湯上がりの髪を束ねながら坂道を急ぐ。十六夜の月にきらめく継ぎはぎのアスファルト。吐いた息は白く、つんと痛む鼻先をショールに埋める。
こんな日に限って仕事に手こずった。羽織の襟をきゅっと束ねて草履を擦る。
こはくは、まだ起きてるやろか。真っ暗な道にぼんやり光る古びた公衆電話。手首で軽く帯に触れ、がま口の膨らみを確かめる。
十円玉の山を二、三適当に積み上げて、ぶつぶつ唱えながらこはくの番号を押す。この間は言い間違いか押し間違いかであの子と揉めて、こはくに呆れられてしまった。
受話器よりずっと遠くに聞こえる、おもちゃみたいな呼び出し音。コードを小指にくるりと巻いて、咳払いで喉の調子を整える。着物の女を幽霊とでも思ったのか、ヘッドライトを激しく揺らして行き過ぎる黒いワゴン車。6コールほどして、やっとがさがさ音がした。
「姉はん?」
風のざわめきに混じって、普段着の声が鼓膜をくすぐる。
「うん、私や。よぉ分かったな?」
「さっき下の姉はんからもかかってきたんじゃ」
「さよか。コッコッコ、まあ用件は私も一緒や」
いま、電話して大丈夫なんか――尋ねかけた電話口に、やいやい騒ぐ声が聞こえる。
「ちょお、姉はんから電話やから。ぬしはんらは先に行っといて」
「えー、こはくちゃん冷たァい。一緒に帰ろうぜェ」
「HiMERUがご挨拶しましょうか」
「阿呆か、要らん要らん。ええから早よ行きさらせ」
普段着どころか、ステテコみたいや。心底鬱陶しそうな声にくすりと笑って、こはくの意識が戻るのを待つ。
声の主はCrazy:Bの連中やな、誕生日祝いでもしてもらってたんやろか。受話器を耳に押し付けて、軽く目を瞑る。
こはくの姿を思えばいつも何か言いたげな目で、でも諦めたような大人の顔して座敷牢の隅に座っていた。それが喧しい3人に囲まれて、口を開けて笑うようになった。言いたいことは言うようになった弟と、人ん家の末っ子に悪知恵ばかり仕込みよるやつら。心の底から感謝している。
「堪忍や、姉はん。あいつら人にちょっかいかけてまわるのが生き甲斐やねん」
「こはくもその一味とちゃうんか。あんたの『おいた』、あの子からいろいろ聞いてるで」
せっかく綺麗なまんま外の世界に出られたんやから、危ない橋渡るのは金輪際やめや――出かかったお説教をすんでのところで呑み込んで、ふうと小さく息を吐く。やわな男に育てたつもりはないが、心配は尽きない。かといって、やっと手に入れた宝物にああだこうだとけち付けて嫌われるのも御免被りたい。
「お空は、寒くないんか?」
姉は弱い。あからさまに話題を変えると、こはくの頬がにゅっと緩んだのが見えた気がした。
「おん。なんやよう分からんけど、地上とそう変わらんみたいやわ。まあ、聞いての通り風は強いな」
言った端からマイクを撫で付ける突風の音に苦笑して、十円の山を一つ継ぎ足す。
「風はともかくとして、こはくが生まれた日もこんな天気やったわ。良ぉ晴れたぶん星が綺麗で、えらい寒かった……朝方は池に氷が張っとって、庭には霜が降りとった」
「姉はんはえらい昔の細かいことまで覚えとるんやな。わしなんか昨年の天気でも晴れとったっちことしか覚えてへんのに」
絶対忘れへんやろなっち思ったんやけど、なんでなんやろ。言い募るこはくに、天気以上に覚えておきたいことがいっぱいあったんやろと思う。どれもこれも、私らがしたくてもしてあげられんかったことばかり。
「コッコッコ、私かて昨年の天気までは覚えとらんよ。特別やったから、こはくが生まれた日は」
こはくが――「弟」が生まれる日は、当時の私にとっては特別な意味を持っていた。
言えないこと、言わなくていいことは声に出さず、ガラスの自分と見つめ合う。こはくもあの子も両親も、誰も知るはずがない胸の内。家のために友だちはできず、紙に吐き出すことさえできず、鏡と分かち合いやり過ごしてきた罪悪感。
助かった……そう、思ってしまった。あの日、生まれる子が男の子だと知ったとき。弟の誕生を無邪気に喜ぶあの子の隣で、待望の長男に沸き立つ家族の中で、私は同じように喜びながら、心のどこかで泣いていた。
