午前10時:晴天の霹靂

 ▼こはく

 すーっと息を吸ってごろり、寝返りを打つ。伸びっぱなしだった背骨が丸まる感覚は気持ちが良く、んーともあーともつかない声がどこからか漏れる。手足を突き出してエビのような格好になると全身に酸素が行き渡って、「わし.zip」が展開されていくのが分かる。

 大あくびをしながら大の字に直って、ようやくそろりと瞼を持ち上げる。渇ききったしょぼしょぼの目には、焦げ茶に照らされた天井が眩しい。

 眩しい? そう思った瞬間、さっと血の気が引いて覚醒した。やらかした、寝坊じゃ――慌てて起き上がり、ベッドに手を突いたところでようやく思い出す。ちゃうちゃう、今日は土曜日なんやった。

 学校も仕事もレッスンもない、完全なお休み。そんな日は随分久しぶりな気がする。だから午前いっぱいは贅沢に寝倒してやろうと思っていたのに、アラームが鳴る前に目が覚めてしまったらしい。

 同室のジュンはんが遠征中ということもあって、たまには部屋でゆっくりしようかと思っていたところに、昨夜HiMERUはんから昼ご飯のお誘いがあった。待ち合わせは11時半。ちゃちゃっと顔を洗って歯を磨いて着替えればいいだけなので、アラームは11時にセットしてある。

 駅前にできた蕎麦屋へ行こうと決まったところでうっかり寝てしまったらしい。待ち合わせ場所は決めていないけれど、同じ建物に住んでいて、あちらもオフだと言っていた。だからきっとまた、玄関で会おうという話になる。

 目覚ましが鳴るまでもう少し、このまま微睡んでいよう。規則正しく起きるようになって初めて、二度寝できる週末の有り難さを知った。

 働き蜂が聞いて呆れるが、Crazy:Bに早朝から仕事が入っていることなんて滅多にない。復学する前は、そういう日の前日だけ気を張っていれば良かった。それが今では身体にたたき込まれ、ひとりでに目が覚めるようになってしまった――まあ、今日が平日なら大寝坊やったわけやけど。

 小さな寝坊はちょこちょこしても、身支度を端折ったり通学路を端折ったりして、なんだかんだと巻き返せている。おかげで決定的な遅刻はまだ一度もしたことがない。そのせいかこのごろ、遅刻というものをちょっぴり恐れている自分がいる気がする。

 ニキはんなんかは、朝ご飯も食べずに飛び出していこうとするわしにおにぎりを持たせて、「ゆっくり行けば大丈夫、遅れたくらいでバケツ持って廊下に立たされるなんて漫画の世界の話っすよ」と笑うけれど、本当にそうなんやろか。

 しかし、たまのお休みに寝過ごしたと勘違いして焦るなんて、まるで普通の高校生みたいや。夢見ていた平和な日常のど真ん中にいると思うと、胸がどきどきして、羽でも生えたような軽やかな気分になる。

 幸せを噛み締めて二度寝しようと寝返りを打ち、後ろ手にタオルケットを探る。二度寝するときは、動き回る人の気配を遠くに感じながら布団に包まると幸福感が増す。これはジュンはんと共同生活を送るようになって初めて知ったことだった。

 昨夜の雨で気温が下がったのか、急に肌寒くなった。ごそごそとベッドをまさぐりながら、うっすら目を開ける。タオルケットがさっぱり見つからない。それどころか、尻や腰に触れるシーツがどきっとするくらい冷たくて、下半身に妙な――まるでパンツを履いていないような――感覚がある。

 いやまさか、そんなはずあるかい。そう思って薄目で窺ったのに、ぼろんと丸出しになったちんちんと目が合った。意味が分からない。信じられなくて、しばらくぼーっと見つめ合っていたけれど、少し遅れてTシャツも着ていないことに気がついた。どうやら知らぬ間に、すっぽんぽんになって寝ていたらしい。

