ほとんど悲鳴に似た子どもの笑い声が、風の音と混ざり合ってカーテンを揺らす。肌寒さにはっとして振り向けば、窓いっぱいに敷き詰められた高積雲が燃えている。本を置いて、窓を閉める。この頃、日が落ちるのがめっきり早くなった。
絵に描いたような夕焼け空。素直に綺麗だと思えないのは、たった今まで山奥の古びた洋館に閉じ込められていたせいだろうか。その赤さがいやに不気味に映る。
背もたれに掛けていたジャケットを羽織り、椅子に掛ける。隣室から漏れ聞こえてくるクラシック――トロイメライが、神経を優しく引っ掻く。何ヶ月も目覚めていない弟の病室で耳にすればきっと、どんな曲でも物悲しく響くものだろうが、それにしたって「夢」は皮肉が効きすぎている。
要の布団をかけ直し、枯れ葉のような左手をそっと取る。ほっそりとした手首に親指を添えると、ぴく、ぴく、と規則正しく指を押し返す。
この頃、要は全くと言っていいほど目覚めない。以前のように暴れたり、支離滅裂に泣きわめいたりすることはなく、ただじっと、深く深く眠っている。
医者の言うことには、検査ではどこにも異常は見られない。もしかすると「目覚める」ための力を蓄えているのではないかという。
適当なことを、とは言わないまでも、期待を抱かせるような言葉を簡単に吐くのはやめろと苦々しい気持ちを抱えながら、以前よりさらに足繁く病院へと通っている。「愛★スタ」の時は結局、医者の見立て通りだった。本当に、目覚めの時が近づいているのかもしれない。
立ち上がり、薄っぺらいカーテンを引く。ほんの僅かな間に、窓にはとっぷりとした夜が満ちていて、ガラスは鏡に変わっている。ふと目が合った自分の姿に驚いて、一瞬手が止まる。目の前の男は、どこからどう見てもHiMERUではない。
野暮ったい黒縁メガネに肩幅の合っていないスーツ、うっすら隈の出来た目元に、若白髪の混じった短い黒髪。目を落とせば曇ったフェイクレザーの靴。完璧な「うだつが上がらない会社員」が映っている。
2ヶ月ほど前、週刊誌の記者に跡を付けられていることに気付いた。むしろ、よく今まで隠し果せたと思うべきだろうか。スケジュールの間を縫って足繁く病院へ通うアイドルなんて、格好のネタに違いない。見舞いか、通院か、どちらにしたって世間は食いつく。
有名税というのだろうか。HiMERUの人気を証明する要素の一つとはいえ、HiMERUの秘密を暴こうとする輩を野放しにしてはおけない。副所長に話して一掃してもらうことも考えたが、この先何度も起こりうる問題で人の手を借りるのは賢明でない。手っ取り早く彼らの目を眩ますためには、得意の変装が一番だろうと考えた。
誰にも見破られない自身があった。素人の仮装や扮装とは訳が違う、特殊技術の一種なのだから。巽や漣が何よりの証拠だ。彼らは多少の違和感を抱いていたとしても、今のHiMERUと玲明学園でともにすごしたHiMERUが全くの別人だなんて、夢にも思っていないだろう。件の記者たちも、1ヶ月経つ頃には首を傾げて離れていった。
それなのに、なぜ。メガネを外し、目元をぐっと押すようにして摘まむ。シャドーのこびりついた指先を擦り合わせ、くたびれたブリーフケースに突っ込む。少し直さないと不自然だろうか。サイドテーブルに化粧品を並べ、小さなミラーに映った顔をじっと見る。
あれはちょうど1ヶ月前。コズプロの備品室で着替えを済ませ、駅へ向かっているところだった。作業服に茶髪を束ねて顔も変え、キャップまで被って、わざと雑踏に紛れて歩いていた。
「あれ、HiMERUはん?」
それなりに気を張っていたところへ日常が飛び込んできて、うっかり顔を向けてしまった。太い柱の陰に、ぽかんと口を開けた桜河が白鳥と並んで立っていた。ショッピングの帰りなのか、手に紙袋を提げて。
「えっ、HiMERU先輩? どこぉ?」
