▽HiMERU
久しぶりに休みが取れたので、早起きしてランニングとシャワー、洗濯を済ませた。昨夜の雨が嘘のようにからっと晴れて、空はどこまでも高く青く、吹き抜ける風はさらっとしていて気持ちが良かった。桜河や南雲はまだ半袖でいるが、もうそろそろ秋と呼んで間違いないだろう。
まだPBBの余韻があるのか、ソロの仕事が安定して入ってくるおかげで毎日忙しなく駆け回っている。Crazy:Bでは新曲の振り入れが始まったのも相まって、ここ数日は洗濯物が溜まってしまうような有様だった。
せっかくの休みをこの調子で、少しでも有意義に過ごしたい。どうせ夜はシナモンに集まって、ぐだぐだと麻雀かモノポリーでもして終わってしまうのが関の山だ。それまでの間、他にこなせるタスクはなかったか考えながら、ソファーに持たれて足を組む。
昼食は桜河と摂る約束をしている。午後は要の経過報告を聞くために病院へ行かなければならないので、そのついでにと駅近くの蕎麦屋を提案した。以前通りかかったとき、桜河の好きそうなメニューが並んでいて、いつか誘おうと思っていたのもある。
もう30分もしたら部屋を出る。そういえば待ち合わせ場所についての返事が昨夜から返って来ていないが、桜河と出かけるときはたいていエントランスで待ち合わせる。今更確認するまでもなかったのになと思って、ひっそりと笑った。あわよくばそのまま何でもないやりとりをして、眠気が襲ってくれるまでの空白を誤魔化していたかったのかもしれない。
日用品の買い出しはネットでまとめて済ませてあるし、今度の撮影に持って行く差し入れはもう買ってある。貰ったまま持て余しているブルーレイや写真集の類いもないし、読んでいた小説は昨夜早くに終わってしまった。図書室へ行って来てもいいけれど、時間を気にする気忙しさを思うとどうにも腰が上がらない。
かといって、こうもやることがないと飲み込んだ憂鬱が喉をせり上がってきては漏れてしまう。次から次へと、身体中の空気を絞り出すみたいに。
幸い同室の2人は早くから出かけている。肘置きに頭を持たせて寝そべり、足を組んで腕で目を覆う。「HiMERU」には絶対にあるまじき粗野な格好。視界を塞ぐと、頭に浮かぶことは一つしかない。
医者の話では着実に回復しているらしいが、俺は未だに起きている要と会うことが叶わずにいる。どうにもタイミングが悪いのだろう。特にこのごろは仕事やレッスンで忙しく、身の回りの世話はできていても、ゆっくり顔を見る時間も取れないでいた。
考えたそばから鼻で笑ってしまう。そんなのは本当にここ数日でしかない。いくら言い訳を重ねてみても、ノックに返事がなくて安堵する自分の弱さにはもう何ヶ月も前から気付いていた。
要が回復していることは心から喜ばしい。要が要でいられた時間がいつもより長かったことや歩く練習を始めたこと、看護師らから報告を聞く度に胸がじんと熱くなる。遠く離れていたころはしてやれなかった分も「頑張っているな」と褒めて、頭を撫でてやりたいとも思う。
でも、そのとき俺はどんな顔をしてあの子の前に立っていればいいのか、俺には分からずにいる。目覚めたあの子と最初に顔を合わせるとき、まずなんと言って声をかければいいのか、何から説明すればいいのか、考えても考えても分からない。
あの子に会おうと思うなら、あの子が起きているときに連絡をくれるよう看護師に頼めばいいだけの話。ソロの仕事は当初より増えたとはいえ、新曲披露の予定でもなければCrazy:Bの予定は詰まっているとは言い難い。シナモンでくっちゃべっている時間があるなら常に病室にいるようにすれば、あの子が目を覚ますときにそばにいられることすらあるかもしれない。
