真っ暗な水底に揺蕩って、ゆらゆら、ふわふわ、考える。ここはどこなんでしょう。ぼくはどうしてこんなところにいるのでしょうか。アイドルは、ぼくは目映い光の中にこそ在るべきなのに、そうでなくてはならないのに、どうしてでしょう。何も見えない暗闇が、スポットライトよりずっとあったかく感じるのは。
ああでも早く帰らなくちゃ、お母さんが泣いている。ぼくを呼んでいる。喉が苦しくなるほど押し殺した声で何度も、何度も。
泣かないで、ぼくは大丈夫。目を開けてそう伝えたいのに、瞼はぴくりとも持ち上がらない。「要」。きつく握られた手が、肩が、背中が痛む。膝が、脇腹が、心臓がみちみちと音を立てて捻れ、ぼくはまた黒い波に掠われる。
5時間目が終わったら一目散に家に帰る。入学したばかりのころは遊びに誘われることもあったけど、生憎とぼくは忙しい。一刻も早く家に帰って歌とダンスの練習をしなくては、寝る時間までに宿題を終えられなくなってしまう。何度も断っているうちに少しずつ、男の子たちはぼくから離れていった。
みんな分かってないだけ。仕方がないと言い聞かせ、白線の上を黙々と駆ける。教科書を全部入れているせいかランドセルは上下左右に暴れ、身体が引っ張られて走りにくいことこのうえない。
お母さんの言うとおり、ドッジボールもゲームも秘密基地も、おじいちゃんになってからだってできる。アイドルは今から努力してもなれるかどうか分からない特別な存在で、だからぼくはサッカーなんて、サッカーなんてしている場合じゃない。だってその特別な存在に「要ならなれる」とお母さんが抱きしめてくれたから。
昨日とちってしまった「新曲」の歌詞を唱えていると、あっという間にマンションに着いた。お母さんが付けてくれた紐付きの鍵を取り出して、自動ドアを開ける。もう夏が来るのに、エントランスはヒヤッとした匂いで満ちている。白いつるつるの石は大理石というらしい。せっかくお母さんが教えてくれた暗証番号での解錠は覚えられなかったのに、それだけは覚えていた。
新しい家には未だ馴染めない。綺麗で新しく、駅もコンビニも近いけれど、お父さんがいない。ぼくにとって、それが寂しいのかどうかは分からない。お父さんはもともとあまり家に居つかない人だった。それでも気配や存在感のようなものはいたるところにあったのに、全てがボワンと消えてしまったような薄気味悪さがずっと喉に引っかかっている。
お父さんがいなくなって、お母さんは泣いたり怒ったりしなくなった。その代わり、思い切り笑ったりお菓子を焼いたりすることもなくなった。いつも疲れた顔をして、ぼーっとテレビを見ていることが増えた。一緒に遊んでくれなくなったぶん、部屋を散らかしても汚しても何も言わなくなった。あるとき、ぼくは咳が止まらなくて、息の仕方が分からなくなった。半狂乱で起こしに行ったぼくをお母さんは血相変えて抱き抱え、病院へ連れて行ってくれた。久しぶりの抱っこがうれしくてすがりつくと、診察室の蛍光灯にお母さんの爪がきらりと光った。お母さんが元気を取り戻したのはそのころだった。
帰りの会が長引いてしまったので、恐る恐るドアを開ける。そっと室内を窺うと、お母さんの部屋から鼻歌が聞こえてきた。靴を端にそろえてから「ただいま」を言うと、ご機嫌な「おかえり」が返ってくる。うれしくなって部屋を覗くと、香水のいい匂いが漂っていた。
ベッドに並べられた真新しい服は、どれも「祭壇」と同じ色合いをしている。壁一面を彩るポスターとブロマイド、その隙間を埋めるように貼られたピンぼけの黒い写真たち。閉め切ったカーテン、薄暗がりに煌々と輝くドレッサーの灯り。
「ぎりぎりで『同行』が決まったの。ご飯は冷蔵庫に買ってあるから、チンね。歌もダンスも自分で復習して、帰ってくる前に寝ておいて」
「うん、分かった。ぼくのことは心配しないで、楽しんできてね」
