▼こはく
夏は世界の輪郭がくっきりしとる気がする。極彩色の車窓を寝ぼけ眼で眺め、ぼんやりと考える。座敷牢におったころのわしに表の夏を説明するとしたら、何て言うのが良ぇやろか。
夕立みたいな騒動の訪れとともに始まった今年度も、もうすぐ折り返し地点。いつの間にやら盆を過ぎ、Crazy:Bは通常営業に戻りつつある。わしとHiMERUはんの奮闘の甲斐あってか、ちょっとお姉はん向けの雑誌やお上品な旅番組に呼ばれる機会もちょこちょこ出てきた。けど、そんなのは全体の一握りにも満たない。
やっぱり需要はくだらんバラエティや身体を張った仕事にあるらしい。今日なんぞは「自作の筏で激流下り対決」とかいう、阿呆の真骨頂みたいなロケに挑んできた。ただでさえ転覆に転覆を重ねとるのに、燐音はんが陸でも暴れ回ってくれたおかげで、車内は死屍累々の様相を呈している。
ふっと目を覚ますと、バスは見たことのない道を走っていた。誰がどうやって世話しているのか、広い道路のど真ん中に生け垣が植わっていて、向こう側には飲食店やスーパーが付かず離れず並んでいる。
隣で小さく舟を漕ぐHiMERUはんは、微かに毛先が濡れたまま。起こさないようにそっとお尻の位置を直して、窓枠に頬杖をつく。ひやり、眠たい身体に金属が気持ちいい。
もう9月になろうというのに、未だ吸い込まれそうなほど青い空。ぱきっとした稜線に積まれた雲がもこもこ盛り上がっていて、あまりの白さに目がくらむ。うつむいてもチカチカ、すれ違う車が、街路樹の葉の1枚1枚が、ひっきりなしに陽光を弾いてくる。
真っ昼間より、少し日が傾いてからの方が眩しい気がする。外に出る前は、そんなことも知らなかった。
バスの影がずるずる、生き物のように這って生け垣を撫で付ける。眼下を流れる粗い目のアスファルト。剥げかけの白線を目でなぞり、影の化け物を追いかける。
一足早く交差点へ辿り着き、満足したところで、子どもっぽい一人遊びに夢中になる自分に気が付いてしまった。ばつの悪さを咳払いで誤魔化して、もう一度眠ろうかと腕を組む。
目を瞑ろうとしたその時、ぱっと視線を奪われた。原色で塗られた車窓の中で一際輝く、桃色の光。
目を凝らして見ればなんのことはない。光の正体はキョウチクトウの花だった。次の次の信号のそば、団地のような建物の間。青緑色のフェンスから身を乗り出すようにして、わさわさと茂る低木たち。
花一つとってみても、外で見るとなんでこうも違うんやろか。自分たちこそが夏の主役だと信じて疑わない、堂々とした佇まいに思わずほう、とため息が漏れる。実家の庭に咲いていたときは、もっと陰気で毒々しい、薄気味悪い花だと思っていたのに。
あんまり綺麗なのでうれしくなって、ついHiMERUはんの方を窺う。疲れている人を起こすのと、花の盛りを独り占めするのではいったい、どちらの方が薄情やろか――なんて、そんなことを考えている間に通り過ぎてしまう。怒られたら潔く謝れば良ぇだけの話やんか。えいっと胸に決め、丸まった肩に手を伸ばす。
かっくん。指先が触れたところで車体が縦に揺れ、長い睫毛が持ち上がる。どうやら信号に引っかかったらしい。
「おはよう」
「桜河……起きていたんですか」
はふぅ、と欠伸を噛み殺し、そのまま目をこする。疲れが抜けないのか、珍しく隙だらけの横顔。なんとなく得したような気になって、うふふと笑う。
ちゃうちゃう、肝心な用を忘れるところやった。
「なあ、あれ見て」
「あれとは?」
「ほら、あそこ」
指さして見せるもいまいちピンと来ないのか、HiMERUはんは眉根を寄せて瞬きをする。緩慢な仕草に変にどきどきしながら、場所を譲ろうと縮こまる。
「あそこのキョウチクトウ、見える? あんまり見事やったから、ぬしはんにも見てほしかってん」
