それは、いっそ神秘的な光景だった。厳かで、秘めやかで、清らかな、祈りにも似た行為。まるでいつか見た宗教画のようだった。やわらかな明かりに包まれた天使が空から舞い降りて、福音を告げる。あれはどこで見たんだろう。大学の図書館、講堂、礼拝堂……それとも避暑に入った小さな美術館だっただろうか。どこでもいい。これが都合の良い夢でないならば、もう、何もかもがどうでもよかった。
▼こはく
行き交う貨物船、ごった返す中華街、天と地がひっくり返ったような夜景。旅番組で訪れた港町は、整然とした街並みこそ生活圏内と変わらないものの、初めて見る物で溢れかえっていて心が躍った。「ナンバーエイト」で堪能した西海岸の海とはまた違う風情。潮風でかき混ぜられた髪がパサつき、肌がベタベタすることさえ除けば、海のある街に住むのも悪くないなと思った。
ロケは順調に進み、全行程が終了する頃には1時間巻きになっていた。夜8時半。星奏館へ帰る電車はまだ何本か残っていたけれど、もともと未成年が移動するには遅い時間になるからと番組側が宿を用意してくれていた。翌日がオフなこともあり――というよりは、ゲームに負けて焼き小籠包を食べ逃したニキはんの強い希望があり――厚意に甘えて1泊することに決まった。
スタッフはんから鍵を受け取って戻ってきた燐音はんが、カードを1枚HiMERUはんに手渡す。残りの1枚を自分のポケットに突っ込むのを見て、悟った。あ、今日2人部屋の日か。
手配してもらう部屋は時々4人同じか、2人部屋になることがある。そして後者の場合は燐音はんとニキはん、HiMERUはんとわしに分かれるのが暗黙の了解。この前の雨の日もそうだった。というか、HiMERUはんと2人で泊まるのはその日以来。正直なところ、ほんの少し緊張してしまう。
HiMERUはんはどんな顔してんねやろ。こないだのこと、気まずくはないかな。そっと顔を伺う。けれど、ライトに背を向けて立っているHiMERUはんの表情を読み取ることは叶わなかった。
上階の燐音はんたちとエレベーターで分かれ、部屋へと向かう。今日最後に会うのも、明日最初に会うのも好きな人というのはうれしい。聞こえてしまわないか心配になるくらい、ドキドキと胸が高鳴っている。一方で…… 不安も感じている。想いがバレたらどうしようとか、寝られんかったらどうしようとか。それに、さっきからHiMERUはんが一言もしゃべらない。
足早に歩く背中を追い、つま先を見つめて進む。わしも黙っている。緊張のせいか、適当な話題がさっぱり見つからない。廊下に敷かれたふかふかのカーペットが足音すら吸い込んでしまって、沈黙が際立つのが嫌だった。
突き当たりの一つ手前の扉で立ち止まって、ドアにカードキーを翳す。812号室。ピッと音が鳴り、解錠される。HiMERUはんは荷物を肩にかけ直すと、ノブを押し開けて中に入っていった。
こんな空気が部屋に満ちてしまう前になんとか打開しようと、背中へ向かってわざと明るく
「また一晩よろしゅうに」
と声をかけてみる。ところが次の瞬間、その背中にぶつかってしまった。
「わっ堪忍。どしたん?急に立ち止まって」
「いえ……すみません桜河。どうも、HiMERUたちは部屋を間違えたようです」
そう言って踵を返すHiMERUはんと、今度は真正面からぶつかりかけて身をかわす。角の先に、1人で寝るには大きすぎるベッドが鎮座しているのが見えた。問題は、どう見てもその1台しか寝具がないこと。
「おん、間違いやなこれは」
こっくりとうなずく。
こういう時、どうしたら良ぇんやろ。戸惑っていると、HiMERUはんは軽く微笑んで、内線の受話器を取った。
「もしもし……ええ、部屋がセミダブルだったのですが、何かの手違いではないかと……なるほど、他にツインやシングルの部屋は空いていませんか?」