分かっていて、できないまま月日だけがどんどん流れて降り積もる。いつからかできない自分に後ろめたさを感じるようになって、ついには月1度の主治医との面談が憂鬱でたまらなくなってしまった。穏やかな笑顔にじつは全部見透かされていて、ダメな兄だと責められているような気がしてしまう。
ペース配分を間違えて、昨夜は布団に入る前に小説を読み終えてしまった。鳴上さんも南雲も優しい。ため息なんてついてはきっと気を遣わせてしまう。口から漏れそうな憂鬱を何度も何度も飲み込んで、窒息しそうだった。寝る前は触らないようにしているスマホを逃げるように掴み、気付いた時には桜河にメッセージを送っていた。
「明日のお昼は空いていますか? 良さそうな蕎麦屋を見つけたのです」
せっかくの休日を桜河と楽しく過ごしたい。俺が見つけた店の料理で喜ぶ姿が見たい。どちらも紛うことなき本心で、同時に建前でもある。不甲斐ない俺を街へと連れ出すには、どうしても魔法の力が必要だった。
エントランスで桜河を待っていると、続けざまにスマホが震えた。時刻は11時28分。おおかた今起きたとか5分遅れるとかそんな内容だろうなと思いながらスマホを見ると、案の定桜河のアイコンが目に飛び込んできた。
へや、きて――2単語だけのメッセージ。意味はそのまま、桜河の部屋に来てほしいということなんだろうが、変換されていないのが気になった。桜河にしては珍しい。急を要する何かがあったんだろうか。
すぐに行きますと返事をして、廊下を戻る。起きていて、部屋にいて、変換もできないほどの緊急事態とは何だろう。HiMERUの推理力を持ってしても、アイツの出現しか思いつかなくて、ちょっとどきどきしながら足を速める。
桜河が虫を怖がるイメージは全くないけれど、もしかするとアイツと遭遇するのは初めてなのかもしれない。だとしたらきっと、とんでもなく怖い思いをしているだろう。俺だってできるものならお目にかかりたくはないが、桜河のためなら仕方がない。
料理人の方の職業柄、椎名ならあっという間に仕留めてくれそうな気もするが、これだけのために応援を呼びに行くにはシナモンは遠い。覚悟を決めてドアを叩く。
「桜河、HiMERUです。どうかしましたか」
臨戦中にしてはノック音が静かに響いて、はてと首を傾げる。もしかすると見当外れだったのだろうか。だとしたら、中で何が起こっているのだろう。
「開いとるよ、入ってきて」
遅れて返ってきた声はたしかに桜河の声なのに、桜河の声ではないみたいだった。妙に甲高いうえ、腹から張っている話し方のわりに聞き逃しそうなほど声量が小さかった。
昨日は元気そうに見えたけれど、いつまでも半袖でいるから風邪でも引いてしまったんだろうか。熱が出て、そのSOSだったのかもしれないと考えながらドアノブに手を掛ける。そうなったら、蕎麦は中止にして寝かせておいた方がいいだろう。頑丈な方とはいえ、年ごろに見合った体力しかない。それは春先の騒動で嫌というほど思い知った。
「失礼します」
覗き込んだ室内はしんとしていて湿っぽく、薄暗い。こんな時間になってもカーテンが開いていないからそう思うんだろうか。桜河はいるはずなのに、不思議と人の気配が感じられない。
「桜河?」
つい先日、Edenが遠征に出ている間はくれぐれも問題を起こさないようにと副所長に念を押された。よって漣は不在のはずだが、住民の許しなくずけずけと押し入るのは若干気が引ける。
そうは思っても返事がないので、再度呼びかけながら奥へと進む。ひょいと壁を覗くと、桜河が寝ていると思ったベッドはもぬけの殻になっていた。
寝姿を写し取ったような格好で放り出されたTシャツに、ゴムの部分だけひっくり返った半ズボン。それから何故か、タオルケットからはみ出す黒い布きれ。
たしかに部屋の中から声がしたのに、桜河の姿がどこにも見当たらない。いったいどういうことなのかとスマホを耳に当て、周囲を見渡した。けれど、着信音が鳴り始めるより早く、枕元に放り出された桜河のスマホが目に入る。
