夜半、寮内をあてどなく彷徨っていると、共有ルームから明かりが漏れていた。自分のことは一旦棚に上げ、こんな遅くまで起きている人がいることに驚く。驚いた自分にびっくりした。少し前まではなんとも思わなかったのに。
肌に悪い、身長が伸びないとHiMERUはんに叱られるうち、少しずつ夜ふかしぐせが直ってきた。今日さっぱり寝付けないのは、昼寝をしたせい。がっつり5時間も寝てしまった。最近は寝ても寝ても眠いし、食べても食べてもお腹が空く。
はじめは部屋でスマートフォンを見ていた。けれど、明け方に出るというジュンはんが何度も寝返りを打つので、起こしては悪いと部屋を抜けて来た。散歩でもしていればまた眠気が襲ってくると思ったものの、秋冷の廊下は空気がピリッとしていて、かえって目が冴えた。
よかった、誰や知らんけど、眠くなるまでお話ししてもらお。
「えっ」
ドアを開けると、思いもよらない人の姿があった。ソファーに腰掛け、書き物をしていたHiMERUはんがふり返る。前にもこんなことがあった気がする。
「おや、桜河」
「こんばんは。HiMERUはんの隣、お邪魔しても良ぇ?」
他に席はいくらでも余っているのに、返事も待たずに腰を下ろす。お尻が着地するころ、「もちろんです」と堪えきれない笑みを含んだ声が聞こえた。
単に隣に座りたかったのもあるし、HiMERUはんの視界からデジタル時計を隠してしまいたかったかったのもある。夜ふかしを咎められなかったあたり、ファンレターの返事を書くうちに時間を忘れてしまったらしい。バレたら叱られるに決まっているが、こんなラッキー逃す手はない。5分保てば上等、10分保てば最高。久しぶりの2人きりを堪能したい。
利き腕とは反対側に座ったから、ちょっとだけ寄っても大丈夫。なんや寒いしな……と自分に言い訳して、二の腕が触れるほどに詰めてみる。
HiMERUはんは何も言わず、小さく口角を上げたまま手紙の続きを書いている。やめろっち言われんだけマシか。きっとわしだけがドキドキしている。それが悔しくて、肩口にこてんと頭を乗せてみる。
「桜河。もう終わりますから、少しじっとしていて」
「はぁい」
やっぱり少しも動じていない。先日の収録でアルパカに擦り寄られていた時の方がよっぽど動揺していた気さえする。わし、もしかしてアルパカ以下なんかな。いや、でもあれは近づいたらツバ吐くとかいう説明があったからやろ。
ぐるぐると考えていると、少しずつ眠たくなって来た。HiMERUはんの体温が、静寂が心地良い。ペンが紙を滑る音が耳に小気味良かった。
「はい、これで全部書けたのでもう動いてもいいですよ」
もう、今にも意識が飛びそうなタイミングで、HiMERUはんの手がわしの頭をポンと叩いた。慌てて口の端を擦り、よだれが出ていないか確かめる。乾いていて安堵した。
「それで? ひっつき虫の桜河はどうかしましたか?」
「ええっとな……」
全くどうもしないのにひっついていたので、返答に困る。このところ、特に嫌なことも起こっていなければ、仕事も順調なので話の種にできる程度の悩みもない。強いてあげるなら、電車の数駅ですら寝てしまうこと、死んどんかと思う勢いで好きな人に脈がないことくらい。
「まあいいです。それより今何時……」
「わ、わーっ! HiMERUはん、ちょっと背中見せて」
眠たい頭で適当な話題を探していると、HiMERUはんが時計を見ようと軽く伸び上がった。慌てて腰を浮かし、肩に手をかけて身体を捻る。
「なんですかいきなり?」
「せ、背中にゴミ付いとるわ」
ゴミなど付いていない背中を摘んで無を捨てる。ふと、先日見たドラマを思い出した。
「わしもお手紙書く」
「え、今からですか?」
「おん、背中に書くからHiMERUはん読んでな」
「……ほんとにどうしたんですか? まあ、桜河がしたいなら構いませんけど」
怪訝そうな声。そうは言いつつも、ちゃんと膝をあちらに向け、フードを持ち上げて背中を差し出してくれるところが好きだ。
「いくで?」
肩甲骨から肩甲骨へ人差し指を動かす。柔らかな練習着は、指先に軽く引っかかって小さく波打つ。フードの境界から線を下ろし、腰を撫でるように円を描く。
「す?」
「あかんで、文字当てやなくてお手紙やから、最後まで黙って読んで」
簡単に当てられて、急速に恥ずかしくなる。竜頭蛇尾。2文字で止める勇気を失い、広くて薄いキャンバスに指を滑らせる。不自然じゃない程度にゆっくり、じっくりと。肩甲骨や背骨の感触を指先に覚え込ませるように丁寧に。
「はい、書けた」
指を離すと、HiMERUはんがククッと笑う。
「すき焼き食べたい?」
「……うん」
「んふふっ、なんですかそれ」
変な桜河。HiMERUはんはそう言って、わしの髪をくしゃりと撫でた。
「なあ、燐音はんだけやなくて、ぬしはんもわしのこと子どもやと思ってない?」
悪い気は全くもってしないが、本当に子どもだと思われていても困るので、撫でられたままクレームを入れる。
「思ってませんよ。でもちょうど先日、漣が出ているドラマで子役がこの遊びをするシーンがあったので……つい」
そう言われてハッとした。そうや、そうやったわ。あれは子役やった。俄然恥ずかしさが増す。もうちょっと考えて始めればよかった。顔が熱い。
「椎名に言って、今度のライブの打ち上げはすき焼きパーティにしてもらいましょうか」
「え、でも前と違ってわしもいっぱい食べるで」
「その辺は天城が何とかします」
「コッコッコ、それは良ぇね」
ポスッと肩にもたれかかる。HiMERUはんの傍にいると良い匂いがする。いつもはすれ違うだけでドキドキしてしまうのに、香水をつけていない今はやさしい匂いに心が落ち着く。じわじわと瞼の重さが増していく。
「さて、そろそろ寝ましょうか。いったいいつの間にこんな時間に」
「ほんまやね」
しれっとそう呟くと、HiMERUはんはわしのほっぺたを軽く摘んで微笑んだ。どうやらとっくにバレていたらしい。
「寒くなってきましたね」
「ついこの間まで夏やったのにな」
ヒソヒソと話しながら廊下を歩く。丑三つ時の暗闇に眉を顰めていたら、HiMERUはんが「せっかくなのにあまり話せませんでしたし、桜河の部屋まで散歩でもしましょうか」と言ってくれた。自分で立てた作戦にはまったうえ、幽霊が怖いなんて情けないことこの上ないけれど、結果オーライだと思うことにする。
「そうか、もう言ってる間に前回のすき焼きパーティから1年になるんですね」
「まだちょっと早いけど、そうやな」
「そっか……」
せっかくの「散歩」なのに、それきりHiMERUはんは黙ってしまった。わしも聞けなかった。この1年弱の間に、HiMERUはんにとっての幸運は叶ったんやろか。それが何なんかもわしは知らんけど、叶ってたら良ぇな。
「じゃあ、また明日」
「うん、おやすみHiMERUはん」
「おやすみなさい、桜河」
静かに布団に入って、暗闇を掴むように手をぐっぱと動かしてみる。人差し指にはまだ、背骨の凹凸が残っている。
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