか片方だけ脱げている靴下を履かせる。
「桜河、ほら、帰りますよ」
ぺちぺちと頬を叩くと、桜河は薄目を開けて
「んにゃ」
と返事をする。
「んにゃ、じゃないでしょう。ほら起きてください、置いて帰りますよ」
「ひめるはん?」
起きているのかいないのか、切り傷ほどしか開いていない目を瞬かせる。
「ええ、HiMERUですよ。迎えに来ましたから、一緒に帰りましょう」
「うん、帰る……」
ん、と伸ばされた両手を引っ張り起こし、荷物を回収して、スニーカーを履かせる。幼稚園児の母親にでもなったような気分で、半ば背負うようにして腕を担ぐ。
椎名に軽く右手を上げて店を出ると、初夏の風がさあっと吹き抜ける。火照った身体に気持ちいいのか、桜河はまだ開いていない目を細め、小さく笑っている。
「タクシーには乗れそうですか? 吐き気はありませんか?」
「うん、寝てないよ」
微妙にかみ合わない会話に吹き出しそうになりながら、車内に桜河を押し込む。
「これで少しは懲りたでしょう」
俺の膝を枕代わりにした桜河は、走り出してすぐに眠ってしまった。固くて高さも合わないだろうに、気持ちよさそうにゆるむ頬を突く。
椎名に聞いても、特に変わった様子はなかったという。飲んだ量も普段と相違なく、スイッチが切れたように突然眠ってしまったらしい。許容量がどうというよりは、飲んだ酒が身体に合わなかったのかも知れない。居酒屋なのに、机には桂花陳酒の瓶が転がっていた。甘い酒を好む桜河が空けたのだろう。
車内で吐かなかっただけ上出来だと自分に言い聞かせ、寝こけている桜河を引きずって運ぶ。背は少しばかり俺の方が高いが、体重はほとんど変わらない。出会った頃は背負って運べたのに――筋肉質に育った桜河の身体は心底重い。
やっとの思いで玄関を抜け、ベッドに転がす。初めてのゲームセンターで三毛縞に取ってもらったという猫のぬいぐるみと目が合って、ちょっと笑ってしまう。すっかりくたびれた猫の目には、俺の顔も同じくらいくたびれて映っていることだろう。
窓を開け、風を通す。桜河の部屋はどうにも落ち着かない。物が溢れているわけでも散らかっているわけでもないのに、いつもどこか居心地が悪い。匂いかもしれない。お香のような和やかな匂いに混じって、ほんの少しだけ、エネルギーに満ちた人間の匂いがする。それが気になって、恥ずかしくて仕方がない。
夜とはいえ、この頃はじめじめと暑い日も出てきた。汗でぺったり貼り付いた前髪を剥がして、軽くすいてやる。床に座り込んで無防備な寝顔を見ていると、時折むにゃむにゃとくちびるが動く。あの頃と変わらない、子猫のような口もと。なのに、さっきから良からぬ考えばかりが浮かんでは消える。
罪を犯すならきっと、今をおいて他にない。これだけぐっすり眠っていれば、流石の桜河も気付かないに違いない。
頬に手を添えると、ぽてっと重みがかかる。冷たい手が気持ちいいのか、にっこり笑ってすり寄ってくる。甘えるような仕草がうれしくて、息が苦しい。純粋な好意を向けられるたび、胸に隠した邪な心が鈍く痛む。桜河を裏切っているような、だましているような、後ろめたい気持ちでいっぱいになる。
桜河が潰れることなんて、そうそうないだろう。だとしたら、これは千載一遇のチャンスだと思った。惨めな恋に身を焦がし続ける俺に与えられた、唯一無二の救いの機会。
一度だけでいい、それできっと全てを終わらせられる。死にゆく恋の餞に、たった一つだけ、罪を見逃してほしい。
起きて、止めて、起きないで。二つの気持ちがせめぎ合う。自分を止められないまま、髪を耳にかけ、ゆっくりと顔を近づける。薄く開いたくちびるから、ふわり、金木犀の匂いが立ち上る。甘い蜜に誘われたミツバチのように、見えない力に意識を奪われ、引き寄せられる。
そして――キスと呼んでいいのかすら分からない。つん、とか、ちょん、とか、その程度の刹那、上くちびるの先が微かに触れた。それだけで十分だった。幸福感も、罪悪感も。身体に収まりきらなかった感情が吐息になって漏れる。桜河に与えられた物を何一つ逃したくなくて、息を止める。