落ち着いた声でフロントに問い合わせる横顔を、荷物を抱えたまま突っ立って眺めている。わしなんて、よう知らん人と電話せなあかん時は自分が何を言ってるのか分からんくなってしまうことがあるもんやけど流石、大人みたいやな。ぼんやりとそう思ってから、ざらざらした気持ちになった。もっと近くに行きたいのに、自ら距離を感じるなんてどうかしている。
「桜河、荷物重いでしょう。まだかかりそうですから、ソファーに腰掛けて待っていてください」
「ん……おおきに」
かといってどうすることもできないので、おとなしく言われたとおりにする。HiMERUはんは今度はスマホを取り出して、誰かに電話をかけ始めた。
「天城?HiMERUですが」
スマホを耳に当て、苛立たしげに部屋を歩き回るHiMERUはんをじっと見上げている。かれこれ5分、話は平行線を辿っている。
「ですから、何度も言っているでしょう。というか、今どこにいるんです?背後が騒々しくて声がうまく…… は?中華街?」
どうやら、燐音はんとニキはん、スタッフの人らはそろって中華街へ繰り出したらしい。フロントに聞いても他に空いている部屋はなく、勝手に宿を移るわけにもいかない。それで燐音はんに連絡したものの、ずっとこんな調子。髪をかき上げてため息を吐くHiMERUはんの、その仕草の色っぽさにうっとり見とれてしまう。
わしは部屋をどうにか変更したいと奔走するHiMERUはんに表向き同調しつつ、心のどこかでは降って湧いた幸運に喜んでしまっている。好きな人と同じ部屋だというだけで緊張しているのに、同じベッドで寝るなんてとてつもなく恥ずかしい。けど、手を伸ばせば届く距離に一晩HiMERUはんがいてくれるなんて、夢みたいな話や。
まあ、でもそんなうまい話は無いわな。わしにとっての夢みたいな状況を回避するため、早口にまくし立てるHiMERUはんの姿を盗み見て、静かに観念する。わしがどんなにうれしかったとしても、同じ気持ちじゃなかったら何の意味も無い。この部屋はHiMERUはんに使ってもらって、わしはどっかで野宿でもしよか。行く当てを探してスマホを取り出す。
「ああ、はい、もうわかりましたので。では」
そうこうしているうちに電話が終わった。HiMERUはんはよほど疲れたのか、手で目を覆い、その場に立ち尽くしている。
「ひ、HiMERUはん? 燐音はんはなんて?」
「天城は……天城が代わりに桜河と寝てもいいと」
肩をすくめ、こちらへ歩いてくる。
「げっ、それで?」
肘掛けにしなだれかかるようにして隣に座り込んだHiMERUはんをじっと見つめる。同じベッドで寝る相手がHiMERUはんから燐音はんに変わるなんて、天国から地獄へ墜ちるも同義。ごくり、固唾を飲む。HiMERUはんは、
「飲んで帰ってきた天城と寝るなんて嫌でしょう?断りましたよ。だいたい今から中華街に行く時点で帰ってくるのは夜中になるでしょうし」
と悪戯っぽく微笑んだ。
「そやね……断ってくれて良かったわ」
本当はその先が気になって仕方が無いのに、平静を装って会話を返す。頬杖をついたHiMERUはんの髪が、束になってこぼれる。いつも良い匂いがするさらさらの髪も、今日はわしと同じで海の匂いが染みついているんだろうか。
「ですから、桜河が嫌でなければ、今夜はこのままHiMERUと桜河でこの部屋を使うとしましょうか」
「嫌やない!」
語尾にかぶせるように、大きな声で返事をしてしまった。あほか、嫌なわけあるかい。食い気味に答えはしたものの、拳を突き上げて飛び上がらなかった自分を褒めてやりたい。それくらいうれしい。一つ咳払いをし、冷静な振りをして言葉を重ねた。
