第一夜

 こんな夢を見た。

 薄曇りの濡れ縁に深紅の鞠が落ちている。堂々と、あるいは図々しいと言うのか。影を座布団とでも思っているかのような佇まいは、姉はんに捨て置かれた哀愁など微塵も感じさせない。

 ちょうどいい遊び相手ができた。隠し戸からにじり出て、そっと鞠へと手を伸ばす。冷え切った板張りが軋み、着流しの裾に冬がするりと忍び込む。

 すぐそばにあったはずの鞠は、風も無いのにころころと転がり、手は空を切った。横着をしたせいでバランスを崩し、床にぺしゃりと打ち付けられる。

 磨き込まれた廊下にくっきりと映る情けない顔。昨日までは家人という家人がはたきや雑巾を手に駆け回っていたのに、寝て起きたら誰も居なくなってしまっていた。

 朝からずっと、屋敷に人の気配はない。使用人には暇を出し、家族は朱桜の家へと呼ばれて行った。元日なんて嫌いじゃ、年が暮れて明けるだけのいったい何がめでたいねんと思う。

 床板が冷たくていつまでも伏してはいられず、いつものことと観念してむっくり、のっそり起き上がる。目を擦っても拳は濡れなかった。こんなことでは泣かなかった自分に小さく安堵する。

 上の姉はんが言うことには、大人の男が泣いていいのは生まれたときと全てが終わったときだけらしい。「全て」が何を指すのかは、子どものわしにはまだ分からん。聞いたらはっ倒されてしもたので、大人になるまでに理解できることを願うばかりや。

 縁側に出ると、ただでさえ姉はんたちと比べて貧相な、小さな足がぴりっと痺れて飛び上がる。家から出られないのに、足袋なんて持ち合わせているわけがない。素足のまま、かかとを浮かすようにして歩けばぴしっ、みしっと床板が鳴る。

 誘うように転がった真っ赤な鞠を追いかけて、追いかけて取り上げる。顔ほどの大きさの球はゴム製で、ぽちんと平たいプラスチックのへそがある。落としてみると軽やかに弾み、ひょいと手の中へ帰ってきた。

 ぽいん、ぽいん。両手でゆっくりつくと、ゴム鞠は柔らかな音を立てて気持ちよく弾む。ときどきへそで着地するとていんと音を変え、あらぬ方向へ飛んでいくのも面白かった。

 慣れてきて、今度は片手でついてみると手に吸い付くように戻ってくる。四つ、五つと続けてだんだん調子が出てくると、鞠はたしん、たしんと規則正しく上下した。晴れた日の午後は座敷牢にまで聞こえてくる、姉はんの立てる音と同じ。

「あんたがたどこさ、いごさ、いごどこさ」

 気が大きくなって、蚊の鳴くような声で聞きかじりの童歌を添えてみる。球に合わせて自然と屈伸する膝に、まるで自分まで弾んでいるような心地がしてくる。

「せんば山には狸がおってさ、それを猟師が鉄砲で撃ってさ」

 狸を撃って焼いて煮て食う。知っている言葉は後半に集中している。聞こえてくるときは特になんとも思わなかったのに、口に出してみて初めてどんな歌やねんと思う。「それ」が何で、木の葉をちょいと被せたらどうなるのか。教えてほしいことが山ほどあるのに、姉はんはまだまだ帰ってこない。

 多少広くとも、鞠つきは座敷牢でできる遊びじゃない。だからほかに手鞠歌を知らず、あんたがたどこさを頭から何度も繰り返す。

「あんたがたどこさ、どこさ」

 間違えた歌詞に気を取られたところで、ていんと鳴った鞠が柱にぶつかり、軒先へと転がっていく。

 追って視線を上げると、ゴム製の膜が裂けたみたいにどっと夕焼けが雪崩れ込んできた。遠くで燃えているような雲、化け物みたいな松の影、楽しげに響くカラスの声。そう長い時間遊んでいたわけでもないのに、庭には少しずつ夜が降りてきている。

 ぽいん――意識の外で間の抜けた音がして、見れば鞠はひとりでに転がり続けていた。踏み石を蹴り、砂利敷きの庭に躍り出て、軽快に飛び石を跳ねていく。

「待って、どこ行くん」

 はっとして庭に飛び降りると、脛の辺りがびぃんと震えた。大きすぎる突っかけを履き、からんころん引きずりながら追いかける。上の姉はんほどでなくても、姉はんだって怒ったら怖い。

 大人用の鼻緒は足に合わない。抜けては親指ごと引っかけたり飛んだりして、歩きにくいことこの上ない。

「なあ待ってって、なんで止まれへんの」

 呼びかければ呼びかけるほど、赤い点は調子づいてよく弾む。そのくせ、わしがずっ転んだり下駄を飛ばしたりすれば、追いついてくるのをじっと待っているように見える。

 縁側から離れるにつれどんどん夜が深まって、だんだんと腹が立ってくる。いつまで経っても追いつけない、いつまで経っても明かりが点かない。

早よ帰ってくるっち言うたのに、いつもわしだけ一人ぼっち。お土産なんか要らんから、今日くらいみんなでこたつにいたかったのに。姉はんがかるたもしよなっち言うたのに。

「なあって、行かんとってっち言うてるやんか」

 すまなさそうな笑顔でわしを気遣う、晴れ着姿の姉はんたちには言えなかった言葉が喉を抜け、びりびりと空気を揺らす。瞬間、突っかけの歯が飛び石に引っかかり、つんのめって手を突いた。