好きでごめん。桜河はHiMERUも俺も変わらず慕ってくれているのに、それだけでは足りなくなってしまってごめん。少し前までは「自分自身」さえも必要としていなかったはずなのに、いつの間にか桜河の心が欲しくてたまらなくなっていた。無くした物を一つ一つ取り戻すうち、期待することを覚えてしまった。諦めることを忘れてしまった。
でも、それも今日で終わり。壊さなくて済むように、汚さなくて済むようにと奥深くに隠してきた大切な心を今、自分の手で傷つけてしまった。
目元を抑え、早く帰ろうと足に力を込める。犯人は現場に留まってはならない、戻ってはならない。それが完全犯罪の鉄則。
けれど次の瞬間、膝はスプリングに押し返され、ベッドの軋む音がする。強い力で右腕を掴まれたまま、髪に手が差し込まれ、金木犀が強く香る。一瞬のことに状況把握も出来ぬまま、くちびるがやわらかく押し包まれる。
小さな光が幾つも弾けて、目が眩む。かろうじて立てていた腕が頽れ、崩れ落ちる。桜河の熱と匂いに閉じ込められて、今このまま死んでしまってもいいとさえ思った。
犯した罪を償わず、桜河が誰と間違えてこんなことをしているのか知らないまま、消えてなくなってしまいたい。残された要が独りぼっちにならないのなら、舌を噛み切っても構わない。くちびるさえ残れば、あの世で何度も思い出せる。
せめてと息を止めていると、熱い手が左頬を撫で、髪をすく。優しい手つきに力が抜けた一瞬をついて、ぬらりと舌が割り込んでくる。桜河はもう酒を飲める歳になったのに、知らぬ間にそんな芸当が出来るようになっていたという事実に打ちのめされる。自分が自分で嫌になる。誰かの代わりになるくらいなら、幸せの絶頂で死んでおけばよかった。
桜河が外へ出てもう5年。アイドルとして完璧に隠しているとはいえ、恋の一つや二つ経験していてもおかしくない年頃になった。ましてや今は寮暮らしでもない。また明日と笑って別れた後、桜河がどこでどうしているかなんて俺は知らない。それでよかった。知らなければ、こんな惨めな思いをすることもなかった。
心とは裏腹に絆されていく身体を強引に引き剥がし、乱暴にくちびるを擦る。とろんとした桜河の目と目が合って、全身の血がさっと引く。過呼吸を起こしそうになって、手で顔を覆い、たっぷり時間をかけて息を吐く。言い訳のしようも無い。もう何年もずっと好きで苦しかったから、最後に思い出が欲しかったから。全て正直にぶちまけて謝るべきか――酸欠の頭で必死に考える。
恐る恐る目を開けると、ぷつりと糸が切れたように桜河は寝ていた。ふくふくと頬を膨らませて、幸せそうな表情で。
俺がいた痕跡を部屋中から消して、マンションを飛び出した。早足で夜道を抜けながら電話をかけ、椎名を叩き起こす。焼き肉食べ放題と引き換えに、俺が桜河を連れ帰ったという証言をもみ消して、家路を急ぐ。今すぐにでも風呂に入って、熱いシャワーを浴びたい気分だった。
ほとんど眠れないまま朝を迎えた重たい頭で新聞に目を通し、珈琲を啜る。久しぶりのオフは書店巡りでもしようかと考えていたのに、さっぱり家を出る気にならない。滑っていく目を1行目に戻し、同じ記事を読み直す。
昨夜、風呂に入る前になってイヤーカフがなくなっていることに気が付いた。もし桜河の部屋で落としたのだとしたら――いや、髪の1本まで拾ったのに、アクセサリーを落として分からないはずがない。堂々巡りを続ける頭を軽く振って、また一口珈琲を啜る。
同じ動作を何度も繰り返していると、インターホンが鳴った。モニターに8階の景色と帽子が映っているのを見て、玄関へと向かう。頼んでいた荷物を思い出せないまま、ドアを開けると桜河が立っていた。
「おはよう、ごめん寝とった?」
二日酔いどころか、走ってきたのか頬が紅潮している。肩で息をする桜河をポーチへ招き入れ、冷や汗が噴き出しそうな心を必死で静める。