桜河というより漣に悪いなと思いながら、洗面所やトイレのドアも開けてみるけれど、やはりどこにも見当たらない。まるで状況が掴めず、心配が転じた微かな苛立ちが憂鬱と混ざり合い、こめかみの辺りにうっすら積もる。
「桜河、どこにいるのです」
やや声を張って問いかけるも、やはり返事は返ってこない。もう待ち合わせの時間をとっくに過ぎているのに、呼び出した張本人が部屋にいないとはいったいどういうことなのか。こらえていたものとはべつのため息が漏れて、目頭を摘まむ。桜河はこんなよくわからない不義理を働くような子ではない。やはり何か問題でも起きたのか、なんなのか。
考え込んでいると、カツン、カツンと小さな音がするのに気がついた。金属が触れ合うような、それにしてはちゃちな響きは玄関の方から聞こえている。
「HiMERUはん、HiMERUはん。こっち、こっちや、見て」
耳を澄ますと先ほどと同じ、変にうわずった桜河の声が聞こえてくる。いつの間にすれ違ったのか、今度は廊下にいるらしい。
「はあ、こっちと言われても……」
言いながら振り向いて、続く言葉がなんだったのか忘れてしまった。
「こっち、こっち」
ドアノブの上で、何かがちょこちょこと蠢いている。
「何ですか、いったい」
恐る恐る近づいてみると、それは人の形をして見えた。手をぶんぶんと振り上げる人形のようなものは、桜河とよく似た髪色をしていて、毛羽だった白い何かを身体中に巻き付けている。ぴょんぴょんと跳ねると鳥の羽のように見えて、頭のどこに仕舞われている記憶なのか、パパゲーノみたいだと思った。
「わしじゃ、こはく」
「うわっ、わ!」
人形が動いているだけでも理解できないのに、困ったように頬を掻くそれから桜河のような声がして、尻餅をついてしまった。
「わわっ、HiMERUはん大丈夫? 驚かしてしもて堪忍な」
ドアノブから身を乗り出して、パパゲーノが俺の顔を覗き込む。
「いやな、わしも驚いとるんやけど、とにかくちょっとわしの話を聞いてほしいんよ」
ちょいちょいと乞われるままに手を差し出すと、パパゲーノはぴょんと身軽に飛び移り、手首から肘へと滑り降りてくる。唖然とする俺を尻目に、今度はするすると膝に渡ると、思い出したようにおはようと言って笑った。
重さはあるにはあるが、ほとんど感じられないほど軽い。ちょうど、使っているハンドクリームのチューブと同じくらい。だとすると、30グラムくらいか。
とにかく正気を保とうと、考えられることを必死で考える。桜河のような何かがちょこんと座る膝が、ほっこりと温かくて困惑する。人形やロボットというより、白ウサギのイナバさんに乗られたときのような、生き物の温もり。
「えっと、桜河?」
まじまじと覗き込むと、目鼻立ちがよく見える。
「おん! 分かってくれたん?」
「いえ、あの、桜河こはくさんですか?」
「うん、そうなんよ。信じられんと思うけど、っちゅうかわしもまだ信じられんのやけど、起きたらこんなことになってしもとって」
困っていますと垂れ下がった眉に頑固そうな口もと。目を輝かせたかと思えば、頬を膨らまして息巻く姿。どれも見覚えのある表情ばかりで、頭が混乱する。
「なあ、わしやって信じてくれる?」
行き場を失った人差し指の先をきゅっと握って、不安そうに見上げられる。にわかには信じがたい状況であっても、かわいい桜河(のような何か)に期待されては否とは言いにくかった。
「ええ、まあ、分かりました……信じましょう。いえ、全く分かってはいませんが」
正直ドッキリの可能性も考えてはみたけれど、考え始めてすぐに、万に一つもあり得ないという結論に至った。仮に手のひらの妖精がロボットだったとして、こんなにも精巧に作ろうと思ったらきっと億単位では足りない。正月特番の撮影などは比較的予算が潤沢に使われるだろうが、それにしては時期が早すぎるし、そうでなくてもわれわれはCrazy:Bだ。PBBが社会現象になっていた時分ならいざ知らず、そんな途方もない予算をドッキリ一つに割いてもらえるとは、悲しいかな思えない。