こめかみを押しつけた窓ガラスは期待したほど冷たくはなく、むしろ外の暑さを思い起こさせる。ふわり、体温を感じるくらい近く寄せられたHiMERUはんの頬は、同じ数のステージに立ってきたとは信じがたいほど白い。いつも香水だかシャンプーだかが甘く香る髪は、川に揉まれて流されたのか、今は何の匂いもしなかった。
「うちとこの庭にも咲いとるけど、外で見ると全然違う花に見えるんやなっち思って」
同じ色のはずやのに、あんな色やなんて知らんかったわ――我ながら訳の分からんことを、と思いながら付け足すと、HiMERUはんは
「ええ、HiMERUも知りませんでした。目が覚めるような、といったピンクですね……綺麗です」
と言って微笑んだ。
「そやろ」
不思議なもので、そう応じて笑い返すといっそう鮮やかに映る。1人で見ていたときとは比べものにならないほど燦然と、濃い桃色が匂い立つ。
出先で美味しいものを食べたとき、Crazy:Bの連中やプロデューサーはんたちにお土産を買って帰ろうと思いつくみたいに、ふとHiMERUはんの顔が浮かぶことがある。こんなふうに、うれしいことがあったときなんかは特に。
何でかは分からん。けど、そうするともっとうれしくなったり楽しくなったりするんよな。
いつからなのかも分からない。気付けばずっと――PBBの活動で窒息しかけていた間の記憶はないにしても――そうだった。映画出演が決まったときも、テストで良い点が取れたときも、歌の先生に褒めてもらったときも、まずHiMERUはんに聞いてほしかった。庭のツツジが咲いたことやその冬最初の霜柱を踏んだこと、ニキはんが抹茶のデザートをメニューに加えてくれたことさえも、いの一番に伝えたかった。
流れていく光を見送って正面に直ると、HiMERUはんもそうしていたのか、ぱちっと目が合った。すっかり起きてしまったらしい。知らぬ間にしゃんとした雰囲気を纏っている。
「先日の花と似て見えたのに、こんな遠目でよく分かりますね」
そう言われて思い出すのは1週間ほど前のこと。たまたま選んだ散歩道で見つけた、登ってみたくなるほど立派なサルスベリの木。がっしりとしたすべすべの枝が、大輪の花でしなっているのに驚いて、まっしぐらに星奏館へ駆け戻った。
夜になってジュンはんに顛末を話すと、
「サクラくん、スマホは持ってなかったんですか?」
と目をぱちくりされてしまった。言いたいことは分かる。でも、自分でもよく分からんけど、とにかくHiMERUはんと見たかったんじゃ。
「花だけ見ると似てるかもしらんけど、木とか葉っぱとか見ると結構ちゃうよ。アヤメとカキツバタとか、ツバキとサザンカとかもな」
そう言って笑うと、HiMERUはんは一瞬だけ、感情が抜け落ちたような顔をした。
「前から思っていたのですが、桜河は随分と花に明るいですよね」
気のせいだったのかと思うほど自然に取り繕って、右耳に髪をかける。乾ききった毛先がてんでバラバラに、好きな方を向いているのが気に食わなかっただけかもしれない。
「たぶん、それは姉はんの影響やね。生け花のお稽古が終わるとは、両手の幅ほどあるでっかい器を運んできて、これが何の花、これが何の花っちいうて解説してくれたんよ」
いつもひんやり薄暗い座敷牢では、姉はんたちの〝発表会〟と小窓から香るキンモクセイ、お膳に並んだ旬の食材、練り切りの形なんかだけが、季節の移ろいを感じる術だった。
「ほかにも庭やら道端に咲いとる花を摘んでは持ってきてな。いっぺん、持ってきた花がアヤメかカキツバタかで取っ組み合いの大喧嘩になったこともあったわ」
「ふふ、それは困りましたね」
