この世には、額面通りに受け取ってはいけない言葉というのがいくつか存在する。
例えば「行けたら行きます」。本当に行けたら行こうと思っている人もまれにいるものの、体の良い断り文句として用いられることが圧倒的に多い。
「ここだけの話」や「みんなが言っている」。あとは、「あなたのためを思って」もそう。言っている本人はそれが真実だと信じていることもあるけれど、たいていの場合、事実ではない。
「友達の話なんやけどな?」
サクラくんが重い口を開いた時、オレはちょうど、ぬるくなったお茶を嚥下するところだった。机に二つ並んだ手つかずの大福に一度ラップをかけようか、このままでいいか、ぼんやりと考えていた。
予想外の角度から来ましたねぇ、強めのフックが。漫画やドラマではお決まりのフレーズとされていても、実際耳にするのは初めてだ。オレが読んだことのある漫画では、「友達の話」というのは基本的に自分自身の話で、それも恋愛の話に多く使われていた。
ぐ、と詰まった喉を咳払いで整える。噎せて、話の腰を折ってしまわなくて良かった。サクラくんが復学してもう随分経つ。案外、本当に友達の話をしたいのかも知れない。
「はい、どうしました?」
マグカップを置いて、サクラくんの方へと向き直る。
このところ、どう見ても何かに悩んでいるふうだった。明らかに口数が減っているし、ため息をよく吐いている。ぴょこぴょこ跳ねた毛先さえ、心なしか元気が無いように見える始末。
本人は隠そうとしていても、サクラくんはけっこう分かりやすい。茨にそう言うと、
「それはジュンが信頼されているからでは? 自分の前ではなかなかどうして、あらゆる感情を器用に隠して見せますよ」
と乾いた笑い声を上げていた。
サクラくんの悩みがオレの予想していた「何か」なら、正直言ってオレにどうこうできることがあるとは思えない。けれど、サクラくんがオレを頼ってくれるのなら、話を聞くことくらいしかできないとしても、できるだけのことはしてあげたいと思っていた。
「あのな、その、友達の話やで?」
サクラくんはもう一度念押しして、小皿の大福をつつく。焦げ茶色の豆がごろごろ埋まった大福は、サクラくんの大のお気に入りらしい。今日の帰り、半ば押しつけるようにしてHiMERUに渡された。
うつむいたまま、人差し指でぐいぐいと豆を押し込んで、サクラくんは言葉を探している。どんどん赤みを帯びていく頬を見ない振りして、
「はい、サクラくんの友達の話ですね」
と復唱する。
「友達の、その、好きな人がおるらしいんやけどな?」
ああ、これはやっぱりサクラくん自身の話なんでしょうねぇ。仰け反りそうになる身体を制止して、目を閉じる。声がひっくり返ったのにも気付いていないことにして、
「はい、そうなんすね」
と相槌を打つ。
オレは今、とんでもない話を聞こうとしているんじゃないか。人の秘密を知るのはあまり好きじゃない。聞いた分だけ、抱えなければならない荷物が増えてしまう。まして、サクラくんの秘密だ。「ここだけの話」にするわけにはいかない。
そう固く身構えた胸の奥底で、「信頼されている」という言葉がふわふわと揺れて、変にどきどきしてしまう。巽先輩のようにはいかなくても、オレを選んでくれたサクラくんの話をちゃんと聞いてあげたい。背筋を伸ばして、聞く姿勢を取る。
でも、サクラくんは妙に聞き覚えのある話を始めてしまった。
「友達の好きな人にな、その、かの……好きな人がおるかもしれんっち噂が出たんよ。まあその、結局のところ周りの早とちりやったっちゅうか、好きな人はおらんっち話になったんやけど」
彼女って言いかけちまってますよ、サクラくん。至極真面目な顔を繕って、
「へえ。その友達の好きな人にしたら大迷惑な話ですね」
とかなんとか言いながら、心の中では頭を抱えている。好きな人、好きな人か。
オレ、その話知っていますとは間違っても言えなくて、余計なことを口走らないように大福で蓋をする。豆にしっかりと塩が効いていて美味い。
「その、友達の好きな人の好きな人っち噂になった人が、友達の好きな人のことが好きやったらしいんよ。ほんで、外堀から固めるっち言うの? 付き合っとるっち噂を流したんやと」
一見ごちゃごちゃとしたややこしい話がするする理解できるのは、登場人物の顔が浮かぶからに他ならない。
噂なんてかわいいもんじゃありませんでしたけどね。週刊誌の記者と内通して、立ち話の様子をそれっぽく撮らせるなんて、常人の発想じゃないです。あの感じだと、他にも被害者はいるんじゃないですか。ドラマの相手役だったとはいえ、件の女優はオレたちより一回りは年上で、だいたい誰がスタジオのど近所での世間話にまで神経を尖らせていられるんだって話ですよ。
「なんていうか、ありがちっちゃありがちですけど、嫌な話っすね」
本当に嫌な話だった。声に実感がこもりすぎてしまったかと心配したものの、サクラくんも心底嫌そうな顔で頷いているのでほっとする。
とはいえ、事態は3日と経たずに収束した。どこから集めてきたのか知りたくも無いような数の証拠を提示してES側が抗議した、というより、そもそもHiMERUのファンを含めて誰も記事を信じていなかったのが大きかった。