「わかった。ほなHiMERUはんには悪いけど、蹴飛ばさんように気ぃつけて寝るし、一晩だけ堪忍してな」
「心配せずとも、いつもお行儀良く寝ていますよ。こちらこそ、よろしくお願いします」
髪束を耳にかけながら、HiMERUはんがにっこりと笑う。グラビアで苦戦した「アンニュイな表情」というのはこういうことを言うんだろうか。疲れた笑顔が妙に艶っぽくて、心臓が早鐘を打つ。やっぱり早まったかもしれん。じんわりと汗をかく手のひらをぐっと握った。
▽HiMERU
天城からカードキーを受け取った時、俺はどんな顔をしていただろう。動揺を殺し、うまくHiMERUでいることができただろうか。全く自信がない。
桜河と2人部屋なんて今に始まったことではないのに、何を動じているのか。正直、そんな可能性に思い至る余裕が俺にはなかった。丸腰で直面した不測の事態。
この頃の俺はどうかしている。気付けばいつも桜河のことを考えている。あり得ない未来を描いては塗り潰し、胸を刺す鈍い痛みに酔いしれている。幼い頃つくった膝の擦過傷と同じ。瘡蓋を放っておけばすぐに治るのに、剥がす時、ほんの少しの痛みと快感が脳を刺激する。それがやめられない。何度も小さく傷付いて、大きな痛みを感じても泣かないよう、備えているのかもしれない。
桜河に愛されたい。明確に自覚してしまってから、俺は細心の注意を払って俺とHiMERUの境界線を歩いている。綱渡りの途中で、握る棒の重さが変わってしまったような感覚。些細なきっかけでバランスが崩れてしまうのが怖い。
黙ってキーを仕舞う俺の顔を、桜河が遠くからそっと伺っているのが分かった。あの雨の日のことが頭にあるのか、なんら悪いことはしていないのに、申し訳なさそうに垂れ下がった眉が可愛らしい。部屋割りを変えたいなどと言い出したところで、俺の代わりにこの子が傷つくだけ。そう思うと何も言えなかった。
天城たちと別れて廊下を行く。大丈夫、さっさと寝て起きてしまえばなんでもない明日が来るだけだ。自分に言い聞かせるように心で唱えながら、812号室を探した。
ソファーに腰掛けて、頭を抱えている。括ったはずの腹は今にも解けてしまいそうだった。
ホ 。 テルは満室なうえ、天城に電話しても話にならない。パリッと整えられたベッドを見遣り、ため息を吐く。セミダブルは、ない。
「そんなに嫌なら、俺っちがこはくちゃんと寝るんでもいいぜ?どのみちこはくちゃんがそこで寝るのは確定っしょ」
一番小さいしな、と付け足してあいつは愉快そうに笑った。さらにはいつからスピーカーがオンになっていたのか、ひょっこり加わった椎名が、
「僕でもいいっすよ。HiMERUくんが燐音くんと同じ部屋でいいならっすけど」
と提案してきた。椎名は酒も飲まないし、食事だけ済ませたらそう遅くならないように宿に戻ってくるだろう。桜河に聞けば是と答えたかもしれない。
なのに……いや、「だから」か。その場で断ってしまった。現状の問題をとりあえず解決する救いの手だったのに、振り払ってしまった。ただ嫌だった。いかなる理由があったとしても、桜河が他の誰かを選ぶのも、この狭いベッドで他の誰かと眠るのも。
あの子は今、風呂に入っている。シャワーの音に紛れ、小さな鼻歌が漏れ聞こえてくる。
今夜はきっと眠れない。ただあの子と同じ匂いに包まれ、寝息を聞いているうちに夜が明けるだろう。それはそれで、幸せな気がする。そっと目を閉じて、楽しげな歌声に耳をすませた。
▼こはく
どこの間抜けがこの状況で寝付けるんじゃと思っていたのに、いつの間にやら寝ていたらしい。気付くと部屋は薄暗くなっていた。
今朝は移動で早かったから。自分に言い訳しながら寝返りを打つと、目の前でHiMERUはんが眠っている。一瞬ぎょっとして、すぐに思い出した。そうや、同じベッドで寝ることになったんやった。
