FALLIN’ LOVE=IT’S

 花咲く校門、長い廊下、見覚えのある教室。機材でいっぱいの音楽室は明るく、壁にモーツァルトの絵などかかっていない。ほかにもレッスン室、トレーニング室、講堂のステージなど、多種多様な施設があるらしい。ページをめくると、仰々しい紹介文の隣に大きく、ルームメイトの写真が載っていた。ああ、それで「サンプル」か。

 手にしているのは玲明学園のパンフレット。事務所での打ち合わせの後、茨はんに呼ばれて受け取った。余分に貰ったのだという。

 今日の予定はこれで終わりだったこともあり、会議室に居残って読んでみることにした。べつに、ついでに復学をせっつかれたからだとか、そんなことはない。ただちょっと気になっただけ。

 寮にはチラッと住んでいたし、蛮カラ学園では校内にも入ったけれど、上等な紙で作られた分厚い冊子はなかなかどうして面白い。ジュンはんや日和はん、巽はん……HiMERUはんがどんな学生生活を送っていたのか、思いを馳せながら読み進めていく。

 数ページめくったところでふと、どこからか天満はんの声が聞こえた気がして立ち上がる。エレベーターのボタンを押し間違えてしもたんかもしれん。ここはコズプロの階やでって教えてあげよう。そう思って扉を開けると、見知らぬ住宅街に出た。

「は?」

 驚いて振り返ると、扉がなくなっている。あったはずの場所を探る手も空を切るだけ。いったい、何が起きとるんや。

 じっとしていてもどうにもならないので、あてもなく歩き始める。5メートルほど進んだところで、今度は後ろから天満はんの声が聞こえてきた。

「こはちゃん、おはよう! そんなにゆっくり歩いてたら遅れちゃうんだぜ。ほらほら、一緒にダッシュダッシュ!」

 会議終わったんは16時半やで、と思う間に駆け抜けていってしまった。とはいえ、全くもって訳がわからない状況下。天満はんが唯一の頼りであることは間違いない。

「待ってや天満はん!」

 すでに豆粒大になってしまった背中を追って駆け出す。前傾姿勢をとった身体がクッと後ろに引っ張られて初めて、制服を纏い、リュックサックを背負っていることに気づいた。本でも入っているのかと思うほど重い。

 息急き切って走っているうちに、だんだんと記憶がはっきりしてきた。そうや、わし学校に行かなあかんのやった。背中が重いのは教科書やんか。なんで忘れとったんやろ。

 予鈴が鳴る直前に校門を駆け抜けて、教室に入る。窓際の一番後ろがわしの席。荷物を下ろして外を見ると、校門の桜が咲いている。あれ、今って春なんやったっけ。

 ぼんやり大あくびをしていると、扉が開いて先生が入ってきた。慌てて口を手で隠す。目が合って、にっこりと微笑まれた。起立、礼をして座っても、まだ心臓がドキドキ鳴っている。うつむいて前髪をいじっていると、目の前で白い紙がゆらゆらと揺れた。

「桜河、プリント取って」

「あ、ああ堪忍……」

 名前を書き込みながら、わしって何組なんやっけと考える。というより2年生で良ぇんやっけ。シャープペンをくるりと回す。

 先生が教科書を手に英文を読み上げている。何を言っているのかは一つも分からないけれど、優しい声が心地よくて、うっとりと聞き惚れる。

 緩く締めたネクタイが大人っぽく見えて、真似するように、ほんの少しだけ結び目を下げてみる。こんなことをしても先生より大人にはなれやしないのに。せめてニつ三つの歳の差だったら、まともに取り合ってもらえたやろか。好きやって言うとるのに、ずっと熱視線を送っているのにチラリとも目もくれない先生の、涼しい横顔がほんの少しだけうらめしい。

「次、桜河」

「はい?」

 板書もせず、忙しく動く先生のくちびるを眺めていると、突然呼ばれてしまった。ギクリとして立ち上がる。

「問3を答えてください」

 教科書も開いていないのに分かるはずがない。そもそも今なんの授業が行われているのかも分からない。先生は英文を読んでいたはずなのに、黒板には数式が書かれている。

「わ、わかりません……」

 30人ほどいるクラスメイトに囲まれて「分からない」と言うのはなかなか勇気が要った。ケラケラ笑う声が聞こえて、耳までカッと熱くなる。先生も困ったような顔で笑っている。