返事の代わりに華奢な椅子がカタンと鳴った。お母さんは鏡を覗き込んで、くっとまつ毛を持ち上げる。くるくるの長い髪が肩から溢れてゆらゆら揺れる。
お母さんがライブの日はぼくもうれしい。復習といっても1人では何をしていいか分からないので、2、3度通しで歌い踊ったあとは宿題さえ済ませてしまえば好きなことをして過ごせる。何より、お母さんが帰ってくるまで寝たふりをしていれば、揺り起こして「ファンサ」の感想を聞かせてくれることがある。そんな夜に入れてくれるココアの美味しいこと。お母さんの幸せとぼくの幸せが溶け込んだ甘さでお腹の中があったかくなる。
今夜は何をして過ごそうか考え始めたところで、困ったことに気がついた。今日の宿題は音読の範囲が広い。すぐに取りかからなくちゃ、お母さんの出発に間に合わなくなってしまう。
慌ててリビングに駆け込んで、国語の教科書と音読カードを引っ張り出す。この間は声が大きいとお母さんに嫌な顔をさせてしまったので、部屋へは行かず、その場に座ってページをめくる。
「おおきなかぶ。おじいさんが、かぶの種を一粒、庭にまきました。あまい、あまいかぶになれ。おおきな、おおきなかぶになれ。」
授業中はつっかえてしまった部分がするすると読めて、つい気持ちよくなってしまう。背筋を伸ばし、息を吸い込むとお腹がぽこっと膨れる。
「あまい、あまい。おおきな、おおきなかぶになりました。おじいさんはかぶを収穫しようとしました。うんとこしょ、どっこいしょ」
ページの隅に指を添え、息を吸う。そのとき、お母さんの部屋から大きな大きな音がした。何かを打ち付けるような硬い音に、心配になって立ち上がる。
「要ちゃん?」
静かな、低い声がばりばりと廊下に響いて、思わず足が止まる。何がかは分からないけれど、しまったと思った。お母さんがぼくを「要ちゃん」と呼ぶときは、ぼくが間違ったことをしているときだから。お母さんは笑っていると世界一かわいいのに、ぼくが言うことを聞かないせいでシワができてしまうと嘆いていた。
「要ちゃん、それ、うるさいんだって。この間も言ったよね?」
「う、うん。だから遠くで読もうと思ったんだけど、声が大きくなっちゃってごめんなさい」
「ねえ要ちゃん、この前、スタンプ買ってあげたよね。デンキネズミの絵の、よくできましたって書いてあるの」
「うん! うれしかったから、大事にしようと思ってまだ使ってないけど……」
「言わなかった? あれはね、このために買ったの。これから音読は聞かせなくていいから、サインの代わりに自分でスタンプを押しておいて。分かった?」
結局、お母さんを見送ったあとも続きは読まなかった。留守番の家で音読なんてしたら、ひとりぼっちが怖くてたまらなくなってしまうから。シャンプーのときに目を閉じたままできるならしたかもしれないけれど、何度読んでみても「うんとこしょ、どっこいしょ」の他は一文だって覚えることはできなかった。寝る直前になって押したスタンプは角がかすれていて、知らないゲームのキャラクターがぼくに笑いかけていた。
「ほら、お顔見せてごらん。うん、うん要は今日もかわいいね。大丈夫、要には十条の血が流れてるんだから、頑張って練習したらきっとアイドルになれるからね」
本当に寝てしまった日は、意識の遠くでお母さんが笑う声を聞いた。お酒と香水の匂い。ぼくの頬を掴むあったかい手。かわいい、大丈夫、アイドルになれる――拾えた言葉はそれだけで、お母さんが何を伝えたかったのかは分からなかったけれど、うれしかった。ぼくは愛されているのだと安心できた。あの日の朝までは。