常夜灯とフットライトが付けたままになっていて、寝ぼけ眼には少しまぶしい。乾いた目でぱちぱちと瞬いていると、だんだんと明るさに慣れてくる。
HiMERUはんはベッドの際で、肘を枕に眠っている。互いに気を遣って使わなかった長い枕が二つ、頭上に避けられていた。
息を殺して、5センチだけ距離を詰める。素顔を見るのはずいぶんと久しぶりな気がする。ましてこんな近くで見ることがあるなんて、夢にも思わなかった。
顔にかかった髪を払うという「てい」で、優しく左頬を撫でる。さらさらとした素肌の感触。長いまつ毛。見覚えのない小さな…… 小さなほくろ。吸い付かれたように指先が止まる。
「ぬしはんのこと、もっと知りたい……」
知らなかったことを知るたびに、想いは一層強くなる。よくばりになってしまう。規則正しい呼吸音を聞いているだけで涙が滲みそうなほど幸せなのに、満ち足りた気持ちとは裏腹に、際限なく渇望してしまう。「完璧」を装った器用で不器用なこの人の、裸の心が知りたい。願わくばどうか、端っこの隅っこの、爪楊枝で突いたみたいな点でいい……わしの居場所を作ってほしい。
これ以上はあかん。頭では分かっているのに、震える指先がくちびるへ向かうのを止められない。薄く開いた、リップクリームが鈍く煌めくくちびるから、どうしても目を逸らせない。
ぺとっ。ついに届いてしまった人差し指が、植物性の油で貼り付いた。
触れ合った僅かな面積に温もりを感じて、初めて自分の指先が冷えていることに気付く。起こしてしまったらどうしよう。理性は警鐘を鳴らしているのに、心臓の音で聞こえない。
ほんの少しだけ力を加えてみる。きちんと手入れされた下唇は、自分のそれよりもずっと柔らかい。くぼみに沿って、光がまあるく輪を描く。ホテル自慢のマットレスが揺れてしまいそうなほど、激しく鼓動が轟く。
そっと離した指の腹はてらてらと光っている。震える手を空いた手で支え、胸の前に持ってきた。アダルトサイトを開いた時なんかより、今、ずっと深い背徳感を感じている。どうか、どうか気付かれませんように。
ギュッと目を閉じて、指先をくちびるに押し当てる。
「ん……」
頭がクラクラして、吐息が漏れる。心臓がキュッと締め付けられて、身体中の神経が波打つ。折り曲げた膝がピクリと跳ねた。まるで本当にくちびるが触れ合ったような、未だかつて味わったことのない恍惚感にうっとりと酔いしれる。ラブはんに見せられた動画の、またたびを嗅いだ猫もこんな気分だったのかもしれない。
ゆっくりと目を開けると、とろりとした蜂蜜みたいなHiMERUはんの目と視線がぶつかった。
「えっ」
目が合った。凍りつく身体と頭を必死で動かして、置かれた状況を整理する。大きく二つ瞬きをして……次の瞬間、勢いよく飛び上がった。
「わぅわ! な、なななななな、起き、起きとったん!?」
壁に後頭部を思い切り打ち付けた。それはどうでもいい。HiMERUはんに見られていた。いつから?いや、いつからなんて問題やない。そもそも見られて困ることしたらあかんやろっち話や。目の前がくらくらする。
今なにを言えば良いのか、どうすればいいのか、必死で考える。情けないほど何も浮かばない。それでも、逃げてはいけないことだけは分かっていた。
「あの、HiMERUはん……これは、その……」
ひとまずその場に正座する。勢いよく座ったせいでバネが弾む。とにかく一から十まで説明して、誠心誠意謝るほかないと思った。
真っ白になった頭で何から話そうか考えていると、いつの間にか身体を起こしていたHiMERUはんが、キュッとわしの手を握る。甲に触れた指先が冷たい。
「桜河、指だけでいいんですか?」
「えっ」
