▽HiMERU
デザート代わりとして椎名に食べさせた豆腐のパックにお湯を注ぐ。3分の2ほど溜まると、裸で体育座りをしている桜河の肩甲骨あたりまでが浸かった。アメニティのお湯で膨らむスポンジのように、ゆるゆると桜河の身体が開く。
「お湯加減はいかがですか?」
「ん、ちょうど良ぇわ。あー、極楽」
鳴上さんとHiMERUがいるこちらの部屋とは違い、桜河と漣は夏場あまり湯に浸からなかったらしい。下ろしたてのような綺麗な風呂蓋に乗せたパックの中を、桜河がスイスイ気持ちよさそうに動き回っている。魚というよりはアザラシやアシカに似ているような気がして、絶対に口には出さないでおこうと思った。
腕立て伏せのような姿勢でちゃぷちゃぷと移動するのは、広い湯船に浸かったときの癖なのかもしれない。そういえば、遠征で温泉宿に当たったときはこうしてうれしそうに湯に波を立てるのが常だった。
「急に寒くなりましたからね。HiMERUも後で湯に浸かって来ようかと」
「うん、それが良ぇと思うわ。ちゅーか、べつに無理して泊まってくれんでも、わし1人でなんとでもできるで?」
浴槽に腰掛け、豆腐パックに指を差し込んで温度を確かめる。ちょろちょろとお湯を足していると、すいーっと近づいてきた桜河に人差し指を掴まれた。そのままくるりとパックをかき混ぜてやると、桜河は楽しそうに悲鳴を上げる。
「じゃんけんで負けたのはHiMERUはんですし……というか、そうでなくても苦ではありませんよ。漣には悪い気もしますが、同じ寮の違う部屋に泊まるというのは少しばかりわくわくするのです」
1人ではトイレに行くのも大変だろうと、夜間の世話係をじゃんけんで決めた。桜河の不運を散々おちょくっていた人でなしが言い出したのが意外で黙っていたものの、元より桜河が頼ってくれたのは、朝からずっと一緒にいたのは他でもないHiMERUだ。あとの2人が負けたとしても変わるつもりでいたら、何のことはない。見事なストレート負けを喫した。
「シャンプーを付けますよ。目を閉じていてくださいね」
人差し指の先でシャンプーの口を軽く叩き、付着した輪っかを濡れ髪に擦りつける。爪が当たらないように指の腹でくるくると円を描くと、桜河の小さな頭はみるみるうちに泡に包まれていく。
「かゆいところはないですか?」
「んー。こういうときいつも思うんやけど、あってもどこって言ったら良ぇか分からんくない?」
「ふふっ、HiMERUもそう思います。困ってしまいますよね」
「最初に美容院に連れて行かれたとき、言うて見たけど全然伝わらんくて、えらい恥ずかしい思いしたんじゃ。自分で掻くからちょっと待ってな」
わしわしと頭を掻くのを待って、急須に入れたお湯ですすぐ。続いてコンディショナーをつけようとディスペンサーを軽く押すと、勢いよく水が噴き出してきた。しまったという顔をしている桜河の話によると、延々と詰め替えを買い忘れ、水でかさ増ししていたらしい。すっかり薄くなってしまったコンディショナーはしかし、今の桜河にとってはちょうど良さそうで、怒るに怒れず笑ってしまった。
仕上げにタオルハンカチで包んだ桜河を洗面台に立たせ、ドライヤーをかける。うっかり強風を向けると後ろにころんと1回転してしまったので、左手で風を受けながら身体ごと頭を乾かす。両足を踏ん張り、目を閉じて温風に耐えている桜河を見ていると、あっちに住んでいたころ近所で飼われていた白い大きな犬を思い出した。
自分の入浴を済ませ、毛布を抱えて戻ると桜河は枕の上で眠っていた。スマホで何かを見ていたものの、待ちくたびれてしまったらしい。画面に倒れ込むようにして横たわっている。
裸で寝るよりは良いでしょうと言って着せた、ぬいぐるみ用の着ぐるみは見た目通りやや暑いようで、額にうっすらと汗をかいている。机に放られていたクリアファイルで扇いでやると、気持ちよさそうに寝顔が緩む。