「おはようございます……いえ、起きてはいましたが」
部屋へ上げていいものか。考えあぐねていると、桜河は突如、飛びつくように俺の首に腕を回す。
「夢やなかった」
昨夜と同じくらい熱い身体を抱き留めて、何が起きているのか考える。
「また夢見てるんかなっち思ってたんやけど、違った。なあ、ぬしはんもわしのこと好きなんやろ?」
ぎゅうぎゅうと抱きしめられて息が苦しくなる。背中をとんとんと叩くと、
「堪忍な、うれしくて力加減できんかったわ」
と解放される。
「けほっ……桜河、その、今なんて言いました?」
「うれしくて力加減できんかった?」
「いえ、その前です。夢がどうとか」
終わりにするんじゃなかったのか。自分でも呆れてしまうほど、心臓が激しく鳴っている。
「わしな、ぬしはんのことが好きやから……だから、夕べもまた都合の良い夢見てるんやなっち思ってたんやけど、ぬしはんが見たことない顔しとったから、もしかして夢じゃないんかなっち思って」
差し出された拳をぼんやりと見つめていると、手を掬い取られる。
「だからな、掴んでおいたんよ」
「掴んだ?」
「うん、これが証拠じゃ」
開いた手のひらに、桜河の体温が移ったステンレスがころんと転がる。昨夜失くした左耳のイヤーカフ。
「な、ぬしはんもわしのこと好きなんやろ? だからキスしたんやろ?」
すがるような目を向けられて、息を呑む。切なくてたまらないような、昨夜と同じ表情をしている。
「怒ってないんですか?」
やっとの思いで声を絞り出す。言わなければならないことは沢山あるはずなのに、よりにもよってそんな言葉しか出てこない。
「なんで怒るん?」
「それは……桜河の気持ちを確かめずにしてしまったから」
しどろもどろになって答える。今、自分がどんな顔をしているのか、どういう顔をすればいいのかが一つも分からない。
「まあ、強いて言うなら初めてのキスはもうちょっとかっこつけたかったけど。酔っ払って寝てもて夢か現実か分からんなんて、燐音はんじゃないんやから」
「初めて?」
「え? うん。だって復学したくらいからずっとぬしはんのこと好きやってんもん」
何か問題でもあるのかと首を傾げられ、笑ってしまいそうになる。昨日は地球が滅んでしまえばいいとさえ思っていたのに、全て思い込みで絶望していたなんて。
「でもドラマがあったじゃないですか、学園モノの。あったでしょう、キスシーン」
「学園ドラマ? あ、えっ? ぬしはん見てなかったんか?」
目をぱちくりとさせて、桜河が素っ頓狂な声を上げる。桜河の出演したドラマで唯一、その最終話だけは見たことがない。
シナモンで2人きりの日、今度出演するドラマにキスシーンがあるのだと、恥ずかしそうに相談された。平静を装ってあれこれと教えておいて、結果を確認するような余裕はなかった。桜河が他の人とキスするところなんて見たくなかった。それも小柄な年下の女優が相手なんて、耐えがたかった。
そう正直に明かすと、桜河は
「せっかく教えてもらったのに格好悪いと思って言わんかったんやけど」
と言って、頬を掻く。
「あれな、相手の女優はんも初めてやっち言うて、緊張して泣き出してしもてん。だから監督はんらが、もう埒あかんからしてないけどしてるみたいにしようっち言うてな。だから結局してないんじゃ」
手をきゅっと握られて、分かったかと覗き込まれる。未だ靴を履いたままの桜河は、小さく首を傾げて、
「でも待って、あのドラマって3年くらい前やろ? わしらずっと、あの、なんて言うんやっけ。斑はんとニキはんらがやってたドラマ」
「両片思いですか?」
「そう、それやったっちこと?」
耐えられないというふうに笑い出した桜河につられて、
「そうみたいですね」
と笑いながら気付く。まだ肝心なことを言っていない。
「ずっと前から桜河のことが好きでしたよ」
手を握り返すと、桜河は照れくさそうににっと笑って、
「わしも」
と言った。
※コメントは最大5000文字、5回まで送信できます