何を言われたのか、さっぱり理解できなかった。ぽかんと口を開けて、目の前の顔を覗き込む。気のせいでは済まないほど頬が赤い。
「だから……ああ、もう」
「うわっ」
つないだ手をぐっと引かれ、前へつんのめる。顔を上げると、冷たい手に頬が包み込まれる。あ、同じシャンプーの匂い。
「んっ」
くちびるに何かが触れた。柔らかくて温かくて、ほんのりミントの匂いがする。見開いた目いっぱいにHiMERUはんの顔だけが映っている。閉じられた瞼、長いまつ毛。
見えない力に握り潰されでもしたかのように、心臓がキュッと収縮する。くちびるが合わさるたびに、つないだ右手に力が加えられるたびに、何度も。その勢いで、止めっぱなしの息が鼻や耳から漏れ出ないか心配になる。
これは夢かもしれん。空いた手で、放り出されたふくらはぎに爪を立てる。痛い。夢じゃないなら、どういうことなんじゃ。つながれたままの右手がじんわりと濡れている。
「桜河」
HiMERUはんのくちびるが、わしの名をなぞる。リップクリームは残さず剥がれ落ちてしまっていた。
▽HiMERU
入浴を済ませて部屋に戻ると、桜河は枕も使わず、壁にぴったりと身体を添わせて眠っていた。起こさないように慎重にシーツを引き抜き、間に滑り込む。
桜河が夜中目覚めても怖くないように、常夜灯とフットライトは付けたままにして目を閉じる。こんな状況で寝られるわけがないにしても、起きていても仕方がない。安らかな寝息を聞きながら、何度も寝返りを打つ。上を向いてみたり、右を向いてみたり…… そうこうしているうちに、小さな唸り声を上げ、桜河が目覚めた気配がした。
こんな狭いベッドで真正面から向かい合うのは避けたい。じっと寝たふりをしていると、鼻に当たって不快だった髪が優しく払われるのが分かった。冷たい指先が頬を撫でる。エアコンが強過ぎただろうか。
表情で悟られないよう、懸命にくすぐったさに耐えているのに、桜河の手が途中で止まってしまった。かと思えば、まるでそこにある何かを確かめるように、やわらかく頬を擦られる。何をしているんだ?考えを巡らせていると、桜河は小さく、甘やかな声で
「ぬしはんのこと、もっと知りたい……」
と囁いた。その刹那、思い至る。指の位置には…… 要にはない、小さなほくろがある。だから入念に、コンシーラーで隠していたのに。
「HiMERU」の顔にはそれが無いことを、桜河は知っているんだろうか。だったら「ぬしはん」というのは、「HiMERU」ではなく「俺」を指して…… り得ない。思ったそばから否定する。でも、そもそもそんな考えが浮かんでしまうのは、俺が知らず、そうであってほしいと思ってしまっているからに他ならないんだろう。愚かしいことに。
胸の痛みをやり過ごそうと深く息を吸い、口から吐き出す。閉じようとした時、冷たい指が下唇に触れた。桜河は何も言わず、ふにふにと軽く押し込む。
やがて離れていく指を追うように、俺は薄く目を開いた。
どんな表情をしているのか見たかった。どんな目で俺を見ているのか知りたかった。もし目が合ってしまっても、たった今起きたことにすればいい。朝まで狭いベッドで向かい合う、その後の気まずさなんて今はどうでもよかった。ただもう一度、あの日俺を捉えたあの目に慰められたい。薄暗く捻じ曲がった欲望の方がずっと強く心身を支配していた。
目に飛び込んできたのは、やわらかな光に包まれ、そうっと何かに口づけをする桜河の姿。視線や気配に敏感な桜河が、俺が起きていることに全く気付いていない。それほど夢中になるなんて、宝物のように優しく包み込んだあの手にいったい何があるのか。明るさにくらむ目をじっとこらす。