血反吐を吐くような稽古に勉強、「仕事」。同じ年ごろの子どもたちは人形や漫画を持ち寄って暖かな部屋で遊んでいるのに、私だけは大人に投げ飛ばされて道場の床を舐めていた。学校なんか行ったって、楽しく話した翌日には「ママが遊んじゃダメだって」で終い。結婚相手だってどうせ好きには選べない。
家のため、朱桜のため、私は桜河家の長女なんだから仕方ない。お母はんもお祖母はんも、みんな立派に耐えてきた。私にだってできるはずや。辛くなると鏡台に向かい、必死で自分を奮い立たせていた。
なのに、あの耄碌爺――朱桜の祖父さまは、年端もいかぬ娘がそうまでして背負って立とうという家を、ゴミ同然に捨て去ろうとしていた。
もういい。身体中かき集めて出した言葉はそれだけだった。誰か代わってくれるなら代わってほしかった。桜河家の長女なんてやめて、友だちと他愛もない話がしたかった。
そんなこと、お母はんには後ろ暗くて言えなかった。婿養子のお父はんは優しいけど、言ったってどうにもならないことは子ども心に分かっていた。妹は幼かった。私が言ってほしかったから、何度も「子どもは遊ぶのが仕事や」と言って突き放した。めげずに追ってきたあの子には随分救われたけど、分かち合うには年が離れすぎていた。
だから弟は、長男は、神さまからの贈り物だと思った。家督を継ぐなんてたいそうなこと、私には無理やっちことをようやく認めて代わりを遣わしてくれたんかな――全部全部投げ出したかったのに、そう考えると悔しくて恥ずかしくてたまらなかった。
夜ごと布団を被っては、声を殺して泣いていた。私は私なりに頑張ってきたのに、その努力はどこへ消えてしまうんやろ。汚れた手は二度と綺麗にはならんっちゅうのに、今さらふつうの子どもになんてなれるはずもないっちゅうのに。
2月5日の朝。涙で貼りついた睫毛を洗い、妹の身支度を手伝っていると、にわかに家の中が騒がしくなった。
怖がるあの子を連れて出て、庭の霜柱を踏んでまわった。つないだ手が拭っても拭っても濡れて、足袋のつま先が痛がゆかった。何も考えられなかった。何を考えたらいいのか分からなかった。
昼食のあと気絶するように昼寝をして、目覚めると日はとっぷりと暮れていた。結局、どんな顔をして弟に会えばいいのか分からない。ぐちゃぐちゃの心を引きずって廊下を走り、ふすまを開け放つと、控えめな泣き声が耳に飛び込んできた。まだぐったりと横たわるお母はんの傍で忙しなく動き回る家人と、布のかたまりを抱くお父はん。
膝をついて覗き込むと、ほにゃほにゃと泣くしわくちゃの赤ん坊は、妹のときよりも一回り小さく見えた。まだ開ききっていない瞼の隙間から二人の姉を捉える、私と同じすみれ色の目。
前のめりになった妹が「本当に弟なんか」と問えば、お父はんは苦笑いしてそっと布を開いて見せた。たしかについていた――キャラメルのおまけみたいなちっちゃなものが。
かわいいかわいいと繰り返すあの子の横で、私はちょっと面食らってしまっていた。
なんとなく、長男というものは自分と同じような存在だと思っていた。背負った荷物をそのままひょいと貰ってくれる、しっかり躾けられた、それなりに大きな存在だと思っていた。当たり前だけど、長男だって生まれたときは赤ちゃんだ。そんな簡単なことが、ぱつぱつになった私にはどうしても分からなかった。
庭の紅葉より小さな手のひら、首も据わらないふにゃふにゃの肩に、私がやっと背負っている家なんて預けられるわけがなかった。
呑み込んでも呑み込んでも、熱い涙が込み上げた。ついには畳にぱたぱた溢れて、長女なのに、生まれたばかりの弟よりずっと大きな声で泣きじゃくった。
じっとこちらを見ていたかと思えば、宙ぶらりんの小指を掴んで笑う。そんな赤ん坊に、私の弟に自分と同じ苦しみを背負わせたいなんて、私には到底思えなかった。
泣き止んだ私は覚悟を決めた。桜河家の長子として、全てを背負って生きること。この家を、妹を、まだ汚れを知らない弟のちいちゃなこの手を守り抜くこと。
「姉はん? 聞こえとる?」
「おん……聞こえとるよ。公衆電話やし、ちと聞こえづらいけどな」
妹が赤子のころの泣き声は、笑ってしまうくらい元気だった。それに比べて、これで男の子なんかと思うほど控えめに泣いていた弟も少しずつ声が低くなってきた。