 びたんと打ち付けられる衝撃、驚きに続いて、手のひらにじんとした痛みが広がっていく。濡れた砂利は冷たく、泥臭い。

 三つ大きく深呼吸をして、土と苔を膝で拭う。それから下くちびるを噛みしめて、揺れる視界で鞠をきっと睨め付けた。

鞠はこちらを見返すみたいにじっとして、やがてうろうろ転がり出したかと思うと、すうと宙へと浮かび上がった。

 ぎょっとして目を瞬くと二粒だけ涙が落ちた。よく見れば、灰色の袖に包まれた白い手が鞠を上から掴んでいる。それも随分と大きい。

 かたんかたんと突っかけを引きずって、ゆっくりと影に近づいていく。念のため棒きれを掴んでいるものの、不思議と怪しさは感じない。

 ほっそりした手を彩る装飾品が見えるところまで近寄ると、暗闇に紛れてにょっきり、黒く長い脚が生えているのに気が付いた。

「ぬしはんは、人間?」

 さもなくば泣きながらでも滅多打ちにしなくてはならないのに、ここまで迫っても危機感がまるで芽生えない。それどころか顔も見えない人影に安心感すら覚えて、思わずくいとズボンを引く。

「ふふ、おかしなことを聞きますね」

 低く穏やかな声に合わせて、頭上からふわりと赤い鞠が降ってくる。骨骨とした大人の手に掴まれていると、あの大きかったゴム鞠が随分小さく感じられる。

「転んだでしょう、けがは?」

 明らかに慣れない手つきで頭を撫でられ、小さく首を横に振る。ズボンを掴む手をぐっと握って、込み上げてきた涙を引っ込める。

「石敷で転べば痛いでしょうに、強かったですね」

「べつに……結局泣いてしもたし、どうしたって姉はんらには勝てん」

 褒めてくれた背高のっぽには聞こえないよう独りごちて、突っかけの先の小石を蹴り飛ばす。すぐにぽちゃんと池に落ち、水面の月がゆらゆら揺れた。

「今日はお留守番ですか?」

 わしにズボンを握らせたまま、背高のっぽは反対の脚に重心を変える。ふと見ると、いつの間に現れたのか、毛の長い巨大な猫が足の向こうに座っていた。

「今日はっちいうか、毎日やな。わしは表に出られへんから」

「そう、では姉たちでさえもしたことがない偉業を成し遂げようとしているわけですね。こうして闖入者たちを許してしまいながらも」

 背高のっぽの目はわしのことを映していない。顔は見えずとも気配で分かる。なのに、優しさでぎゅっと手を握られているような気持ちになった。

「泣いたって構いませんよ。うれしかったら笑い、腹が立てば怒る。諜報のようなことはできるのにポーカーはお世辞にも強いと言えない、そういう桜河をHiMERUは好ましく思います」

 背高のっぽはそう言って、わしの髪をたどたどしく梳くと膝を曲げ、池の中を覗き込んだ。

「HiMERUって、ぬしはんのこと?」

 どうやら猫が先にそうしていたらしい。ダメですよ椎名――背高のっぽは腕を伸ばして伏した毛玉を制止する。たるんだズボンが右手にじんわり温かい。

「HiMERUはアイドルなのです」

「アイドル?」

「ええ、ファンの理想を体現する偶像。それがアイドルです」

 猫に合わせて踏み出した脚に振られ、わしもととっと前に出る。凪いだ水面にはいくつもの星がきらめいていて、今なら隣の男の顔が見えるかもしれないと思った。

「アイドルっちことは、人間てことやろ?」

 落ちないようにそっと水鏡を覗き込む。

「さあ、桜河はどう思いますか?」

「わし? わしは、そうやな」

 ゆらめく二つの影の中、知らない顔と目が合って、ばしゃんと鏡が砕け散る。

「椎名!」

 びしょ濡れになった顔を袖で拭って目を開くと、濡れ細った猫がでっぷりとした錦鯉を咥えて静かにうろたえていた。思っていたより獲物が大きかったのか、電光石火で叱られて困っているのか、離した鯉が敷石の上で跳ねまわる。

「まったく、庭園の錦鯉なんて盗る馬鹿がどこにいるのです」

 背高のっぽはわしが落としたゴム鞠を掴み、器用に弾いて鯉を返すと、しなしなになった猫ヘ生臭く濡れた赤い鞠を転がした。

「ほら、お腹が空いたならこれでもかじっていなさい」

 明らかに嫌そうな顔をしつつも噛み始めた猫と、逃げられるくせして大人しく噛まれる鞠がおかしくて、ふつふつと笑いが込み上げてくる。びしょ濡れの裾を絞るHiMERUはんも、面白い自覚が無いから困る。

「アイドルも人間じゃ」

 呟くと、HiMERUはんは小さく笑って首を傾げた。

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2026年1月2日