クレヨンを剥がす

 燃えるような赤に心惹かれた。ひび割れたアスファルト、歩道の隅。背筋をしゃんと伸ばして秋空に咲く一輪の花。近づいてみると、花の形にも興味をそそられた。うねる炎を思わせる、見たことのない形状の花弁。

 この花の名前は? どんな分類なんだろう。たいていの疑問は図鑑に答えが書いてある。持ち帰って調べてみればいい。幼い日の俺は花を手折ろうと、その場にしゃがみ込んだ。

 カフェシナモンを覗くと、定位置に座る桜河の後頭部を見つけた。椎名の同僚たちに軽く会釈して、その向かいに腰掛ける。

「HiMERUはん」

「おはようございます。相席よろしいですか?」

「おはようさん。もちろんええよ、もう座っとるけど」

「ふふ、お邪魔しています」

 机の上には数学の教科書と大学ノート、消しゴムの屑が散乱している。手にはシャープペン。こうしていると、普通の高校生のようだ。

「課題ですか?」

「そ、これがもう二進も三進もいかんでな。なんなん? サインだのコサインだの……こんなもん覚えてどこで使うっち言うんや」

「なるほど? それで、ここにいればHiMERUが捕まると考えたわけですね。ですが残念です。初めから答えを教えはしませんよ」

「コッコッコ、ご名答……けど、はぁ……やっぱあかんか」

 眉を下げ、ぼてっと突っ伏す桜河。弾みでカップが音を立て、ちゃぷんとソーサーを濡らす。飲めもしないのになみなみ注がれたブラックコーヒー。

 エプロンの裾で手を拭きながら、椎名が歩いてくる。

「おはようございま~す。HiMERUくん、ご注文は?」

「おはようございます。サラダとコーヒーを」

「サラダっすね。コーヒーはいつもの?」

「ええ、お願いします」

「こはくちゃんは、おかわり……んふっ、まだ要らなさそうっすね」

 見かけ上、お冷やだけで居座られるよりはマシだと考えたのか、この頃椎名はコーヒーをサービスしてくれるようになった。「いつもの」はドリップしてから時間が経ち、商品としては出せなくなったブレンドコーヒーのことで、酸味が強く渋みがあり、苦い。

 桜河は口をへの字に曲げ、底が濡れたカップを手に取ったが、淹れたてでもミルクと砂糖をたっぷり入れないと飲めない。ほんの少し浸しただけの上くちびるを舐め、顔をしかめた。

「無理して飲むものでもないですよ」

「うん……」

 分かっていても、どうしてもブラックで飲めるようになりたいらしい。それでも、今日のところは諦めたのだろうか。シャープペンを転がした右手はソーサーごと奥へ追いやり、結露に濡れたグラスを掴んで干した。

 熱いコーヒーを嚥下して、細く息を吐き出す。胃のあたりがじんわり温かくなる。

 華奢なフォークでクルトンを突く。ボウルに散らされたパプリカの赤。今朝の夢がぱっとフラッシュバックする。漠然とした重さは胸にあっても、目覚めた時には中身など忘れていた。けれど。

 クルトンとベーコンを避け、皿の隅へ赤色をかき集める。薄切りのパプリカはみずみずしくドレッシングに濡れ、バランス良くボウルを彩っていたのに。

「ぬしはん、それ苦手なんやっけ?」

 訝しむような声。はっとして顔を上げると、桜河が俺の手元をしげしげと眺めていた。たしかに、一つの野菜を黙々と端へ避ける様はそう映っても仕方がない。

「いえ、そういうわけでは……」

 不覚を取った。HiMERUはパプリカが好きでも嫌いでもない。ただ、芋づる式に蘇る苦い記憶ごと、一口でかき消してしまおうと思っただけ。

 否定しようにも、こういう時は言葉を重ねれば重ねるほど真実味が増してしまうと知っている。ため息を吐き、口篭る俺に桜河はにんまりと微笑んだ。

「食べたげよか?」

「桜河……その、これは本当に違うのです。ただ、少し、嫌な夢を思い出してしまって」

「夢? でっかいパプリカに襲われそうになったとか?」

「なんですか、それ」

 襲い来る牛を軽々あしらえる桜河にとって、それが悪夢に分類されるのかと思ったら、笑いが喉元まで込み上げてきた。

「違いますよ。パプリカの色が……その、変な話ですけど、彼岸花と重なって見えたのです」

「彼岸花? それが夢に出てきたっちこと?」

「ええ。彼岸花を手折ろうとしたら、茎が無かったのです。手には感触があるのに。赤い花弁だけが暗闇にぼんやり浮かんでいて……」

 言葉にしてみると、嫌な夢と呼ぶには些細なことに思えて、尻すぼみになってしまう。お茶を濁そうとコーヒーを一口含み、咳払いをする。桜河は笑うでも否定するでもなく、黙って聞いてくれたのがせめてもの救いだった。