怖い夢を見たわけでもないのに、目覚ましが鳴る前に起きてしまった。ぼんやり天井を見ていると頬がひんやり冷たくて、秒針の音がいやに大きく響いて聞こえた。まだ留守番が続いているような、痛いくらいの静けさに胸がざわざわざわめいて、そっとお母さんのベッドに潜り込んだ。後で怒られたって構わない。お母さんのあったかい背中に引っ付いて、お母さんの匂いに包まれて、三つ、四つ心音を聞けば安心して眠れるはずだった。ところが潜り込んだ布団は冷たくて、お母さんはどこにもいなかった。
お母さんに捨てられたのかもしれない。リビングに戻って泣いていると、玄関の鍵が開く音がした。
「お母さん!」
凍えた身体で、弾かれたように廊下へ飛び出した。ドアを開けたまま、たくさんの見知らぬ大人たちが幽霊でも見たかのような顔をして、じっとぼくを見つめていた。
大人たちは警察だと言って、お母さんの部屋にあった荷物をほとんど運び出してしまった。剥き出しになった壁紙に呆然とするぼくを、知らないおじさんの手袋がやさしく撫でた。
何人もの大人が繰り返し、お母さんのことを聞いてきた。普段の様子、部屋の写真のこと、どんなお母さん「だった」か。そのたびに、ぼくはお母さんがどこにいるのか尋ねた。さっきの人は嘘つきで、この人は正直者かもしれないと期待して。
期待と失望を繰り返して、連れ出された先で亡骸を見た。警察署の台に寝かされたお母さんは白い布が掛けられていて、ぼくが室内に入ると顔と右手だけが出るように捲られた。制服のお姉さんに促されて手に触れると、大理石みたいに白く、冷たくなっていた。怒っているような、泣いているような顔だった。
「まさか、子どもがいるなんてな」
搾り出したような低い声で、白髪のおじさんが呟いた。あの日ぼくを撫でた手が固く握られて、わなわな、小さく震えていた。
おじさんたちは何一つ嘘をついていなかった。事実、お母さんは死んだ。可哀想に、まだ若かったのにライブ中に事故に遭い、言い残すこともなく死んでしまったらしい。
葬儀がどうの、遺骨がどうのと難しい話は泣き暮らすぼくの頭上を飛び交って、気付いたときには施設に押し込まれていた。持ち込めた荷物はランドセルに入るだけの勉強道具と当面の着替え、古い写真が3枚だけ。引っ越しのときになくしてしまったんだろうか。あんなにもたくさんの写真に彩られた家だったのに、ぼくとお母さんが写ったものはほとんどなかった。
施設での暮らしは地獄の一言に尽きた。誰も彼もがぼくに冷たく、働かなければ食事にありつくことさえできなかった。朝早く起きて施設中にぞうきんをかけ、学校から帰れば「家事手伝い」と称して内職をさせられた。膨大なノルマを捌けなければ食費を削られる。夜遅くまでかかって仕上げた翌日の授業は寝ているうちに終わってしまう。そうこうしているうちに算数が、理科が、社会が、さっぱり分からなくなって、宿題を解くのが困難になった。
それでもぼくは挫けるわけにはいかなかった。お母さんが望んでくれた以上、ぼくはアイドルにならなくてはならなかった。ぼくを守り育ててくれたお母さんの愛に報いるために。だから必死で時間を作り、お母さんのレッスンを思い出して自習した。ぼくが歌い踊ればお母さんは喜んでくれたのに、施設の大人たちは皆一様に白い目でぼくを見た。それはまるで、熱が出て夕食を戻してしまったときと同じ、汚いものを見るような目だった。
仲間なんていなかった。もとの学校でも友達と呼べるような相手はいなかったけれど、ぼくを虐げる人はいなかった。なのに、初めは施設の子どもが、やがて同級生が、ついには知らない子までもがぼくを避けて疎んじた。ハンザイシャ菌が移ると言って、手で触れたものは執拗に払われた。
ぼくを褒めてくれるのは、お母さんが遺してくれたスタンプだけだった。よくできました、よくできました。頑張ったことを書き連ねた紙にスタンプを押すと、お母さんが喜んでくれているような気がした。また一歩アイドルに近づけたぼくを誇りに思って、一層愛してくれることを願った。インクが尽きて、キャラクターがほとんど見えなくなっても、ぼくはスタンプを押し続けた。これが「鼓舞する」ということなんだと知ったのは、玲明学園付属の中学に上がってからだった。