「わしかて姉はんに連絡しようっち思い立つことくらいあるんやけど、いつまでスマホ使えへんの?」
「コッコッコ。そんなん言うて、こはくから連絡寄越してきたのなんて3回ぽっきりやないの。私らかて不便やけど、いまどきのマフィアっちやつはハイテクやねんて」
わざと笑い飛ばしてみせたのに、こはくの声は明らかに沈む。心配、寂しさ、罪悪感。生まれたときからずっと見てきた、おしめも替えたくらいの愛し子だから、こはくの気持ちは手に取るように分かる。
こはくだけが家族とは違う道を歩んできた。こうやって一人守られることは、こはくにとって本意ではないことくらい、みんな分かっている。
こはくの世界にはずっと家族しかいなかった。その家族が泥を被るのなら自分も一緒に、雫だけでも被りたいと思うんだろう。人より早く大人にさせてしまった弟の、子どもらしいいじらしさを私もあの子も痛いほど愛おしく思っている。それでも、どうしてもその気持ちを受け取るわけにはいかない。
「そういえば、こないだやっと見逃してた配信全部見たで。こはくが緑茶持ってきたときの色男の顔、えらい面白かったわぁ」
「緑茶……て、どえらい昔のやない?」
「せやから、スマホがないねんて。あんたらポコポコポコポコ配信するから、姉はんら追いかけるの大変やってんで」
「コッコッコ、そら堪忍」
ころころ鳴る声に耳を押し付け、鏡の自分と笑みを交わす。家を出てから電話越しに聞く、こはくの笑い声が好きで好きでたまらない。
軽やかに笑うようになった。私や両親が膝をつけば、すかさずお尻で迫ってきてちょんと座る寂しん坊だったのに、自分の足で随分遠くまで歩いて行ってしまった。
「良い仲間がおるんやね」
受話器に吹き込むように呟いて、最後の山をチャリチャリ入れる。
学校なんか行ったって味方ができるわけじゃなかったけど、制服を着て椅子に座っている間、私はふつうの子どもでいられた。
守るためとはいえ、存在していないことにされた弟はずっと独り、座敷牢で戦っていた。孤独と不自由、理不尽を言葉にする術も満足には与えられず、小さな身体で戦っていた。
たとえば遠くにいてもいい。味方がいるということは、それだけで人を強くする。鏡を手放した私は成長したあの子に教えてもらった。こはくにもそんな存在が、仲間ができるといいと、ずっと、心から願っていた。
私たちの戦いとこはくの戦いは、舞台が違うだけで何も変わらない。私たちは家族を守るために、こはくはこはくの――私たちの光、かわいい末っ子の――自由を生きるために、それぞれの場所でやれることをやるだけ。だからこはく、あんたが後ろめたく思うことなんて何もない。自由な空を好きに飛び。
「あのな、姉はん」
同じタイミングで鼻をすすって、なんとなく「おやすみ」へのカウントダウンが始まった気がした。
「落ち着いたらいっぺん、わしらのライブを見に来てや」
「ライブ?」
「おん、Crazy:Bのライブ……姉はんらに見てほしいんよ」
恥ずかしいのを誤魔化したいのか、途中から大きく早くなった声に鏡の自分が破顔している。
「おん、寄せてもらうわ」
たぶん今、こはくも同じような顔をしているんだろう。きょうだいだから、見なくても分かる。
そして、そうこうしているうちにブザーがビービー鳴り始める。
「あ、あかん、電話切れてまう。ちょお待って、肝心なこと言うてへんやん」
「え、切れる?」
「こはく、お誕生日おめでとう! あったかくして寝るんやで」
なんとか言い切ると、おおきにの「き」くらいでブツッと切れた。重たい受話器をガションと掛けて、じわじわ笑いが込み上げる。
「こはく、なんでいきなり切れたか分かってないんとちゃうかな」
呟いてみると余計に面白くて、空っぽのがま口を帯に仕舞いながらひとしきり笑ってしまった。今度は私らやパソコンやなくて、色男や燐の字、元相棒あたりに聞くんやろな――そう思うと、言い知れないほど晴れやかだった。
冷え切った髪を解いて、宿へと坂を登る。見上げると、目映いばかりの星空が広がっていた。こはくも同じ空の下にいる。まだ慣れない感覚に浮き足立ってくるりと回った。
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