 そんな阿呆なと思うのに、どこをどう見ても素っ裸。たしかにわしは、もう10月になろうというのに未だ衣替えをしておらず、Tシャツ半ズボンを寝間着にしている。けれど、いくらなんでも寝ている間にパンツまで脱ぎ捨ててしまうほど暑いわけがない。季節は一応秋のはずで、HiMERUはんなんかはもうとっくに長袖を着ている。

 第一、暑かろうが寒かろうが寝ている間に素っ裸になったことなんて、生まれてこの方一度もなかった。それに加えて、寝相は良い方だという自負がある。Crazy:Bで和室に泊まった朝、わし1人だけ浴衣が乱れていないのが良い証拠が。家族にもジュンはんにも、特になにか苦言を呈されたこともない。

 寝苦しかった感じもしないのに、珍しいこともあるもんやなと困惑する。もしかすると自覚がないだけで相当な疲れが溜まっていて、夢遊病でも患ってしまったのかもしれない。考えてみれば、新曲のレッスンが始まってからは毎日休みなく動き回っていた気がする。

 いや、疲れているからといって寝ながら脱ぐなんて、わしは変態なんか。うなだれつつ、せめてジュンはんがいない晩で良かったと胸をなで下ろす。

 とにもかくにもパンツを履こう。いったいどこへ行ってしまったんやと身体を起こして、そのまま白目を剥いてひっくり返りそうになってしまった。自室のベッドで寝ていたはずなのに、体育館なんて目じゃないほど広大な床に座っている。

 唖然として、それでもとにかく立ち上がってみると、遠くに見覚えのある家具がそびえ立っているのに気がついた。机、ソファー、テレビにクローゼット、カーテンの柄から本棚の中身に至るまで、目に映る全てに見覚えがある。ローテーブルに置きっぱなしのプリントも、的を外して床に転がったままのティッシュのごみも、寝る前に見たとおり何も変わっていない。ただ、そのどれもが信じられないほど大きくなっていた。

「待って、何? つまり、つまりどういうことなんじゃ」

 口を突いて出た言葉に、いや誰に言うとんねんとさらにツッコミを入れつつ、比喩ではなく頭を抱える。ベッドらしき床を覆っている布はどう見ても愛用しているタオルケットと寝間着で、振り返るとそそり立っている巨岩のような何かは枕らしい。

 全く笑っている場合ではないのに、どこか冷静に照らし合わせている自分がおかしくて、ちょっと笑えてくる。

 いったい何事なのか。寝起きの頭をフル回転させて考えなければならないというのに、突如、ビービーと足もとを揺さぶる警告音が轟き始めた。

 あまりの大音量によろけた弾みにシーツに足を取られ、つんのめって、すんでのところで踏みとどまる。一気に目が覚めた。床までの落差が洒落になっていない。

 鼓膜を通り越し、直接脳みそまで揺らされているような轟音に耐えかねて、耳を塞ぐ。震源地の方を見ると、枕の側に阿呆みたいに大きな直方体が光っている。

 ここがわしの部屋であれがスマホなら、これはアラームっちことか。割れそうな頭で導き出した答えにひとまず納得して、タオルケットに潜る。とにかく音がうるさくて敵わない。英語は赤点しかとったことがないなりに、警告音を「Beep」と表現するのが身に染みてよく分かった。

 起きてから今に至るまで、何が起こっているのかただの一つも分からない。分からないけれど、だからといって誰かが助けに来てくれるまで全裸でたたずんでいるわけにもいくまい。意味は分からないにしても、あれがわしのスマホとして、アラームが鳴ったということはHiMERUはんとの約束まで1時間を切ってしまっている。

 ただでさえ考えても分からないことを考えるのは性に合わないのに、こんな騒音の中にいては回る頭も回らなくなる。いったん思考は放棄して、身体を動かすところから始めよう。

 タオルケットを飛び出して、スマホに向かってひた走る。びりびりと震えるマットレスやシーツに何度も転げそうになりながら、本当なら30センチもないような道のりを駆け抜ける。

 本当に笑っている場合じゃないのに、すっぽんぽんなうえ変な姿勢で全力疾走している自分がじわじわと面白い。ジュンはんが不在とはいえ、共有の空間に裸でいるというのが客観的に見て変な感じがするのかもしれない。変な点ならもっと他に、数え切れないほどあるというのに。

