午前1時:夜の迷子

 ▼こはく

 背中への衝撃と冷たさで目が覚めて、一瞬だけ死んだかもしれないと思った。受け身も取らず床に落っこちた割には骨が折れた感じはせず、首を傾げる。ずり上がった視界に見覚えのある家具がずらりと並んでいて、慌てて立ち上がるとビリビリに裂けた着ぐるみの切れ端が、ひらひらと床に舞った。デジャブのようにすっぽんぽんになった身体が元の大きさに戻っている。

「よっ……」

 歓喜の雄叫びを上げかけて、慌てて手で口を押さえつける。わしが寝てしまったあと、律儀に泊まりに来てくれたらしい。HiMERUはんはんがベッドで寝息を立てている。

 とりあえず服を着て、身体の感覚を確かめるために部屋を歩き回ることにした。屈伸したり跳ねたりしながらパンツを履いていることの安心感を噛み締めて、誰かは知らんけど、パンツを発明した人に感謝する。

 スマホに溜まっていた連絡を全て確認して、やっと人心地がついたら突然、お腹と背中がくっつきそうなほどの空腹感に襲われた。考えてみれば、今日食べたものといえばうどん1本の半分と小さなスプーン1杯分ほどのチャーハンと唐揚げの欠片だけだった。今日ばかりはこんな時間に夜食を食べているところを見つかっても、HiMERUはんも何も言わないはず。棚からとっておきのどら焼きを取り出してかじり付くと、空腹を何より恐れるニキはんの気持ちがちょっとだけ分かるような気がした。

 行儀が悪いのは承知のうえで、二つ目のどら焼きを咥えながら緑茶を淹れる。ソファーに掛けてがぶりと飲み下すと、喉から胃にかけてが直接カッと温まるような感じがした。

 毛布はHiMERUはんが持ってきたらしい。ぼんやりと背中を眺め、今夜はどこで寝たらいいか考えていると、HiMERUはんが被っている毛布が実家に持たされたものではないことに気がついた。

 じゃあ自分の毛布を引っ張り出して床で寝ようかと考えるけれど、元に戻れたからには明日はダンスのレッスンがある。ただでさえ、わしだけちょっと遅れ気味な気がしているのに、床やソファーで寝て身体がバキバキになってしまったら困る。かといって、ジュンはんのベッドで勝手に寝るわけにもいかない。

 まあ、わしのベッドやし。お腹が満たされたらどっと眠気が襲ってきて、ごちゃごちゃと考えるのが面倒くさくなってしまった。そうでなくても今日は通常の20倍ほど動き回って疲れているので、自分のベッドで寝たい。

 好意で泊まってくれたHiMERUはんまで狭くなってしまうのは悪いけど、堪忍な。心の中で言いながら毛布に潜り込むと、HiMERUはんはベッドから転げ落ちそうなほど隅っこに寝ていることに気がついた。

 普通の人間の大きさでも、ベッドから落ちると結構痛い。ついさっき身をもって知ったばかりの痛みをHiMERUはんに味わわせるのは嫌で、起こさずにもう少し中央に寄せる方法はないものかと考える。

 考え始めて10秒で瞼が一瞬くっついて、もう手っ取り早く抱き寄せてしまおうと思った。肘で毛布を持ち上げたまま、背中に腕を回そうとすり寄る。暖かな薄暗がりを覗くと、HiMERUはんは肘と膝がくっつきそうなほど小さく丸まって眠っていた。

 普段の態度や楽屋で眠る様子からは想像も付かない寝姿に、見てはいけないものを見てしまったような気になる。きちんと長袖長ズボンの寝間着を着込んで毛布まで被っているのに、まさか寒いわけでもあるまいし。急に気温が下がったとはいえ、昨日まで季節は夏と秋の間で揺れていて、わしはタオルケットで寝ていたんだから。

 せっかくの長い手足を折り畳んでしまって、窮屈じゃないんやろかと思う。寝るときは思い切り大の字を書きたいわしにはとても考えられない寝相で、ついまじまじと見てしまう。

 丸まった肩に左手を回して、手のひらにぐっと力を込める。同時に膝で膝をゆっくりと押して、縮こまった身体がまっすぐになるように開いてやる。引き締まった背中は手のひらに温かく、とく、とくと穏やかに脈を打っている。

 昼間は弟はんの寝顔を見てよく似ていると思ったけれど、こうして目と鼻の先で見てみると、そんなには似ていないような気もした。夜寝ているときくらいは気の抜けた顔をしているんだなと知って、なんだか分からないけどほっとした。静かに寝息をたてるHiMERUはんは、これまでは夢にも思わなかったけれど、ほんの少しだけあどけなさが残っているようにも見える。そう考えてみると、さっきの寝姿はまるで小さな子ども……というより赤ちゃんのようだった。

 領地がちょうど半分ずつになるまで引き寄せて、肩まで毛布をかけ直してやる。これでやっと落ち着いて眠れるわと照明のリモコンを手繰り寄せて、何の記念か知らないが最後にもう一度だけと、HiMERUはんの横顔を盗み見る。

 寝ぼけ眼でぼんやりと眺めていると、一粒だけ目から何かがぽろっと溢れて、それきり後には続かなかった。あまりにも一瞬だったので見間違いかとも思ったけれど、覗き込んだ睫毛はうっすらと濡れていて、なんとも言えないほろ苦い気持ちで胸がいっぱいになった。

 夕方の公園で上を向いて、静かに声を震わせていたHiMERUはんを思い出して、この人はいったいどこまで不器用なんやろかと寂しくなった。1人で全部抱え込んで、抱え込めてしまうせいで誰もHiMERUはんの無理に気付けない。こんな真夜中には声を上げて泣いたってきっと誰にも分かりはしないのに、泣かない癖でもついてしまっているのか。

 灯りを落として、世界からHiMERUはんの涙を隠してやる。目を閉じると、温かく整えられた病室が、綺麗に畳んで積まれたタオルが脳裏に浮かんできて、わしの方が泣けてきそうだった。地下鉄に揺られながら、ポケットから見上げた表情のない白い顔。わしがいた間、物音一つ立てずに眠っていた弟はん。誰かHiMERUはんに気付いて、ありがとうと笑ってくれる人はおるんやろか。

 もぞもぞと寝返りを打って、HiMERUはんの胸もとをとんとんと規則正しく叩く。怖い話を読んでしまって眠れない夜、姉はんたちがわしにそうしてくれたように。何も怖いことない、大丈夫やでと心の中で囁きながら。  分け合った体温が心地良くて、いよいよ瞼が持ち上がらない。もう起きても小さくなってませんように、と宛先も決めずに願いを掛けて、うつらうつらと眠りに落ちていく。もぞもぞとすり寄ってきた温もりを両腕に抱えて、代わりに意識は手放した。

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