「うん。弟の手前ってのもあるんか、どっちも一歩も譲らんでな。わしが何とかせなあかんっち思って、大慌てで調べたんじゃ。そしたら、そのどっちでもない、ハナショウブやったんよ」
「おや」
「コッコッコ、おかげで難なく覚えられたわ。姉はんが認めんから3人で膝つき合わせて、図鑑もこっぺり引いたしな」
他所の家の思い出話なんて面白いもんでもないやろに、HiMERUはんはどこかうれしそうな顔をして、じっとわしの話を聞いてくれる。やわらかな眼差しに、お腹の辺りがそわそわと浮いたような心地になって、口からするすると言葉が溢れ出す。
「でも、わしは庭の草木と切り花しか知らんから……キョウチクトウも座敷牢で覚えたんよ。下の姉はんが、中庭に咲いとったのを手折ってきてな」
言わんで良ぇやろこんなこと、と思うのに、同時にHiMERUはんに聞いてほしかったような気がして、つい言葉をつなげてしまう。過不足なく挟まれる相づちと穏やかな笑み。それだけで、妙な安心感が胸に満ちる。
「しばらくしたら、上の姉はんがえらい剣幕で駆け込んできてな。いきなり姉はんの手を引っ叩いたかと思ったら『何しとんのあんた!』っち言うて」
桜河の中庭にはスイセンだのマンダラゲだの、〝実用性の高い〟草花ばかりがうっそうと生えている。わしはもちろん、当時まだ幼かった下の姉はんはそんなこととは露知らず、ただ咲いたばかりの綺麗な花を見せてやろうとした。
わしのために良かれと思ってしたことが原因で泣きじゃくる姉はんを見るのは、わし自身が叱りつけられるよりもよっぽど胸が苦しかった。後ろめたいような、悲しいような、苦い気持ちでいっぱいになった。今までキョウチクトウを薄気味悪い花だと思っていたのは、毒としての使い道を知っているからというより、そんな苦さがずっと胸に残っていたからかもしれない。
「それで、えっと……」
綺麗やと思えたのがうれしかったからといって、流れでこんな話を聞かされてもHiMERUはんは困るやろ。はたと気付いて口ごもる。ただ、ここからどうすれば当たり障りなく話を終わらせられるのかが分からない。
口をぱくぱくとさせていると、不意にHiMERUはんがにっこりと笑った。
「キョウチクトウには毒がありますからね」
「え?」
さっきまでの相づちと変わらない調子で沈黙を払って、「さあどうぞ」とでも言うように小首を傾げる。
「……見たことないっち言うてなかった?」
「ええ、先ほど見せてもらったのが初めてですよ。でも、何度か本で読んだことがあるのです」
事もなげに話すHiMERUはんを見て、相変わらず変な人やなと思う。毒があるのは知っていても花の姿は知らなかったなんて、そんなチグハグな話があるんやろか。だいたい、物知りなHiMERUはんがキョウチクトウを見たことがないなんて。
前から妙に子どもっぽいところがあるとは思っていた。家族ごっこがしたかったと明かしてくれたあの日から、ごくたまに、わしよりよっぽど小さな子どもに思えることがある。なんだってそんなことがしたかったのか、わしには今も到底理解できない。けれど、家族以外と〝おままごと〟をしたいと思うような事情がHiMERUはんにはあるらしい。
普段が年齢よりずっと大人びて見えるせいか、チグハグさに触れる度、つい心臓がびっくりしてしまう。本当はHiMERUはんだってわしとそう変わらない、宙ぶらりんな存在なのかもしれないのに。
人の心なんてそっくり理解できるわけがない。だからこうやって、びっくりしたりうれしくなったりしながら少しずつ、知ったような気になればいい。結局のところ、HiMERUはんがどう言ったって、わしにとってのHiMERUはんはわしが信じたHiMERUはんでしか在り得ない。