「まったく……後で職員室に来てくださいね」

「はい、すみません」

 へろへろと席につきながら、心の中ではガッツポーズをしている。授業以外でも先生に会う口実ができた。

 気づけば放課後になっていて、誰もいない廊下を走り抜ける。職員室の扉を開けると、先生はコーヒーを飲みながら何かを書いていた。

「せ、先生」

 なぜか先生と呼ぶのが恥ずかしくて、ソワソワ落ち着かない。

「来ましたね問題児」

 先生は椅子ごと身体をこちらに向けて、長い脚を組み直す。今から怒られるはずなのに、とてもそんな気配はない。むしろ機嫌がいいような気さえする。

「あの、先生……それ何書いとるん?」

 この感じなら聞いてもいいかと思って、机の上を指さした。真っ白な紙の上に、心当たりのある紙切れが置かれている。

「ああ、いただいたファンレターにお返事を書いていたのですよ」

「ファンレター?」

「ええ、ほら」

 差し出された紙切れは、やはりわしが提出したプリントだった。隅に小さく「好きです。付き合ってください」と書いてある。

「これはファンレターやなくて、ラブレターっちやつやろ」

「では、お断りしなくてはなりませんね」

「えっ、ファンレターやったら断らんの?」

「まさか。生徒と付き合えませんよ」

 期待して聞いたのに、一刀両断されてしまった。楽しそうに笑う先生からしたら、わしなんて子どもで、眼中にもないに違いない。分かっていても、好きなもんは好きなんやから仕方ないやんか。

「こんなに好きやのに?」

「そんなに好きでもです」

「どうやったらわしのこと好きになってくれるん?」

 取り付く島も無さすぎて、先生のシャツの袖口を摘んでみる。だって一気に歳とる方法なんて無いやんか。しかも、よりによってわしは2月生まれ。せめて4月5月に生まれとれば、一つだけでも差は縮まっとったのに。

「桜河がしっかり勉強して、卒業して、もっと大人になったら可能性はあるかもしれませんね」

「前にも聞いたわ……それまで他の人と付き合わずに待っとってくれるん?」

「前にも聞かれましたね。分かりませんよ、未来のことは」

「それも前聞いたわ」

 焦ったくて、先生の胸に頭をぐいぐい押し付ける。落ち着いた心音が聞こえて悔しくなる。

「ちょうど書き終わったところだったので、お返事渡しておきますね」

 先生は空いた手で便箋代わりのコピー用紙を折り畳み、わしに握らせた。

「今日はこれで帰っていいですよ」

「わし、まだ先生とおりたいんやけど」

「まあ構いませんけど、先生は仕事をしますよ」

 机の下に脚をしまって、先生はパソコンを開く。追い出されるのも嫌なので、静かにしていようとコピー用紙を開く。真っ白な紙のど真ん中に、丁寧な字で「早く大人になってください」と書かれていた。

「先生!」

 勢いよく立ち上がると椅子がガタッと鳴って、肩から何かが落ちた。

「わっ……おはようございます桜河」

 すぐそばにいたHiMERUはんが、床から拾ったコートを払っている。

「先生?」

「ふふ、夢でも見ていたんですか?」

「えっと……HiMERUはん?」

「はい、HiMERUですよ」

 何かすごくいい夢を見ていた気がするのに、どんなだったかもう思い出せない。いつの間にか外はすっかり暗くなっていて、寒さにぶるりと震えた。冬だというのに暖房が切られていたらしい。

「いま何時?」

「18時です。椎名の誘いに桜河だけ反応がなかったので、もしやと思い寄ってみましたが正解でしたね」

 HiMERUはんが肩にコートを被せてくれる。脱いだばかりなのか、温かくていい匂いがする。

「おおきに……でも、ぬしはんは寒くないん?」

「ええ、温まるまで桜河が着ていてください。風邪をひいてしまいますよ」

 温かい飲み物を買って来てくれるというHiMERUはんを待ちながら、寝ぼけ眼で机上の荷物を片付ける。閉じたパンフレット。花盛りの校門の写真を見て、夢の残滓がふわっと胸に広がる。

「ココアで良かったですか?」

 戻ってきたHiMERUはんから缶を受け取りながら、早く大人になりたいと思う。

「おん……ありがとう」

「それ飲んだら帰りましょうか。今夜はアンコウ鍋だそうですよ」

「なんでアンコウ?」

「さあ、安く買えたそうです」

 ちびちびとココアを飲みながら、HiMERUはんをそっと見つめる。夢の中と同じ、涼しい横顔。ふと合った目が優しく細められる。

「おでこ、赤くなってしまいましたね」

「うん……」

 夢の中よりさらに脈はなさそうやけど、復学したらわし頑張って勉強するから、大人になったら付き合ってくれんかな。それまで待っててくれんかな。現実のわしは、とても口には出せんけど。

 缶入りのココアは水っぽく、甘ったるくて、でもコーヒーは飲めなくて、そんな自分がひどくもどかしかった。

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