傍観者Aの独白

 木陰の中を歩いていたのに、手元の紙が目映く光った。ブラウスの肘が汗ばむほどの陽光に、見えない光がチカチカと舞う。撮影が押しているわけでもないのに、資料を見ながら歩いてしまうのは良くない癖だ――頭では分かっている。

 バインダーを閉じて顔を上げると、モンシロチョウが1匹、ひらひら視界を横切った。春風に流されながら、どこか目的地があるのか。そこら中に生えた野草の花には目もくれず、前へと進む三角形。なんとなく目で追っていると、ひらり、ギンガムチェックの膝にとまった。

 ガードレールに腰掛ける桜河くんの、放り出された長い脚。Crazy:Bの4人でいると、つい目線が上向きに固定されてしまうけれど、こうして1人佇んでいるのを見ると、彼もとんでもなくスタイルが良い。

 朝番組の新コーナー【てくてく♪こはくさんぽ】用に用意された衣装は春らしく、やや可愛らしいテイストだったものの、桜河くんは気にする素振りを見せなかった。桜河くんにとって、ギンガムチェックと千鳥格子はあまり違いがないのかもしれない。

 少し背を丸くして目を細め、柔らかな髪を風にそよがせている横顔は、この1年で精悍さを増した。それなのに、いったいどういうわけだろう。ほんのちょっとだけ、子どものころ隣のうちで飼われていたゴールデンレトリバーに似ている。

 遠くでパーッとクラクションが鳴って、小さな羽ごと膝が跳ねる。飛び立って初めてチョウに気付いた様子の桜河くんは、つられて目線を上げたまま、スローモーションみたいに大きく二つ瞬いた。

 眠いよね、早かったもんね。思わず緩んでしまいそうな口もとをきゅっと締めて、あたりを軽く見渡した。本番までまだ少し時間がある。自動販売機でコーヒーでも買ってきてあげよう――あれ、桜河くんはコーヒー飲めるんだったっけ――と思い立ち、通りの角へと急いで向かう。

 人の視線や気配に敏感なはずの桜河くんが、くわぁと大きく欠伸をしていた。私の視線には気付かないまま、にゃむにゃむと眠気を噛み殺して、うっすら涙を浮かべていた。

 大人びて感じることも多いけど、ああやって見るとまだまだ子どもみたいでかわいいな。本人には絶対に知られてはいけない感想を胸に、青く光ったボタンを押す。

 ガコン。冷えたレモンスカッシュを取り出しながら、つい最近、誰かも同じことを言っていたなと思いだした。桜河くんが眠たそうにしていたのが子どもみたいでかわいかった――たしかに、そんな話を聞いた。それも、随分うれしそうな声で、とっておきの秘密を打ち明けるみたいに。

 炭酸を揺らさないように早足で戻ると、桜河くんはうすく、気持ちよさげに微笑んで、舞い散る桜を見上げていた。まだ優しい日差しが髪を透かすように溶け込んでいて、つくづく春が似合う子だなと思う。

「プロデューサーはん?」

 水彩画みたいだと、ぼんやり眺める私の視線にようやく気付いた桜河くんは、やや緩慢な動作で首を傾げる。

「桜河くん、眠いでしょ。冷たい飲み物買ってきたよ」

 コーヒーとレモンスカッシュを差し出すと、桜河くんはおおきにと笑って、レモンスカッシュを手に取った。吹き出す音に備えてか、キャップを開けるときに軽く目を閉じるのを初めて知った。

「仕事、忙しい? そうでなくても春って眠たくなるのにね」

 余ったコーヒーを開けながら尋ねると、桜河くんはちょっと恥ずかしそうに立って、また座った。

「さっき欠伸してたん、見られてしもた?」

「ふふ、ちょうちょが止まってるのも見たよ」

「えっ、うそ。わし、そんなにずっとぼーっとしてたん?」

 頭を抱える左手の先に、花びらがふわりと舞い落ちる。チョウにも花にも太陽にも、みんなに好かれて大変だな。笑いながら摘まみ上げると、花びらは風にぴらぴら掠われていった。

「そういえば、この間もえらい天気で眠とうてな」

 にわかに慌ただしくなったスタッフさんたちの気配に、桜河くんは立ち上がりながら軽く身なりを整える。レモンスカッシュを受け取り、背面をチェックしながら相槌を打つと、また少し背が伸びたような気がした。

「欠伸をしてたら、HiMERUはんに優しい視線を向けられたわ。何やったんやろ……?」

 続く言葉を聞きながら、私の頭はうっかり落としたレモンスカッシュみたいに白く泡立っていた。つい最近、眠たげな桜河くんがかわいらしかったと話していたのは、そうだ、HiMERUさんだった。

「それは、えっと、何だったんだろうね?」

 ぷしゅっと気が抜けた頭の隅で、考えながら言葉を絞り出す。私はいったい、何を聞かされているんだろう。

 あの日だまりを、水彩画みたいな光景を、木陰で見ていたHiMERUさんの目がぱっと浮かんで、自分でもよく分からないくらい気恥ずかしかった。

 荷物を小脇に抱えて、ブラウスの袖をたくし上げる。襟元をぱたぱたはたいていると、ほな行ってくるわと振り向いた桜河くんがぎょっと大きく目を見開いた。

「どないしたん、ぬしはん、顔真っ赤やで?」

「うん、ごめん、ちょっと暑くて。大丈夫だから、桜河くんは気にしないで本番頑張ってね」

 気遣う背中を見送ってから電信柱にそっと寄りかかり、アイスコーヒーを飲み干す。空いた容器を頬に当てると、しっとりと冷たかった。

 何だったんだろうね――思考の隅へと追いやりながら、中継が降りるまでのカウントダウンを聞いている。

 HiMERUさんが年下の子に優しい眼差しを向けるのは、べつに珍しいことじゃない。あの人はあれで面倒見が良いし、いつも傍にいる桜河くんは特別かわいいんだろうなと思う。

 私にとっては、あの無防備な欠伸の最中、HiMERUさんの視線は捉えていた桜河くんの方がずっと……ずっと、何だったんだろう。

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