なんで綺麗な花を一緒に見たいのか、なんで人にはせん方が良ぇと思うような話を聞いてほしいのか、なんでそう思う相手はいつもHiMERUはんなのか。わしには、わしの気持ちもよく分からない。
ただそんな思いを受け止めてもらうたび、穏やかな時間をともに過ごすたび、やっぱりこの人のことが好きやなと思う。今はそれだけで良ぇんとちゃうかな。家族ごっこはできんけど、わしらは同じ巣に帰る蜂なんやから。
「なあHiMERUはん。いつかで良ぇから、覚えといてほしいことがあるんやけど」
ちょっとだけ伸び上がって、肩口に頭を乗せる。一瞬びくっと跳ねた身体はけれど、わしを咎めることはない。
「わしもな、ぬしはんの話ならなんでも聞くで。悲しかったことも、うれしかったことも」
まどろんだ空気を乗せたまま、バスは知らぬ間に見知った道を駆けている。夕焼け空にうろこ雲。ガラスにうっすら映るわしらの顔。
こつん。長い長い沈黙の後、おもむろに頭が挟まれて、わしの方が飛び上がりそうになる。
「ええ、覚えておきましょう」
噛み締めるように呟く穏やかな声が、頭のてっぺんからじんじんと響いた。
▽HiMERU
まだ湯気の立つコーヒーを一口含み、カップを置く。喫茶店のメニューはすっかり秋色に染まっていた。秋と呼ぶにはいささか暑すぎるが、エアコンで冷えた身体が内側から、じんわりほぐれていくのが分かる。
1人で受けた取材の後は、適当なカフェに入ることが多い。予め用意していなかった回答がHiMERUとして適切だったか精査するためだ。
つい先刻までは小さな出版社の一室にいて、文芸誌のインタビューを受けていた。読書の秋にちなみ、HiMERUが好む本を紹介してほしいという依頼。事前に何冊かピックアップしてリストを送っておいたほか、読者から寄せられた質問もいくつかあるのだと聞いていた。
「まず、こちらは高校生のファンからです。えー、ではですね。『HiMERUさんの好きな花は何ですか?』」
当然読書に関する内容だと思い込んでいたので不意を突かれ、一瞬答えに窮してしまった。とはいえ、HiMERUとしての正解を導き出すことはそう難しくない。
「HiMERUはブルーの花をいただくことが多いので、そのような花が好きですね。それから、衣装のモチーフとなったプリムラなどにも親近感があるのです」
意識的に口角を持ち上げ、淀みなく答えてみせた。肝心なのは回答自体が持つイメージではなく、回答によって持たれるイメージの方だ。贈られた花や衣装に用いた花を好む、というのはファンを大切にするHiMERUらしい答えだったと言えるだろう。
幸い、野暮ったいメガネを押し上げた男性記者は、
「なるほど、ありがとうございます」
とペンを走らせただけで、すぐに次の質問へと移った。
一通り思考を巡らせ、すっかり満足してコーヒーを飲み干す。未開封のままソーサーに転がるフレッシュには、パンジーの絵が描かれている。
本当のところ、花に好きも嫌いもなかった。少なくともHiMERUになるまでは、花と縁があるような人生ではなかったから。
チューリップと桜、ヒマワリ――親に教わった花は三つだけだった。教えてくれた母親は、秋の花が咲く前に、手の届かないところへ行ってしまった。あとは全て教科書か本を読んで知った。ホウセンカも、アブラナも。
文字から得た学びは例外なく、見えないファイルに綴じられ頭の棚に仕舞われていく。だから、この花は何かと問われれば難なく答えることができる。インプットされた情報を取り出してくるだけの単純な作業だ。
ただ、それらはあくまでも「知識」にすぎなかった。道端や花瓶に咲いている花が何かなんて、俺には分からない。気にしたこともなかった。花にまで割けるような心は生憎持ち合わせていない。目にははっきり映っていても、見えていないも同然だった。