辺りを見渡す白鳥。桜河がそちらを向いた隙を突いて、すぐに姿を眩ました。
大丈夫、きっと何かの間違いで、桜河は気付いていない――自分に言い聞かせながら早足で歩く間、冷や汗が止まらなかった。近くでまじまじと見られたくらいでは看破出来ないように仕込んでいる。距離にして2メートルは離れていた。さらにはその間を幾人もが行き交っていた。だいたい、桜河は副所長が用意したHiMERUの、偽のスケジュールを知っているはずだ。湾岸の局内で打ち合わせをしているはずの人間が、どうして事務所の最寄り駅を歩いているなんて思うだろう。けれど、あの子の目はたしかに俺を捉えていた。
夜になって星奏館で顔を合わせても、後日スタジオからの帰り道で2人になっても、喫茶店で軽く水を向けてみても、あの子はあの日のことに一切触れてこなかった。
触れてくれた方がまだ良いように思えた。話術では幾ばくか俺の方に利がある。半信半疑でいるのなら、いくらでも言いくるめられるだろう。
聞いてこないということは、つまりあの子は確信しているんだろう。あの日目が合ったのは俺だと分かっていて、そのうえで事情を察して触れてこない。それも「貸し」などという打算ではなく、ただ、聞いたら俺が困ると思っている。
あの日を境に、擬態する姿を作業員から会社員に変えた。でも、それはおそらく、桜河に見破られたからではない。誰にも言いふらしはしないのに、手間暇をかけて変える必要はない。そもそも、もう記者は追って来ないのだから、変奏を続ける必要すらないのかもしれない。
なぜ小一時間もかけて赤の他人に成り代わるなんて面倒なことを続けているのか、自分でもよく分からない。ただ、もしこの姿でまたあの子と遭遇したらどうなるのか確かめたいだけ。それも、特殊な環境で育ったあの子がどんな方法で見破ったのか知りたいとか、技術を高めるために穴があるなら塞ぎたいだとか、そんな理由ではない。
あの子は俺に気付いてくれるだろうか、呼び止めてくれるだろうか。秘技とも呼ぶべき変装がそう簡単に籠絡されるようでは困るのに、これはどういう種類の感情なんだろう。
道具を仕舞い、要の手を包む。あとどれくらい眠っているつもりなんだ。早く要に会いたい、ずっと待っているんだよと、骨張った甲を撫でる。
要が目覚めて、俺がHiMERUではなくなっても、あの子は俺を見つけてくれるだろうか。HiMERUにそうしてくれるように、何でもない話を一生懸命聞いて聞かせて、無邪気に笑いかけてくれるだろうか。もし、そうではないのなら、俺はあとどれくらいの間、あの子の愛を受け取ることができるんだろう。
ぱたぱたと水滴が落ちる音がして、ぱっと点滴を見上げる。熱い液体が頬を濡らして初めて、異常が起こったのは点滴ではなく、自分自身だと気付く。直したばかりの顔が、後から後から溢れる涙で滲んでいく。くっきりと引いた線が、輪郭がぼやけ、崩れていく。
もう何年も泣いたことなどなかったのに、今さら涙の止め方なんて分かるはずがない。万が一にも要に気付かれないように、リネンの角に顔を押し付け、嗚咽を殺す。ごうごう鳴っているのは風なのか、自分の喉なのか、判別が付かない。下顎がじくじくと痛む。食いしばった歯の隙間で、浅い呼吸を繰り返す。
面会時間いっぱいかけて泣き止んで、ぐちゃぐちゃになった顔のまま表へ出た。タクシーに乗るべきだと思いながら、暗がりのベンチに腰掛ける。
香ばしい秋の夜風が乾いた頬を撫でて、抜けていく。病室を見上げると、切り損じた爪のような三日月が目に入る。月の裏側には、何があるんだろう。少しくらいは太陽光が溢れてくるだろうか。
ああ今、桜河に会いたい。驚くほど全身全霊でそう思った。
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