 なんとかスマホのようなものに辿り着いて、アラームを切る。音がなくなっただけで苛まれていた圧迫感がなくなって、少しだけ安堵した。あのまま騒音の中にいたら、いよいよどうにかなっていた気がする。

 いや、どうにかは確実になっとるんやけど。静かになった部屋で考えたところで、何が起きているのかはさっぱり分からない。

 画面が暗くなったスマホを覗き込むと、情けない姿が映っている。

「はあ、何なんほんま。ちょっと待ってや……」

 また誰に言っているのか知らないが、ため息を吐いて片膝をつく。こんな未曾有の事態に陥っていても、シーツが素肌に触れると気持ち良いのだから、人間という生き物にはつくづく危機感が足りていない。

 危機感といえば真っ先に思いつく実家ではあるけれど、実家絡みのゴタゴタに巻き込まれたと考えるにはどうにも腑に落ちない部分がある。だとしたら、やることが手ぬるすぎて困惑する。朱桜や桜河に仇なす人間の仕業なら、目当ての人間はその場で消してしまうだろう。報復のリスクを潰すためにも、中途半端に生かしておくようなことはするはずがない。

 それか、わしを連れ去って独房にでもぶち込めば良い。猿轡でも噛ませた写真を送りつければ、少なくともうちとこの姉はんらにとってはさぞかし良い脅しの材料になるに違いない。わしが「桜河」の人間だと分かっている連中がわしを狙ったとして、それをしなかった理由が分からない。

 だいたいまず何が起こっているのか、身ぐるみを剥がれて部屋がでっかくなった以上のことが分からない。それとも、わしが小さくなったのか。

 部屋が大きくなった方が現実的ではあるが、誰が何の目的でそんなことをする必要があるのか皆目見当もつかない。じゃあ身体を縮める薬でも盛られたかと疑ってみるも、漫画じゃあるまいし、いくらなんでもあり得ない。仮にそんな代物があったとしても、いくら寝ていたとはいえ、悪意を持って近づいてきた気配に気づけないほど平和ボケしているとは思えない。じゃあ、いったい何なんじゃ。

 枕によじ登って周囲を見渡してみる。どう見てもわしとジュンはんの部屋そのもので、何から何まで阿呆みたいに大きい。

 あり得ないとは思いつつ、寝起きドッキリっちやつかなと一縷の望みを掛けていたのに、案の定カメラの気配は感じられずため息を吐く。いくら燐音はんでも、わしが全裸にひん剥かれるような仕事を勝手に受けはしないと思う。あいつは常日ごろ滅茶苦茶しよるけど、アイドルっちもんをこういう風には扱わない。そのくらいのことは分かっているつもりでも、今度ばかりは燐音はんのせいであってほしかった。

 最後の最後、どうか夢であれと横っ面を張る。思いっきり痛くて、姉はんらによる過酷な修行の日々を思い出した。

 いや、もう分かった。本当はけっこう早い段階から分かっていた。どうやらわしの身体だけが縮んでしまっていて、しかもこれが現実らしい。

 現実やとして、どうするんじゃ。仕事は、学校は、生活は――考えることは腐るほどあれど、まず待ち合わせまで30分を切っているHiMERUはんとの約束からどうにかしなくてはならない。ある程度余裕を見て目覚ましをかけたつもりでいたのに、この身体では洗面所に辿り着くだけで30分はかかってしまいそうだ。

 とにかく連絡だけでもとスマホの上に乗ってみるけれど、近すぎるのか小さすぎるのか、顔認証がうまく反応してくれない。仕方なく縁に立ち、思いっきり足を伸ばして暗証番号を踏みつける。

「0、んーっ2、うわっと、0、5、8、9……よっしゃ、開いた」

 ホールハンズのアイコンを踏みつけた瞬間、爆音とともに激しく足もとが震えて、思わず後ろへひっくり返る。咄嗟にとった受け身でベッドに転がったまま、もう一度寝てしまえたらどんなに楽かと考えてしまう。