賢い路線で売ると決まってから、死に物狂いで本を読んだ。遅れていた勉強を必死で取り戻して、頭の中で作文をするような話し方を身につけた。お母さんの教えを守っていたおかげで、歌とダンスは基礎ができていると先生たちにも褒められた。
そして、ついにデビューへと漕ぎ着けたぼくは、玲明学園に特待生として入学できることが決まった。うれしかった。ぼくからお母さんを奪ったのも、あんな施設に押し込めたのも、このために与えられた試練だったんだと思った。だったらもう何も悪いことは起きないんじゃないか。ぼくはこのままお母さんに愛されるアイドルになれる。心からそう信じていた。
ぼくが「十条要」だと知ったとき、柔和な笑みを浮かべていたクライアントの顔が、ピキッと凍り付いたように固まった。十条なんて、さして珍しい名字ではないと思っていた。だから、お母さんはいるか、もしかして事故で亡くなったかと聞かれたとき、その人がお母さんの知人か何かかと勘違いして、ついうれしくなってはしゃいでしまった。
「今日はこれで、また連絡するから」
慌てて立ち上がったその人から連絡が来ることは二度となかった。苦労して築いたものは全て一夜のうちに崩れ、ぼくが事態を理解するよりも早く、ぼくはタコ部屋に押し込まれることが決まった。
どん底でもがき苦しみ、眠れなくてスタンプを手のひらで転がしていた夜、知らない番号から電話がかかってきた。もう一度仕事が、チャンスがもらえるかもしれない。飛びつくように出たぼくに、若い男の声が「お兄ちゃん」だと名乗った。
「俺がお前の、要の力になってやる」
ぶっきらぼうな声がそう言ってくれたとき、ぼくは初めて自分が「要」だったことを思い出した。お母さんがいなくなってからの人生で、ぼくの名前を呼んでくれる人は誰もいなかった。ぼくを見て、愛してくれる人はいなかった。
降って湧いた見も知らぬ「お兄ちゃん」が本物かどうかなんて、ぼくにはどうだってよかった。ぼくが地獄で苦しんでいても、どれほど強く願っても、生きているはずのお父さんは助けに来てはくれなかった。ぼくにはもう家族がいないものだと思っていたのに、実はお兄ちゃんがいて、ぼくを助けてくれようとしている。垂れてきた糸にぼくは縋った。
お兄ちゃんは無駄や非効率が大嫌いらしいけれど、聞けばときどき答えてくれることもあった。お兄ちゃんも早くにお母さんを亡くしていること、お父さんが許せなくて幼くして家を飛び出したこと、今は海外で暮らしているからそう簡単には会えないこと。
お兄ちゃんについて知れば知るほど、ぼくの兄弟だというのが信じ難くなっていった。お兄ちゃんはあまりにも強く、賢かった。縋るものもなく独りで生きているなんて、ぼくには想像もできないことだった。
そんなすごいお兄ちゃんがぼくを支えてくれている。だから、本当のことなんて言えなかった。お兄ちゃんまで失うわけには、捨てられるわけにはいかなかった。
お兄ちゃんが立ててくれた作戦の通りに動いたら、少しずつ仕事が戻ってきた。お兄ちゃんが付いて最初の仕事が上手くこなせたとき、うれしくて電話をかけてしまったぼくに、お兄ちゃんはただ一言「そうか」と言った。後から考えてみれば日本とあちらには時差があって、お兄ちゃんは寝ている最中だったのかもしれない。けれど、浮かれていたぼくはさっと血の気が引くのが分かった。強くて賢いお兄ちゃんにはきっと、できて当たり前なんだ。そう思ったら、とても失敗しただなんて言い出せなかった。