間もなく、それが俺に触れた指だと気付いて…… 俺は息の仕方も瞼の閉じ方も何も、何も分からなくなった。桜河のくちびるが触れたのはあの子の手なのに、まるであの手に包み込まれていたのは俺自身であるかのように感じてしまった。柔らかく温かな檻に捕われて、指1本動かすことができない。目に熱い膜が張るのを感じながら、絵画のような光景を脳に焼き付ける。
尊さすら感じる純粋な想いを目の当たりにして、ただ一つだけ、痛いくらいにわかった。「思春期特有の勘違い」や「恋煩い」なんかでは済まない。もう傷つかないための予防線を張ることも、言い訳を重ねて気付かないふりをすることも許されなかった。HiMERUは……俺は、桜河に愛されている。
ゆっくりと瞼が開いて、大きな目が俺を捉える。長いまつげが重そうに2、3瞬いて、しばらく静止した後、桜河は後ろ向きに飛び上がって壁に貼り付いた。
「わぅわ! な、なななななな、起き、起きとったん!?」
頓狂な声を上げながら、真っ赤な顔がみるみる青ざめていく。その場にくずおれて、ついには正座してしまった。
桜河は必死で言葉を紡いでいるけれど、俺は謝ってほしくなんてなかった。なんとかして止めたかった。愛されていて、うれしかった。それを素直に伝えればいいだけなのに、どうしたらいいのかわからない。
「あの、HiMERUはん…… これは、その…… 」
お願い、言わないで。とっさに手を握る。驚いて顔を上げた桜河と視線がぶつかる。つないだ手から、言えない想いが全て伝わってしまえばいいのに。
「指だけでいいんですか?」
「えっ」
良くないのは俺の方なのに、こんな言葉しか出てこない。要が悪意に晒されたあの日まで、俺は何でも人並み以上にできると思っていた。万能感さえ抱いていた。それがどうだ。愛することも、愛されることも、まるでうまくできない。ましてそれを伝えるなんてことは。
桜河はぽかんと口を開けて、俺の顔を覗き込む。
「だから…… ああ、もう」
「うわっ」
戸惑う桜河を引き寄せて、噛み付くようなキスをした。くちびるとくちびるが触れただけ。なのに、身体も理性も輪郭も、何もかもが溶けてしまいそうなほど胸が熱い。
手から伝わらないのなら、くちびるでもいい。桜河が好きだと、愛してると伝えて。触れるだけのキスを繰り返し、希う。
「桜河」
くちびるを離すと、桜河は開栓された炭酸飲料のように勢いよく息を吐き出した。ずっと息を止めていたらしく、首まで赤くなっている。
悪いことをしたと思いながら、まだ足りないと身体の芯が疼いている。桜河の息が整うのを待って、
「口を開けて」
と乞う。桜河はしばらく困った顔をした後、椎名に味見を求められた時と同じように、パカッと大きく口を開いた。違うとは言い難くて、
「綺麗な犬歯ですね」
と褒めてみる。自分でも何を言っているのか分からず、ふつふつと笑いが込み上げてきた。
「んふふっ…… あはっ、あははっ」
「ひ、HiMERUはん?」
笑い崩れる俺を、桜河が心配そうに見下ろしている。ベッドに投げ出した身体が、スプリングで小さく弾む。
愛おしくてどうにかなりそうだ。意味もわからないまま、ただ俺に乞われたから開けたまんまるな口。桜河が向けてくれる愛情の全てが現れていると思った。
俺も、こんなふうに身を委ねてみようか。どのみちもう元には戻れない。深く息を吸って、吐く。桜河に向かって手を伸ばすと、キュッと握り返してくれた。きっと、今なら言える。
「桜河、好きです」
からからに乾いた喉から絞り出す。声が震えて、ぽろぽろと涙がこぼれた。演技以外で泣くだなんて、自分で自分が信じられない。壊れた蛇口を制御できない。
「わ、わしも……わしも、ぬしはんのことが好き……やのに、なあ、なんで泣くん?」
もう何年も泣いたことなんてなかったのに、いくつも年下の桜河の前でみっともなく泣きじゃくっている。流れ落ちてきた涙が耳を濡らして気持ち悪い。
