▽HiMERU
帰り道の公園、隅のベンチに腰を下ろして、ポケットから桜河を取り出す。芝生広場はまだ子どもたちが駆け回っていたが、夕方のゲートボール場は閑散としている。散歩コースから少し外れ、木々で囲われているおかげで風もそう強くない。
「寒くはないですか?」
自販機で買ったばかりのほうじ茶のボトルをひねり、ベンチにキャップを置く。出先で水分を摂らずにはいられなくなるほどの暑さはとうに去って気付かなかったけれど、いつの間にかホットのラインナップが充実していた。
「うん、暑いくらいやったからちょうど気持ち良ぇよ」
溢さないようにちょろちょろとキャップにお茶を注いでやると、桜河は大盃のように両手で持ち上げて一気に干した。喉が渇いていたんだろう。病室に戻ると、桜河は洗面台の鏡に向かって新曲の振りを確認していた。スマホも使えず手持ち無沙汰だったので、ちょうどいいと思って昨日できなかった部分を練習していたらしい。
「なんというか、桜河は逞しいですね」
お代りを注いでやってから、ペットボトルに口を付けると香ばしい匂いが鼻を抜けた。
桜河との約束通り、医者に心当たりを聞いてみたものの、これといった解決法は出てこなかった。視界に好感度が表示されるなんてトラブルを解き明かした医者の頭脳ならと少しばかり期待していたが、ある朝突然人間が小さくなるなんて話はやはり映画でしか聞いたことがないという。
始めは今度そういうドラマにでも出るのかと思って話を聞いていたらしい医者が、だんだん俺の目や脳を心配し始めたので、これ以上厄介なことになる前にと切り上げてきた。
ちなみに医者が昔見たという映画は、増えすぎた人口によって生じるエネルギーや食料の問題を解決するべく、人間を小さくする実験を秘密結社が行っていたというストーリーだったらしい。たまたま被検体に選ばれた主人公はさんざんな1日を送ったものの、元に戻る手段は初めから用意されていた。結社による観察が終わり次第、記憶まで改ざんされて何事もなく日常に戻っていったという。
「面白そうな映画やけど、全くなんの参考にもならへんな」
「ええ、タイトルを控えてあるので今度一緒に見ましょうか」
「うん。最初からオチ知ってて見るのは失礼な感じするけど」
コッコッコと笑ってお茶を啜る桜河の小さな背中に哀愁が漂っている。しなくていい苦労をさせてしまったわりに収穫がなく、申し訳なさが募る。
「なんとしても元に戻れるよう、HiMERUが力になりますからね」
「うん、頼むわ。明日のレッスンは踏まれんように隅っこでやるとしても、明後日から学校じゃ。行けんかったらまた勉強について行けんくなってしまうわ」
今度は俺が桜河の力になりたい。大それた思いを込めて励ますと、予想だにしない答えが返ってきて度肝を抜かれた。
「えっ、その状態で参加するつもりですか」
「やっぱり危ないかな? さっきみたいなことになるやろか。でも先生が他所で漏らしてしまったとしても、桜河こはくがえらいちっちゃくなってしもたなんて話、実物を見ん限り誰も信じんのちゃうかなって思ったんやけど」
HiMERUはんはあっさり信じてくれて良かったわ、とにこにこ笑っている。
「夜はどうせシナモンやろ。予めニキはんに連絡入れといた方が騒ぎにならんで良ぇかな? それとも燐音はんに事情説明して旧館にでも集まってもらった方が良ぇやろか?」
「いえ、えっと、まあそうですね。天城と椎名には後で電話してみますけど、おそらく口頭で言っても信じてはくれないでしょうね」
答えておいて、いやそうじゃなくてと自分で思う。知られたらどうとか信じてもらうにはどうとか、そういう問題ではなく。じゃあどういう問題なのかと問われても答えられないけれど。
「その状態でレッスンに参加するつもりですか」
改めて問い直すも、桜河はあっさり頷く。
「だって戻る方法を探すっち言うても、わしとぬしはん2人も抜けたらCrazy:Bの練習にならんやろ。その間わしにできることを考えたら、やっぱりみんなと一緒に練習するしかないんとちゃう?」
前向きなのかなんなのか、妙な説得力に思考が押されてつい、なるほどと言ってしまう。曇りのない目を向けられると眩しくて、直視していられなかった。
この子は決してポジティブなわけでも、楽観的なわけでもない。置かれた状況でできる最善の行動をいつも懸命に模索している。
こましか大流行の渦中にいても、桜河は自分の頭で考えて疑い、信じた「アイドルらしさ」を証明するためにあちこちを飛び回っていた。わずかな時間にも居眠りしてしまうほど、疲れ果てて倒れてしまうほど懸命に。あのときの俺はそれを「無駄にかんばりすぎてしまう」と斬り捨ててしまったけれど、桜河は何も間違っていなかった。
Crazy:Bを結成して間もないころはまだ、自分の頭で考えろと天城に焚きつけられる子どもだったのに、それを俺は微笑ましく思いながらサポートしていたはずなのに、いつの間にか当たり前のように自分の力に変えていた。俺が気付こうとしていなかっただけで。
「桜河は、怖くはないんですか」
桜河が成長している間、俺は何も変えられずに足踏みしている。願っていたとおり要が目を覚ましたというのに、要との関係が、HiMERUが、HiMERUでいることが、変わるのが恐ろしくて立ちすくんでいる。
