すき焼きの翌日、レッスンの後。どこで聞いて来たんか、HiMERUはんの身に起きた顛末を掴んだ燐音はんが、ニキはんを追って飛び出していく。
「まったく……天城には付き合いきれませんね」
「ほんまやわ。『HiMERUはんが異様にツイとることを知りながら教えんかった罪』なんて罪状、いくらなんでもあんまりやで」
「さすがに、今回ばかりは椎名に同情するのです」
HiMERUはんがため息をつく。
だいたい、今まで良ぇほど動き回っといてよくもまあまだ元気に走り回れるもんやな。体力無尽蔵か? あーしんど。
脚を投げ出して座り、ちびちびと水を飲む。傍でクールダウンを始めるHiMERUはん。その長い手足をぼんやり眺めていると、太ももが目に止まる。
燐音はんらの話やと、この膝にイナバはんっちうさぎが乗ってから幸運が立て続けに襲って来たとか。けったいなこっちゃ。やけど、そないなことになっとるのに、当のHiMERUはんは浮き足立つでもなく、自慢して回るでもなく……なんなら昨日はちょっと疲れた顔しとった気さえする。
考えながらマットに手をつき、ふくらはぎを伸ばす。HiMERUはんが前に教えてくれた通り、時間をかけてじっくりと……痛気持ちいいところで止める。
要するに、HiMERUはんにとっての幸運は、そういうことじゃないっちことや。望んでもない記念品が当たるとか、山ほどポテトが食べられるとか、そういう俗っぽいことやなくて、もっと、こう……なんて言うの?
HiMERUはんにとっての幸運――叶えたい願い。目を逸らさなければ、思い当たることはある。ただ、あまり考えたくないだけ。
それがぬしはんを幸せにするなら、わしだって叶ってほしい。やけど……その願いが叶った時、ぬしはんはどうなるの? 後生大事に守ってきた明るい場所を「本物」に明け渡して、ぬしはんはどこへ行くつもり? 自分は影に消えてまうの? それが…本当にぬしはんにとって幸せなことなん?
わしの考える「幸せな未来」には、当たり前のようにHiMERUはんがおるのに……HiMERUはんの「幸せな未来」にはわしどころか、自分自身の居場所すらないんかもしれん。そんなん、なあ……あまりにも寂しいやんか。
ストレッチを終え、一息つくHiMERUはんを盗み見る。端正な横顔。会わない日はないくらいなのに、飽きもせずまた「ほんまに綺麗なお人やな」と驚く。
「おや、どうしました桜河?」
振り向いたHiMERUはんに黙ってにじり寄り、並んで座る。ぽすっと、肩に頬を乗せると、甘やかないい匂いが鼻をくすぐった。
「いつまで経ってもアホどもが帰って来んから、眠なってきてもてん」
とかなんとか言うてみる。ちゃうんよ。ほんまは、ぬしはんがどっこも行かんよう、重石になりたかっただけ。
「なあ、HiMERUはん」
「ん?」
「えっと……」
わし、ぬしはんのことが好き。
喉まで迫り上がってきた言葉をごくりと飲み込んだ。口に出したら、きっとHiMERUはんを困らせてしまう。
「いや、やっぱなんでもないわ」
「そうですか? ふふ、変な桜河」
変ついでに、腕も小さく抱いてみる。それに気付かないはずはないのに、HiMERUはんは何も言わない。動じてもくれない。
なんちゅーか、まるでマジックミラーや。中からは見えるのに、外からは反射して覗き込めんの。わしの想いは分かってそうやのに、こうやって振り払いもせず、さりとて反応もせず。ぬしはんの心は、わしには読めん。
でも――以前読んだ推理小説、その一幕を思い出す。マジックミラーは鏡とは違う。光の一部は反射せず、内側に届くようにできている。HiMERUはんの心がマジックミラーなら、跳ね返された分だけ、2倍も3倍も頑張るだけ。
キュッと腕に力を入れる。伝えたらあかんと思いながら、どうか伝わってと希う。
なあHiMERUはん。わし、ぬしはんが好きやで。来年も再来年も、その先ももっと、ずっと一緒におりたい。わしくらいじゃ足りんかな? ぬしはんを引き留めるには。どこも行かんといてほしいのに。うさぎなんか乗らんでも、わしがぬしはんを幸せにできたら良ぇのに。
「もうあいつら置いて帰ろか?」
「そうしましょうか。考えてみれば、待つ意味も分かりませんしね」
「身体冷えるとあかんし、お茶でも飲まん? わし淹れたるで、ピカピカのケトルで」
「いいですね。ぜひお願いします」
荷物を取って、レッスン室を出る。
「楽しみやな」
「ええ。美味しいお茶が2日続けて飲めるなんて、HiMERUは幸せなのです」
隣を見上げて微笑みかければ返される、優しい瞳に心が弾む。
聞いたかイナバはん。ぬしはんなんてお呼びじゃないで。うさぎなんか乗らんでも良ぇ。わしも今、HiMERUはんと並んで歩くこの時が……とっても幸せ。
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