今回の仕事も大成功だった、ぼくは完璧で優秀だ、何も問題はない。嘘に嘘を重ねるうちに、ぼくにはもう、何が本当だか分からなくなってしまっていた。どういうわけか、失言を重ねた収録も放送ではうまく振る舞えたように編集されていて、そういう映像ばかり選んでお兄ちゃんに送った。都合良く編集された、お兄ちゃんの指示に従って動く「HiMERU」。巽と違って失敗ばかり繰り返すぼくを、「完璧で優秀なHiMERU」を、お兄ちゃんは信じている。HiMERUが愛されることは、ぼくが愛されることと同じなのか。ぼくはだんだん、自分が分からなくなっていった。
ボロボロになっても信念を曲げない巽を見ていると、そんな自分が恥ずかしかった。ずっと忘れていたのに、初めて音読カードにスタンプを押したときの後ろめたさが、あのとき躊躇った幼いぼくがじっとこっちを見ているような、落ち着かない気持ちになった。
アイドルになりたかった。お母さんを笑顔にした、お母さんが愛する存在になりたかった。お母さんの愛を、ぼくの夢を軽んじて踏みつけにしたやつらを見返してやりたかった。ぼくを捨てたお父さんを後悔させてやりたかった。独りでも生きていけるお兄ちゃんに、優秀なお兄ちゃんに並び立つ弟になりたかった。
けれど、ぼくはだめだめだった。最強の味方を手に入れて、汚い手段さえ使っても、ぼくは巽のようにはなれなかった。本当はずっと昔から気づいていた。ぼくはたぶん、アイドルには向かない。ただ、それを認めるわけにはいかなかった。たとえ向いていなくても、ぼくには他に道なんてなかった。お母さんの言葉を信じて、必死で努力して、落ちても落ちても這い上がるしかなかった。だから、だけど、なのに、どうして!!
遠くで雨が降っている。ごろごろ、空が鳴っている。消毒液の匂いが鼻をくすぐる。汗ばんだ額に触れる冷たい指。ぼくは、どこにいるんでしょう。ええそうですよ、ぼくは要です。ぼくを呼ぶきみは誰ですか。
お母さんは死んでしまったし、お父さんはいません。巽はぼくを「HiMERUさん」と呼びますし、漣は何度教えてもぼくを「十条」と呼ぶ。ぼくをそう呼ぶのは世界でただ一人、お兄ちゃんだけです。
でも、そんなはずはないですよね。ぼくの張りぼてはとっくに看破されているでしょうし、言われたことも守れない雑魚なんて、無駄を嫌うお兄ちゃんには必要ありません。せっかくの献身をぼくは裏切ってしまいました。ぼくはぼくのために、違う人の手をとってしまいました。お兄ちゃんは独りで生きてきた強いひとです。賢いきみは、これからも独りで生きていけてしまうのでしょう。
雨の日は腕が、脚が、胸がしくしくと痛む。けれどきっともう、ぼくの瞼は開くのでしょう。ぼくに意気地がないだけで、掠れていても声は出せるのでしょう。ねえ、ぼくの手を握るきみ。きみは、だめなぼくを愛してくれますか。アイドルになれなかったぼくを、咎人の母を愛するぼくを、独りでは生きていけず、みっともなく縋りつくぼくを許してくれますか。
頭では分かっているのです。何度も来てくれたでしょう。ぼくを呼んでくれたでしょう。たくさん話してくれたでしょう。お母さんのほかにぼくの頬を撫でてくれた人はいません。お母さんの手はもっと柔らかくて、ちょっと乱暴だった。だけどね、ぼくはもうこれ以上傷つくことには耐えられない。もし目を開けて、この手がお兄ちゃんじゃなかったら、ぼくはもうどうしていいか分からない。目を開けるのが、現実と向き合うのが怖くてたまらない。
だからあと少しだけ、もう少しだけ、このあったかい部屋にいさせて。お兄ちゃんに愛されて、守られている。そんな夢に包まれて、このままずっと眠っていたい。そう願うのは、起きなくちゃいけないって分かっているからなのです。ねえ、お兄ちゃん。ほんの少しだけ待っていてくれますか。ぼくを信じてくれますか。
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