「なんちゅうか、変な夢やね」

 神妙な顔で頷いて、視線を右に持ち上げる。俺の見た光景を思い浮かべようとしているのだろうか。一つ、二つと瞬いて、それから小さく首を傾げた。

「でも、ぬしはんはそんなん、べつに怖くないやろ?」

「ええ、そうですね」

 花はあり、感触があるのに茎は見えない。薄気味悪くはあるけれど、桜河の言う通り、それが怖かったわけではない。ただ、忘れていたかった記憶と結びついてしまっただけ。

 それをどう説明していいかが分からない。説明する必要は全く無いのに、俺はなんとなく、このまま桜河に聞いてほしいと思ってしまっている。

 何が嫌だったのか、真実をありのままに話してしまってはHiMERUとして問題がある。さりとて嘘もつきたくはなく、考えた末、HiMERUとして受け取られても構わない部分だけを明かすことにした。

「子どもの頃、彼岸花を触ろうとして叱られたことがあるのです」

「叱られた?」

「見知らぬお年寄りでした。彼岸花には毒があるそうなのです」

「へえ、ほな……ええ人やったんかな?」

 桜河は小さく首を傾げる。本質を見抜く目は備わっているけれど、この子にかかれば大体の人間は「良い人」に分類される。俺は時々、それが眩しくてたまらない。

「そうかもしれません。ただ、毒があるというのは後で調べて知ったのです。その時、お年寄りがされたのは、彼岸花を持ち帰ると死人が出るとか家が燃えるとか、そういう類の話でした」

「ほーん、迷信にしてもけったいな話やね」

 ええ、と頷いてカップを持ち上げる。桜河は今ひとつ納得していない様子ではあるものの、それ以上踏み込んでくることはなかった。

 そう、俺は迷信や老人の剣幕が怖かったわけじゃない。そんな非科学的な話があってたまるかと思ったし、老人に悪意がないことは分かっていた。

 俺の手を掴み、かぶれていないか確かめる乾いた手の温かさ。嗄れた声の調子。初めて会ったのに、まっすぐ射抜かれた目には愛情のようなものすら感じた。

 それが嫌な記憶として残っているのは、単に刺さった言葉があったからだ。「お母さんは教えてくれなかったのか」。あの時の悲しさと寂しさ、恥ずかしさは、大人になった今も無かったことにはできていなかった。

 冷めかけのコーヒーはいよいよ酸味が増して、お世辞にも美味しいとは言えない。胸の苦々しさごと飲み下し、カップを置く。

「んあ」

 フォークを持ち直すと、桜河がパカッと口を開いた。課題は俺が来てから一問も進んでいない。

「なんですか?」

「へ? パプリカ」

「ですから、HiMERUはべつに……」

「それは分かったけど、わしに食べさせて」

 いたずらっぽく細められた目が爛々と光っている。何を企んでいるのかくらいは読み取れるうえで、気付かないふりをしてやる。

「はあ、まあ、構いませんけど……好きなんですか?」

 まとめて突き刺したパプリカとベーコンを口の中に入れる。フォークに触れないよう閉じたくちびるが、ドレッシングでつるりと艶めく。悪夢の残滓はモゴモゴと咀嚼され、桜河の胃袋に収まった。

「べつに好きやないよ。代わりにこの問題教えてもらおうと思って」

「桜河はご存じだと思いますが、交換条件というのは相手の合意のもとに成り立つのですよ」

「ぐ……やっぱあかんか」

 彩りを失ったサラダを口に運びながら、遠目にノートを覗く。大人びた字で書かれた解は、序盤から間違えてしまっている。無理もない。ずっと走ったことすらなかったのに、いきなりハードル走を跳ばされているようなものなのだから。

「ええ。ですから、HiMERUがこれを食べ終わるまでは自力で頑張って、それでダメなら教えることにしましょう」

「ほんま? おおきに」

 そろそろ助け舟を出そうかと口を拭っていると、桜河が顔を上げた。ノートは前提が間違ったままの解で埋まっている。

「そういえばな? 思い出したんやけど、持って帰ると家燃えるて、うちの姉はんは思いっきり生花に使っとったけど大丈夫やったで」

「彼岸花を? それはなかなか斬新ですね」

「おん。それでな、わしそれが気に入って、しばらく座敷牢に置いて貰ったような気ぃするわ」

 桜河は空のグラスを覗いて、しぶしぶコーヒーでくちびるを濡らす。

「それはまた、何故?」

「え? うーん、そら綺麗やっち思ったからやろ」

 知らんけど、と付け加えて、桜河はくるりとペンを回す。スッと、胸の靄が晴れた気がした。

 そう、綺麗だと思った。一般に忌避されるような花だとしても、たった1本でまっすぐに、凛と咲く姿が美しかった。媚びない姿が好ましいと思ったのに、忘れてしまっていた。記憶を塗り潰していた黒が、スクラッチアートのようにぺりぺりと剥がされていく。

「うわ、全然ちゃうやん」

 解答を開いて、桜河は頭を抱えている。

「さて、奥へ詰めてください。並んで見た方が分かりやすいでしょう」

 桜河はこの頃ぐっと背が伸びて、二人で掛けると肩が触れる。

「ん、よろしくお願いします先生」

 付箋まみれの教科書を捲り、必要な公式の解説から始める。

「ほんまにごめん、全然分からん」

 しょぼくれた声。俺には分からないことがきちんと分かっているのに、この子は三角関数が解けないし、ブラックコーヒーが飲めない。それでいい。返せるものがなくなってしまったら、俺が困るから、もう少しこのままでいてくれるといい。

「ではもう少し簡単な問題から、今度は一緒に解いてみましょうか」

 冷え切ったコーヒーを飲み干して、シャープペンを握り直した。

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