第八夜

 日焼けてくすんだモルタルに、ガラスが2枚埋まっている。閉ざされた重いカーテン。灰色に浮かぶ鏡の世界は、日が昇るごとに輪郭の濃さを増していく。白い月、棚引くすじ雲、赤茶けた木の葉にビル群のジオラマ。

 空っ風が吹いて、枝先にセキレイが止まる。目が回るほどの揺れを都度やり過ごしては、飽きもせず、ただ窓を覗いている。

 やがて静かに幕は開き、現れた初老の女がタッセルを手に窓を開ける。くっと引っかかる癖をものともしない力強さに、鳥はこぞって逃げ惑う。

「要くーん、朝だよ。おはよう。今日はあったかくなるよー」

 目を閉じて揺られていると、ハスキーな声がのんびりと響く。要の一日がそっと始まる。こんなことだけは馬鹿らしいほど平等に、弟の分も用意されている。

 あの子は今日も目覚めないまま、看護師の手を借りて寝返りを打つ。手際よく布団を直すカーディガンの袖。ちらりと覗いた白いつま先。あと少し枝が伸びたなら、あの子の寝顔も見えたのに。

 気が付くと、俺はひとひらの葉だった。雨に濡れ、風に吹かれて、来る日も来る日も窓を見ている。窓を――上下するリネンを、時折増えるポスターを、軽く握った右手から戻らない時が流れ落ちるのを――じっと眺めて日が暮れる。

 日照りの夏が往って、瞬く間の秋が過ぎた。柔く青かった身体はいつしか固く黄みがかり、樹は日ごと張りを失くしていく。

 ひら、はら。葉が散るごとに焦りが募る。要は今日も目覚めない。視界は徐々に拓けていくのに、カーテンが降りる時間は早くなる。鈍色の窓に塗り込むように、日増しに雲が重くなる。

 ひらひら、はらはら。葉が舞うごとに恐怖が募る。散ればどうなってしまうのか。弟は、俺は――聞ける相手など見当たらず、叫びたい衝動を飲み下す。

 遠くの空が光っている。びりびり震える窓ガラス。要、かなめ、お兄ちゃんはここにいるからと、呼びかける声は雨風に消され、容赦なく追撃が降る。

 ぼんやり透ける蛍光灯に、髪を振り乱す子どもの影絵。轟くのは雷鳴か悲鳴か判別がつかない。

 あの日も、こんな雨だった。群衆の壁に阻まれて手も足も出せず、ただ一人の弟が壊されるさまを間近で見ていた。

 目が眩むほどの稲光。殴りつけるような氷雨に打たれて、必死で小枝にしがみつく。

 冷え切った手はとうに感覚を無くし、ぶら下がる腕に血が巡らない。泥水に濡れた身体は破れ、暴れ、もがいて、ついに最後の葉になった。

 飛ばされてしまえば楽になれるか。それが俺への救いなら、あの子の救いはどこにあるのか。

「お母さん」

 要の声がごうごう響く。そうやって呼んで、泣いて叫んで、母親が来てくれたことはあったのだろうか。俺は弟のことを何も知らない。

 風に手を剥がされてはよじ登り、死ぬ気で小枝に齧り付く。そうまでしていったい、あとどれくらいの間ここに留まることができるのか。

 和らいだ風で顔を拭い、動かない影に息を吐く。このまま、一刻も早く朝が来ればいいのに。

「巽、巽先輩」

 波打つ風の隙間に、消え入りそうな声がはっきりと聞こえた。はっとして見れば胸元で組まれた両手。聖画のような淡い影絵に、目の前がかっと白くなる。風早巽、風早巽、風早巽! 怒れど叫べど雷は落ちず、身構えた指がめりりと痛む。

 あいつは俺に気付けなかった。俺がお前じゃないことは漣ですら訝しむのにお前の相棒は、風早巽は、見た目や嘘にだまされて、お前の名前で俺を呼んだんだ。お前はまだここにいるのに、あいつだけは全て終わったような顔をして、お前を過去に置き去りにして、俺をお前だと信じている。

 許せない。渾身の力を込めて拳を打てば、弾みで身体がひらひら舞った。澄んだ青がくるくる回って、ふわり空へと浮き上がる。

 よく晴れた、冬の朝。開いたカーテンの間に要の寝顔が覗いている。幸せな夢を見ているのか、笑っているような幼い口もと。点滴の右手はHiMERUのぬいぐるみと繋がれている。

 許せないのは自分自身なのに、このまま終わってしまうのか。遠のく太陽に目が灼ける。

「要」

 吸い付くような重力を感じながら、縋る思いで手を伸ばす。回りながら落ちていく頭、背中から吹き上げる風、嘘みたいな青空。それでも諦めるわけにはいかず、虚空を掻いてもがき続ける。

 叫び、祈り、万策尽きてとうとう地面が迫ったそのとき、はしと皮膚打つ音がした。

「何しとん」

 素っ頓狂な声に顔を上げる。血管が走る腕の先に、顎を引いて踏ん張る桜河がいた。

「ぬしはん、ダンスは上手いのに木登り下手なん?」

 並んで幹に腰掛けて、夕焼けの街に病院を見つける。

「そういうわけでもないのですが」

 疲れていたからと弁明すると、桜河は「盛大に落ちかけといてよう言うわ」と笑った。溢れたくせ毛に日が差して、柔らかく光る。

 そして気付いた。あれは、俺は桜だった。

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2026年1月4日