「あーっ、もう、そんなんいくらなんでも風邪ひくっちゅーの」

 苦労して解除したのに、ちんたらしていてはまたロックがかかってしまう。せーのと自分をかげまして、再びスマホの上によじ登る。

 メッセージはHiMERUはんからだった。

「おはようございます。時間になったらエントランスで落ち合いましょうか」

 あまりの平和さに一瞬何の話だったかと考えてしまい、身に降りかかった不条理にようやくふつふつと怒りが湧いてくる。せっかく普通の土曜日を味わっていたのに、待ちに待った休みだったのに、HiMERUはんと久々に出かけるのを楽しみにしていたのに、なんでこんな訳の分からんことになってしもたんじゃ。誰が何の目的でこんなことしたんか、そもそも「こんなこと」がどんなことかも知らんけど、見つけたら容赦せん。どんな手を使ってでもめっためたにしばき倒して、元に戻る方法を吐かせたる。

 ふんすと息巻いたところで、頭に浮かんだ絵面があまりにも一寸法師だったので、なんだか情けなくなってしまった。帯剣しようにも、わしとジュンはんの部屋に縫い針なんて代物があるはずがない。万一あったとしても、冗談でも謙遜でもなく本当に丸腰なので差しようもない。

「あかんあかん、埒あかんわ」

 このまま1人でぼやいていたってどうにもならない。こういう考えても分からないことを考えるときは、賢い人の意見を聞いてみるのが一番や。そうと決まれば、HiMERUはんのアイコンを押して救難信号を発信する。

 「おきたら」まで打って、文面での事情説明は諦めた。こんな重労働をしていたら、HiMERUはんが待ちぼうけを食ってしまう。何より、とりあえず見てもらった方が早い。というより、見てもらわないことには説明ができない。少し悩んで「へや」と「きて」だけ送信する。

 あとはHiMERUはんが来てくれるまでに、なんとかして部屋の鍵を開けないといけない。それから、何かしら着ないと。

 思いついて枕もとの棚に飛び移り、ティッシュ箱によじ登る。いつも指2本でするっと抜き取れる紙がそれなりに重たくて切ない。細長く千切り、折り畳んだティッシュをバスタオルの要領で腰に巻き付けて、簡易的な腰蓑にする。鏡なんかみなくても間抜けなのは分かるけど、まあ、すっぽんぽんより幾分マシやろ。

 高さを稼いだついでに、ドアノブまでの道のりを組み立ててみる。ヤモリみたいに這い上がれたら良いけれど、途中で落ちたらいくら何でも骨折は免れられない。(こんな状態で使う言葉として適切なのか首を傾げたくはなるが)現実問題、なるべく高さを落とさずに家具を伝って行くか、縄のようなものを引っかけて登るかの2択しかない。

 悩んでいると、ベッドの上にちょうどいい縄が目に入る。寝間着には邪魔で、いつか抜こうと思って忘れ続けていたズボンの紐。あれの先にクリップなんかを付けて思いっきり投げたら、良い感じに引っかかってくれんやろか。

 できることからやっていくしかない。さっそくベッドに戻って、ズボンの紐を引っこ抜く。

 人生初の綱引きをこんなところで経験するなんて、とかなんとかごちりながらこしらえた縄を登る。普段へそくらいの高さにあるドアノブも、この身体になって見上げるとちょっとしたビルくらい高い。下を見ないように気をつけて、少しずつ上へと進む。

 やっとドアノブに手がかかったとき、遠くからかかとのある靴が近づいてきているのに気がついて、ちょっと泣きそうになってしまった。HiMERUはんやと思うとほっとして、最後の力が湧いてきた。

ようやく辿り着いたドアノブに両足をしっかり踏ん張って、力いっぱい鍵を回す。ガチャリと鳴った瞬間、達成感やら安心感やらで力が抜けてしまった。

 もう燃え尽きた。ぐったりとドアにもたれて助けを待つ。ロープで擦れないよう、腕や足にも巻き付けたティッシュがちょうどボクサーみたいで、なんとなく、どこかの和室で深夜に燐音はんと見ていた古いアニメの1シーンを思い出した

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