――いや、本当は一つだけ目に付く花がある。今となっては苦手意識すらほとんど薄れてしまったけれど、幼いころは大嫌いだったユリの花。大口を開けて笑う白い花は、目に入るだけで無遠慮に、母親を失った悲しみを思い出させた。
母親の葬儀の日、腕の長さほどもある切り花を手渡され、棺桶へと背を押された。父親に促されずとも、母親に別れを告げる場だというのは分かっていた。けれど、足がすくんで動けなかった。赤く塗られたくちびるが怖かった。もう動かない、笑わない母親が恐ろしかった。
手にこびり付いた花粉は擦っても擦っても取れず、噎せ返るような甘い匂いがいつまでもまとわりついて離れなかった。真っ黒い服と真っ白い花の記憶は混ざり合い、幼い子どもの頭でやがて、ユリは悲壮や恐怖の象徴となった。
父親との生活に慣れ始めたころ、一度だけ、花の名を尋ねたことがあった。父親は料理をしない人だった。連れられて入った食堂で、夕食を摂っていたときだったと思う。
白くて大きな花びらだとか、甘い匂いがしただとか、母親の記憶には触れないように注意して、思いつく限りの情報を並べた。困ったようにこめかみを掻く父親になおも言い募っていると、遮るように電話が鳴った。
ちょっとごめんな、と言ったきり戻らない父親を待つ間、とっくに食べ終わったお椀に箸を付け、油の玉をつないでは散らしていた。手持ち無沙汰だったというより、顔を上げて、周りの大人の顔を見るのが嫌だったのだ。そんなことばかり、いつまでも鮮明に覚えている。
結局、ユリだと知ったのは家を出てからだった。
眠る要の隣に腰掛けて、小説を読んでいる。このごろ、日が暮れるのがめっきり早くなった。まだ夕方のチャイムが鳴ったばかりだというのに、もうとっぷり夜が満ちている。今日も目覚めている要に会うことは叶わなかった。
残りわずかな時間、自分のためだけに明かりを付けるのは億劫で、手暗がりのまま読み進める。書店で目が合ったときはミステリーの棚に置かれていたのに、誰かがいたずらでもしたのだろうか。中身はまるで違った。
不登校になった男の子・寛太が、5年生の夏休みを海辺の町で過ごすという、児童文学の延長線上にあるような作品。もっとも児童文学というものを読んだ記憶がないので、この例えが適当なのかどうかは分からないが。
ページをめくると、町の子どもたちに仲間と認められた寛太が、ついに秘密の抜け道を通る場面だった。
《辰男の手を取って、石垣に足を掛ける。せーのでよじ登ると、目の前には海が広がっていた。どこまでも青い空に手を突き出して、伸びをする。
さわさわと囁くような笑い声に振り向くと、大きなサルスベリが潮風に揺れていた。》
あ、と思ったときには夏に飲み込まれていた。視界をきらきら駆け巡る強烈なピンク、土の匂い、焼け付くような日差し。熱い風、葉擦れの音、すべすべとした樹皮の感触。それから、俺を見上げるあの子の上気した頬。
桜河に連れられて見たあの日まで、サルスベリがどんな花かなんて知らなかった。
樹皮が特殊だとか漢字で書くと「百日紅」だとか、もちろん知識としてはあった。けれど、そんなことはいくら覚えていても「花を知っている」ことにはならない。見て、感じて、初めて心に根を下ろすのだ。それを、あの子が俺に教えてくれた。
ハギ、スイセン、キョウチクトウ。花を一つ教わるたび、ファイルから色が、匂いが溢れ出す。覚えた花は会話や小説、些細なきっかけで何度でも蘇り、世界をみずみずしく彩っていく。
もしかすると桜河は、これと似た喜びを分けてくれているのだろうか。切り花しか知らないと呟く声の、寂しげな響きを思い出す。