自室へ戻る道すがら、図書室の本も調べてみたものの、何の手がかりも得られなかった。人は選びつつ、遭遇した数人にも話を聞いてみたが、結果は医者に尋ねたときと同じ。おすすめの漫画やドラマを教わって終わってしまった。
1日かけても結局、桜河の身に降りかかった災難についての情報は何一つとして得ることができなかった。元に戻る方法も、何故こんなことになってしまったのかも。天城の話を信じるなら、ひとまず戻ることは叶いそうだが、原因が分からなければまた同じことが起こらないとも限らない。
就寝前のストレッチをしながら考えているうち、夕食の席で胸に引っかかった言葉があったことを思い出した。無神経な酔っ払いが桜河に言っていた「魔法を解くには掛けた願いに決着がつくこと」。それから、「俺っちには何の旨味もねェよ」という言葉。
そんなことを願った覚えはないが、桜河が小さくなってしまったことで今日、何かがプラスにはたらいた人間はどう考えても俺しかいなかった。もし桜河がポケットにいなかったら、今ごろこんなにも穏やかな気持ちでストレッチなんかしていられただろうか。人もまばらな昼下がりの地下鉄で、人知れず窒息してしまっていたかもしれない。もっと悪ければ、病院に向かうことすらできず、自己嫌悪に苛まれてうずくまっていたかもしれない。
むにゃむにゃとくちびるを動かす桜河。規則正しく上下するもこもこの腹をじっと見ていると、自分の考えていることの馬鹿らしさにくつくと笑いが込み上げてくる。俺の願いに呼応して桜河が小さくなったなんて、そんなはずあるわけがない。だいたい、誰のために何をどう願えばいいのか俺にはもう分からないのだから。
時計を見上げて、ため息をつく。あとは0時を越えるかキスだったか――と考えて、酔っ払いの戯れ言を自然と受け止めてしまっている自分に呆れて笑った。
0時まではまだ2時間もある。本当に0時を過ぎて魔法が解けるなら見届けたいところではあるけれど、雑誌の撮影を控えている身で夜更かしはできない。桜河を踏みつけないように頭上に枕をずらして、ベッドに広げた毛布を掛ける。
ベッドを揺らさないように静かに間に滑り込むと、桜河の匂いと自分の毛布の匂いが混じり合って、落ち着かない気分になる。腕を枕にすると、ちょうど枕に横たわる桜河の寝顔が見える高さになった。
ふくふくと膨らむ頬を人差し指で撫でて、静かに息を吐く。今日は桜河に助けられてしまった。自分の方が力になるつもりでいたのに何もできなかったばかりか、俺のために小さな桜河を振り回した。俺の勝手な願いに巻き込んで、大変な目に遭わせてしまった。
以前にも全く同じ反省をしたなと気がついて初めて、救われたのは今日だけじゃないのかもしれないと思った。桜河は俺が思っていたよりずっと大人で、しっかりと自分の足で立っていた。弟のように世話を焼いているつもりで、ずっと支えられていたのは、甘えていたのはもしかすると俺の方だったのかもしれない。
ダメでもともと、べつに減るものでもなければくちびるを奪うわけでもない。感謝と愛情、憧れのような何かを込めて、小さな頭にそっとくちびるを押し当てる。病室の鏡に向かって苦手なパートの練習をしていた桜河を思い出すと、0・1%でも可能性があるなら試してみるべきだと思った――たとえ、本当に天城村の技術でどうにかなるのだとしても。
静かな部屋に思うより響いてしまったリップ音が恥ずかしくて、さっさと毛布を被って目を閉じる。夜間、目覚めた桜河がベッドから落ちてけがをしないよう、電気はうっすら絞っただけで明るい。普段なら余計なことばかり考えてしまいそうなものだが、とにかく今日は疲れた。紙せっけんのような桜河の匂いに包まれているせいもあるんだろうか。気付くとすぐそこまで眠気がやってきていた。
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