言ってしまったものは仕方がない。ひとまず桜河本人であるとして、とにかく詳しい話を聞いてみる必要がある。
それに、いつまでも地べたに座っているのはHiMERUらしくない。ようやく思考回路を取り戻し、桜河の前に手のひらを差し出す。落ちないように両手で優しく包んで、テーブルにでも運ぼうかと立ち上がる。
「おわあっ」
手の中から桜河の声がするというあり得ない状況。けれどやはり、もぞもぞと身じろぎする感触も体温も、どうにも作り物とは思えない。実はあのままソファーで寝てしまっていて、夢でも見ているのだろうか。
「下ろしますよ」
「うん」
桜河をテーブルに置いてから、カーテンと窓を開ける。葉っぱと土の混ざったような匂いの、それでいて爽やかな風が抜けると、桜河が纏う白い何かがふわふわと揺れる。明るい部屋で見ると、いよいよ桜河本人としか思えない表情を浮かべている。
「では桜河、分かっていることだけでいいので順を追って説明していただけますか」
声を張らずに済むように、ソファーではなくラグに腰を掛け、できるだけ体勢を低くする。変な格好だなと思いつつとりあえず促すと、桜河は身振り手振りを交えて一生懸命話し始めた。
要するに、起きたら身体が小さくなっていて、心当たりは一切ないらしい。
「HiMERUはん、どういうことか分かる?」
期待に満ちた目で見上げられたものの、残念ながらそんな現象は聞いたことがない。大きな声では言えないが、それなりの成績を修めて大学を出た俺が知らないのだから、おそらくそんな病気は事件があった記録はこの世に存在しないんだろう。
「申し訳ないのですが、HiMERUにも心当たりはありません」
「はあ、やっぱりそうやんな。HiMERUはんにも分からんなんて、これからどうしたらいいんじゃ」
小さくても分かりやすく肩を落とす桜河。差し込んだ日差しに照らされて、毛羽だったティッシュが天使の羽に見えなくもない。
「どうしたらいいのかはHiMERUにも分かりかねますが、一旦お昼にしませんか。起きてそうそうロープ登りだなんて、お腹が空いたでしょう」
いつの間にか、壁の時計は正午を過ぎてしまっている。
「せやね。ニキはんやないけど、腹が減っては戦はできんわ」
「では、HiMERUがキッチンへ行って何か適当に持ってきましょう。桜河はここで待っていてください」
おおきに、と頷く桜河の頬に人差し指で触れて、窓を閉める。強い風が吹いて飛ばされでもしたら、また探すのは骨が折れる。
キッチンへ向かう道すがら、どこか浮き足立っている自分に気がついた。桜河の鍵が入っているからか、胸ポケットのあたりがそわそわしてなんとなく落ち着かない。
たまたま約束をしていたからとかオフだと知っていたからとか、俺じゃなくてもいい理由をあげつらってみる。けれど、人生最大であろうピンチに呼ばれたのは天城でも三毛縞でも朱桜でも、あの姉たちでもなく、HiMERUだった。何をどうしたって、この事実が覆ることはない。
桜河に知られたら流石に嫌われてしまうだろうが、どうしてもうれしいような誇らしいような気持ちが湧いてくるのが止められない。頼りにされたからには、なんとしても桜河を元に戻す力になってやらなければならない。
ただでさえ自分の甲斐性のなさと向き合わなければならない1日に、とんでもないミッションが転がり込んできた。憂鬱のどん底にいたのにかわいい桜河に頼られて、すっかり張り切ってしまっているのが自分でも分かった。
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