まずは天気の話でいいと言われたって、いざイメージしてみるとそれがどれほど難しいことか。ただあの子の前に立つだけのことが俺にとってどれほど怖いか、医者にはきっと分からない。自分で勝手に上げていたハードルを下げてもらって楽になったと思ったのも束の間、今度は跳ばない言い訳がなくなってしまって途方に暮れている。
「うーん、どうなんやろ。だって、いきなり小さくなってしもたわけやから」
顎に手を当てて考えながら、桜河はよく分からないことを言う。
「だってとはどういう意味です?」
「えっ。ううん、なんて言うたら良ぇんかな。その、怖いっちいうのは、こうなったらどうしようっち考えてるときに感じるやろ。遅刻したらどうしようとか、虫歯ができたらどうしようとか」
「……まあ、そうですね」
「お化け屋敷も、お化けが出てきたらどうしようっち思いながら歩くから怖いんであって、実際に出てきたらもう戦うしかないやんか」
いつかのお化け屋敷を思い出して、吹き出しそうになってしまった。お化けが出てくる度に桜河の拳や蹴りが炸裂していたのは、もう戦うしかないと思っていたからなのか。そう思うとおかしくて、カチカチにこわばっていた心がまた少しほぐれる。
「ええ、戦っていましたね」
「ほんで外へ出たら、案外なんともなかったわっち思って終わるやろ」
われわれはなんともありましたけどね、と思いつつ頷く。ようは身体が小さくなったらどうしようなんて考えたことはないから怖くないということなんだろうか。
「でも反対に、こうならなかったらどうしようと思うときも怖いでしょう」
「元に戻れんかったらっちこと? そらゾッとするけど、まだ戻る方法を探し始めた段階やのにそれ考えるんは杞憂とちゃう? それが怖いっち思ってしまったら、身がすくんでしまったら、できることもできんくなってしまうやん」
日が傾いて寒くなってきたのか、桜河は話を続けながらよじよじと俺の膝の間に移動する。まっすぐに見つめ合うと、500円玉くらいの大きさになってしまった桜河の顔が、記憶にあるいつもの桜河よりずっと勇ましいような気がした。
「そうかもしれません。でも……どうしても考えずにはいられないのです」
要が今の俺を見てお兄ちゃんだと分かってくれなかったらどうしよう。追い打ちをかけてしまったらどうしよう。それで拒絶されたら、罵られたらどうしよう。たった1人の家族に受け入れられなかったら、必死で守ってきたHiMERUがHiMERUではないと否定されてしまったら、俺の手の中には何も残らない。
「ぬしはんは賢いから、先回りして思いついてしまう心配ごともきっとわしより多いんやろな」
難儀なもんじゃ、と笑った顔がやはりいつもよりずっと大人びて見えて、俯きたいのに目をそらせずにいる。
「でも、だから大丈夫やと思うで。何を怖がることがあるんかわしには分からんけど、ぬしはんならその何かが起きてしまってからでも十分対応できるやろ。なんやったらある程度いろいろ起こってしまってからの方が実力を発揮できるんとちゃう? ナンバーエイトのときも、瞬祭礼のときもそうやったやん。必要ならわしも力になるし、いっぺん何も考えずに起こしてしまったら、案外どうにかなるもんやで」
黙って聞いていると、桜河はまた小さい子どもに言い聞かせるように穏やかに説いた。大丈夫だなんてなんの根拠があってと思うのに、本心だと分かるから一言一言がじんわり胸に染みる。頷いたら込み上げた何かが溢れてしまいそうで、一度溢れたらもう止まらなくなってしまいそうで、返事もしないで空を見た。雲は紫に近いピンク色に染まり始めていて、滲んだ視界に飛行機の灯りが流れ星のようだった。
「長すぎたくらいやけど、いよいよ夏も終わりやな」
「ええ、そうですね」
ゆっくりと瞬きを繰り返し、秋の風を吸い込んで吐く。細くたなびく雲が流れていくのをぼんやりと眺めながら、1年の早さを噛み締める。
「今度蕎麦食べるときは、わしもざるやなくてあったかいの、鴨南蛮とかにしよかな」
「ホームページには期間限定とありましたよ。回復祝いにHiMERUがご馳走しますから、なるべく早く元に戻ってくださいね」
「そやね。燐音はんっちいうか、天城村か。なんか分かることあると良ぇんやけど」
上を向いたまま頷いて、静かに目を閉じる。本人にはとても言えないが、病院でほんの一瞬だけ、桜河がこのままでいてくれたらいいのになと思ってしまったことを後悔している。どこか俺だけが分かる場所に閉じ込めてしまったら、桜河はずっと俺のことだけ見ていてくれるんじゃないかと思った。馬鹿だなと思う。閉じ込められて盲目的に俺を想ってくれる桜河なんてもう桜河ではないし、そんなことをしなくても桜河はずっと、めまぐるしく成長しながらもまっすぐこちらを見てくれているのに。
最後にもう一度だけ深呼吸をして、膝の間の桜河に向き直る。今の甲高い声も可愛らしいけれど、早く桜河の声が聞きたいと思った。
「帰ろか。HiMERUはん、寒いんやろ。くちびる紫色みたいになってきてるで」
「ふふ、そう言う桜河も同じですよ」
にこっと微笑んだ桜河を見て、今日の桜河が特別大人びて見えるのではなく、俺が桜河のことをちゃんと見ていなかっただけなのかもしれないと思った。弟と重ねて見るのはやめても、弟のようなものとして見ることはやめられていなかった。無邪気に愛されたいと願う可愛らしい子どもだと、俺が見たい姿を押しつけて、本当の桜河が見えていなかっただけなのかもしれない。そう思うと、目から鱗が落ちた気分だった。
※コメントは最大10000文字、30回まで送信できます