桜河の目は俺を映してくれているかもしれない、桜河が愛しているのは俺かもしれない。何度も願い、淡い期待を抱きながら、結局いつも心の底では信じられなかった。傷つくだけかもしれない。それでも構わない。確信がほしい。
「桜河、今、その目に映っているのは……誰?」
「……えっ、どういうこと?」
「桜河が見ているのは『HiMERU』ですか?それとも、『俺』?」
答えを聞く前に、ここから逃げ出してしまいたかった。「HiMERU」だと言われたら、俺の心は壊死してしまうもしれない。
「なあ、それってどっちかじゃないとあかんの?」
「え?」
桜河はしばらく黙り込んだ後、俺の手を取って身体を起こし、真っ直ぐ目を射抜いた。
「わしはぬしはんのことも、ぬしはんが大切にしとる『HiMERUはん』のことも好きやよ。だって出会ってから今日までわしが接してきたのは、そういうぬしはんやろ?わしが好きになったのは、そういうぬしはんやもん。どっちかなんて、選べんわ」
桜河が空いた手でそっと頬を拭ってくれる。
「それじゃ、あかん?」
もう涙は出なかった。代わりに、言葉も失ってしまった。口を開けば、胸を満たすあたたかなものが出て行ってしまうような気がして、くちびるを結んだまま首を振る。
「コッコッコ、そんならよかった……それにしても、ぬしはんが泣いとるの初めて見たわ。泣いても綺麗なままなんやな」
桜河はそう言うと、真っ赤になって俯いてしまう。ああ、かわいい。ついさっきまで大人の顔をしていたのに……泣く子をあやすような、慈しむような目で俺を見ていたのに。どうしてこの子はこんなにも激しく俺の心を揺さぶるんだろう。誰に見せないで隠しておきたかったのに、いっそ切り離してしまっても良かったのに、桜河といると「ここにいる」と心が叫ぶ。
「桜河……キスして」
つないだ手を引いてねだる。こんな日が来るなんて夢にも思わなかった。
「ん」
恥ずかしそうに寄せられた顔。右目に俺が、左目にHiMERUが映っている。瞼がすっと降りて、少し乾いたくちびるが口の端に当たった。
「ふふ、これは練習が必要ですね」
ばつが悪そうな桜河に微笑みかけると、
「もちろん、ぬしはんが付き合ってくれるんやろ?」
とふてくされている。
「ええ、その代わりお願いがあります」
「なに?」
「今夜は、手をつないでいてください」
「うん、良ぇよ……わしもそうしたい」
顔を洗い、保湿をし直して戻ると、桜河が枕を並べて待っていた。ベッドに入り、差し出された手を握る。あたたかい。
「電気、消しても良ぇで。ほんまに怖ないし……もし万一なんか出ても、手ぇつないどるから大丈夫」
「ふふ、じゃあ消しましょう」
アラームを確認して、枕元のつまみを絞る。外から差してくるネオンだけでも、部屋は十分明るかった。
「では、おやすみなさい」
「ん、おやすみ」
目を閉じると右手に意識が集まる。骨張った、背丈のわりに大きな手。いつか、俺より背が大きくなることもあるかもしれない。その時もこうして隣にいられたらいい。叶うはずも無いと思っていた願いが叶った途端、もう次の願いができてしまった。
人は、自分以外の誰かになんてなれない。そんなことは分かっている。それでも、自分自身を捨ててでもこの道を選んだ。捨てた心を拾うことなんてないと思っていた…… 桜河が拾ってくれた。修羅の道を選んだ俺を、HiMERUごと好きだと言ってくれた。ただ存在を肯定される、それだけのことが俺にとってどういう意味を持つのか、桜河には分からないだろう。分からなくていい、永遠に。
つないだ手が熱い。いつの間にか桜河は寝息を立てている。閉じた瞼に、そっとくちびるで触れた。
※コメントは最大5000文字、5回まで送信できます