それが、先月の話。その頃からサクラくんの元気がないので、彼を悩ませている「何か」はHiMERUの話ではないかと予想していた。
果たして、予想は当たっちまったわけですが。でも、どうやらサクラくんにとっての本題は、HiMERUの受けた被害そのものについてではないらしい。
「でもな、わ……その友達はな、噂を聞いてから色々考えたんよ」
懸命に言葉を紡ごうとする、頬が空気で膨らんでいる。
「友達はな、その人と一緒におるんが一番楽しくて……うれしくて、べつに恋人とかそういうのにはならんくても良ぇ、ただずっと一緒におりたいなっち思っとるんやけど……でもな、好きな人は同じ気持ちじゃないかもしれないっちことに気付いてしもたんよ。今回は違ったけど、いつか他に……なんて言えば良ぇんやろか?」
小さな声は、カップに吸い込まれて消えていく。でも、言いたいことはなんとなく分かる気がした。
「サクラくんの友達はもしかしてですけど、なんかこう、寂しくなっちまったんじゃないですか?」
相手が好きな人じゃなく友達同士でも、好意の天秤が傾いてしまっているような、置いていかれたような変な寂寥感――あるいは嫉妬と呼ぶべきなのか――を感じることはある。子どもの頃は特に。
「なんで分かるん? ジュンはんも好きな人おるん?」
サクラくんは、これまでの人生で一度もそんなふうに感じたことがなかったんだろうか。弾かれたように顔を上げ、目を見開くさまに少しばかり面食らう。
「えっ、ううん、なんて言えばいいんですかね。それはわりと一般的な感情というか……例えば、メアリがおひいさんやオレより燐音先輩の方が好きだとします。誰が好きかはメアリの自由なのに、なんでオレじゃないんだろうって、なんかもやっとしませんか?」
「する」
自分で言っておいて微妙な例えだなと思っているのに、サクラくんはすんなり頷いてしまった。うつむいたまま、押し黙って考え込んでいる。
すっかり赤みの引いた頬を眺めて、冷えきったお茶をすする。サクラくんの大福は、表面が乾いてしわしわに萎んでしまっている。本人の眉間にも、似合わないしわが寄っている。
たっぷり10分考えて、サクラくんは
「でも、わしがその人を一番好きやからって、相手にもわしのことを一番好きでおってほしいなんて思うのは、なんかこう、勝手やない?」
と呟いた。
「それは」
そういうものなんじゃないですかね。喉元まで出かかった言葉をすんでのところで飲み込む。
「あなたのためを思って」じゃないけれど、恋であれ何であれ、愛情というのは基本的にエゴと紙一重の場所にあるように思う。でも、サクラくんのそれは、エゴと呼ぶには柔らかく、白すぎるような気がした。前に椎名先輩に見せてもらった、焼く直前のパン生地みたいな感情。
「それは、自然なことなんじゃないですか? 好きな人に好きになってもらいたいと思うことは、全然悪いことじゃないとオレは思いますよ。そりゃ、断られたのにしつこく迫ったり、付き合ってるなんて噂を流したり、そういうのは勝手すぎますけど」
あれこれ考えてはみたけれど、結局、さらっと口から出てきた言葉が一番本心に近かった。
サクラくんの言う「好き」が恋愛的なものなのかどうかも分からない。本人さえ、本当のところはよく分かっていないのかもしれない。恋愛感情だとすれば、男同士だとかいろいろ問題はあるだろうが、少なくともHiMERUはサクラくんに慕われて迷惑しているようには思えない。
「そうかな……うん、そういうもんかもしれんな。おおきに、ジュンはん」
「いいえ、どういたしまして」
一応納得した様子で豆大福に手を伸ばすサクラくんのカップを取り、お茶を注ぎ足す。
「ん、美味しい。これ芳月堂のやない?」
もっちゃもっちゃと餅を噛み、収縮する頬。すっかり元気な、うれしそうな顔を見ていると、なんとも言えない気持ちが湧いてくる。例えるなら「心配して損した」ような脱力感というか。ま、聞いてみて良かったですけどね。やっぱりサクラくんが元気でいてくれる方が、オレも楽しく過ごせますし。
「それ、サクラくんが好きだからってHiMERUが持たせてくれたんですよ」
自分で渡した方がサクラくんも喜んでくれたでしょうに、元気づけたかったなら、どうしてオレに渡すんですかねぇ。咳き込んだサクラくんの背中をさすりながら考える。HiMERUのことは、相変わらずよく分からない。あれでも昔は、サクラくんみたいに分かりやすかったはずなのに。
「ところでサクラくん、その友達の話ですけど」
「えっ、なに?」
「ここだけの話にしておきましょうか。その友達も、あまり人に知られたい話ではないでしょうし」
ちなみに、この場合は本当にここだけの話。ニッと笑い、食器を手に立ち上がる。
「あ、そうか……そうやな。おおきにジュンはん」
「ええ、茨に知れたら大目玉を食らいますから……って、やべ」
あくまで「友達の話」にしておくつもりでそう言ったのに、久しぶりにサクラくんの満面の笑みを見たら、安心してぽろっと漏らしてしまった。
「なっ、ぬっ、分かっ」
サクラくんはしばらく口をぱくぱくさせた後、真っ赤になって叫んだ。
「こんな恥ずかしい話、ジュンはんにしかせんわ!」
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