花の名は姉たちに教わったのだと聞かせてくれたとき、何故だかとてもうれしかった。西日に照らされた横顔は俺には眩しかったけれど、目が離せなかった。
白鳥や同じ年頃の子どもと比べて老成した思考を持つあの子が、そのくせ幼気な感情を隠しきれないいじらしいあの子が、愛されて育ったと実感するたび安堵する。
愛故に望むものを得られずにいたのだとしても、少なくともあの子に冷たい夜はなかった。訳もなく零れる涙を枕で隠して眠るような夜はなかった。それがどれほど恵まれたことかなんて、どうか知らずにいてほしい――あの子にも、要にも。
ふとチャイムの音が聞こえて、はっと我に返る。面会時間の終わりを告げる院内放送の静かな声色。いつの間にか日が沈みきり、部屋は真っ暗になっていた。
照明を付けて本を仕舞い、要の布団をかけ直す。
「また、近いうちに来るから」
頬に手を当てて額を合わせると、以前よりいくらか肉付きが良くなったような気がする。
背中で髪を踏みつけているのに気がついて、頭を抱き上げ流してやる。父親譲りなのか、手で束ねた髪は自分のものと錯覚しそうな感触をしていた。
「今度は起きているおまえに会えるといいな。そうしたら、かっこよく整えてやれるのに」
もう一度布団を整えて電気を消し、廊下へ出る。似た境遇の他人同士が黙って連なり、談話室を横切る。
「気にせんで良ぇよ」
俺の独りよがりに巻き込まれ、とうとう過呼吸まで起こしてしまったあの日、からっと笑って許してくれた桜河。怒られても、嫌われても仕方がないと思っていたのに、胸のうちが聞けてすっきりしたとまで言われてしまった。
あの子の懐が深いのは、愛されて育ったからなんだろうか。俺の言葉をまるで良いもののように受け止めてくれるのも、可愛い顔して芯が強いのも。
要もそうであってほしかった。愛されていてほしかった。桜河に弟の面影を重ねてしまったのは、もしかするとそんな願いが原因だったのかもしれない。
表に出ると、さらりとした風が髪を撫でる。頭上には澄み切った小望月。すーっと深く吸い込むと、桜河の好きな花の匂いがする。
そういえば、要の部屋に花を飾ったことはなかった。備え付けの花瓶をふっと思い出し、考える。分厚いガラスの器はうっすらほこりを被ったまま、チェストの下段に放り込まれている。今度、花を買ってみようか。
要はどんな花が好きなんだろう。どれだけの花を知っているだろう。願わくば桜河のようにたくさん知っていてほしいけれど、知らなくたってかまわない。俺が教えて見せればいい。桜河が俺にそうしてくれたように。
最初はどんな花を飾ろうか。コスモス、ケイトウ、ワレモコウ――あの子が受けた愛を惜しげもなく分け与えてくれるから、いつの間にか数えきれないほどの花を知っていた。両手いっぱいの愛情のブーケがいつか、弟の胸にも咲くといい。
スマホが震えて、着信を知らせる。
「もしもし?」
「あ、HiMERUはん? 今夜は鍋やっち言うてたの忘れてないよな?」
「ええ、今から向かいますよ」
電話口から、天城と椎名の小競り合いが聞こえてくる。
「ちゃんとぬしはん来るまで待たせとくから、気ぃつけて帰っておいでな」
ころころと笑う声につられ、思わず笑みが溢れる。
「はい、よろしくお願いしますね」
そう言って電話を切り、タクシーに乗り込む。
飲みたい天城と食べたい椎名を1人で押さえつけるのは至難の業だ。早く帰らなければ、と思って、未だ慣れない感覚に胸がくすぐったくなった。
桜河と見たら、桜河に聞いてもらったら、ユリの花さえ愛しく思える日が来るだろうか。
「ぬしはんの話ならなんでも聞くで」
今はまだ話せないけれど、いつか。もらった言葉を思い出して、そっと右肩に触れた。
※コメントは最大10000文字、30回まで送信できます