小石でも投げれば

 タクシーの清潔なシート。ボリュームを絞ったラジオから流れる古い洋楽が、車内の静寂を満たしている。The water is wide.I can’t cross over……〝川が広くて渡れない〟なんて、七夕の夜にふさわしいのか、ふさわしくないのか分からない選曲だ。

 今日のうちに要に会いに行けてよかった。ドアにもたれかかり、ぼんやり考える。上空には煌々と照らす月。雨はとっくに止んでいて、まばらな薄雲が風でするすると滑っていく。

 パーティーの後、喧騒が落ち着くのを待たずに抜け出せたおかげで、面会時間に滑り込むことができた。一応は日程の全てが終わっていたし、HiMERUが姿を消しても副所長や天城、桜河が……ともすれば椎名も、うまく誤魔化してくれていることでしょう。自然とそう考えた自分に驚く。知らぬ間に、他者をすっかり計算に入れている。

 HiMERUが受け取ったたくさんのプレゼントを抱えて病室に入ると、看護師たちが祝ってくれたんだろう、壁面が折り紙の輪や花で飾られていた。よかったな、要……誕生日おめでとう。頭をそっと撫でると、髪を洗ったばかりなのが分かった。花束を生けかえ、贈り物の箱を開けて、ベッドから見えるように並べて置く。ファンからの手紙をいくつか選んで読み聞かせると、時おり、痩せた手がキュッと握り返してきた。

 軽快な電子音につられて、意識がふっと現実に戻る。21時を知らせる時報。続いて話し始めたパーソナリティーの声を、聞くともなしに聞いている。今日は七夕ですね。昼間はあいにくのお天気でしたが、織姫と彦星は……。左を並走していた月が今度は後ろを付いてくる。

 精算して車を降りたとたん、冷えた両腕に湿った空気がまとわりつく。土と緑の混じった、雨上がりの匂い。葉擦れの音をたてて風が夜をかき混ぜる。

 色とりどりのカーテンから溢れた星奏館の灯りは、どれもこれも温かでやわらかい。帰る場所はここなのに、幼いころ散々味わった類の寂しさが一瞬、胸を通り抜けた。ばかばかしい。水溜まりを避けながら、足早にエントランスを目指す。

「HiMERUはん!」

 突然降ってきた声に、弾かれたように顔を上げる。気のせいかと思ったのに。向こうから、桜河が駆けて来た。

「桜河?」

 なぜこんな時間に、こんな場所に。

「おかえり」

 ニコッと笑いかけられて初めて、いま桜河に会いたいと思っていたことに気付いた。ばかげた感傷が、一瞬のうちに消え去っていく。

「……ただいま」

 呼吸を整える桜河の、膝についた手が何かを握っている。気になることは多々あるが今ひとつ状況が分からず、出方を伺う。

「あの……たまたまな? 七夕やし、星でも見ようかなーっち思って外見たら、HiMERUはんが帰って来るのが見えたから」

「……星」

「おん……天の川」

 真実を話す調子で、ひょうひょうと言葉を紡ぐ桜河。姿が見えたからといって、何か理由がなければ息せききって駆けて来る必要はないのに。もしかして、ずっと待っていたんだろうか。俺が帰って来るのを、何度も窓を覗いて。そんな考えが浮かんで、すぐに否定で塗り潰す。

「もし時間あるなら、わしとちょっとだけお散歩せん? 中庭とか、ほんの近くで良ぇから」

 夜9時に、濡れた中庭を?とは口にせず、軽く頷く。真意は分からずとも、今日1日の終わりを桜河と過ごせるのは、悪くない提案だった。

「こんだけ晴れたら十分やね。今年は会えたんとちゃう?」

 視線の先には、雲の隙間を流れる天の川。よほど明るい星しか見えなくても、川のようには見える。

「そうですね……でも、七夕伝説は雲の上の話ですから。天気はあまり関係ないように思うのです」

「それはそうやけど、晴れたら会えるっち考えた方が風情があるやん」

 とりとめもなく話しながら、濡れた石畳を並んで歩く。桜河にしては珍しく落ち着かない様子で、何か握った左手をしきりに気にしている。どうしたものかと考えていると、先に桜河が切り出した。

「えっと、ちょっと座って話さん? この椅子濡れてないし」

「ああ……木が傘になったんですね」

 そう応じて、ベンチに腰掛けた。水溜まりに映る月が、風に揺れている。話そうと言ったわりに口を開かない桜河を横目に伺うと、何やら険しい顔をしている。悩みでもあるのかと思い、黙ってじっと待つ。

 星の瞬く音さえ聞こえてきそうな、ピンと張った静寂。きっかけがあった方が話しやすいのだろうか。

「……それで、どうして迎えに来てくれたんですか?」

 ためらいつつ、とうとう口火を切る。けれど……こちらに向けられた桜河の目を見て、すぐに「間違えた」と気付いた。耳の奥で警鐘が鳴る。言い淀んでいたのは心配事や相談じゃない。いま、桜河の目に宿っているのは強い決意だった。

「HiMERUはん……手、出してくれん?」

 言いながら俺の手を取って、ずっと隠していた何かを乗せる。手の平から少しはみ出るくらいの薄い包み。中身は皆目見当もつかない。

「……これは? 誕生日プレゼントなら、先ほど頂きましたが」

 平静を装って答えるも、嫌な予感が止まらない。築き上げたバリケードが壊されるような、すり抜けて侵入されるような、そんな予感が。桜河は両手で俺の手を挟み込んだまま、一つ深呼吸して、こちらに向き直った。

「あれは……HiMERUはんに。で、これは……これは、ぬしはんに」

 するり、解放された手に包みだけが残る。和紙の毛羽だった繊維が、月明かりに白く浮き立つ。

「お誕生日、おめでとう」

 ぬしはんに。その言葉の意味するところが分からないほど鈍くもなければ、愚かでもない。つまり、桜河は「俺」にプレゼントを渡したくて1日、こんな時間まで2人きりになれる時を待っていたのか。

 せめて……せめて、その理由が分からなければよかった。せめて、その気持ちが嬉しいと感じずにいられればよかった。桜河がなぜそんなことをしたかったのか、俺には分かってしまう。ずっと前から気付いていた。桜河が俺に向ける感情の特別さに。

 目が合うとパッと逸らすのに、またすぐにこちらを見ていること。手が触れたり、距離が縮んだりすると頬が微かに赤らむこと。もう覚えたはずのアクセサリーを付けてほしいと持ってくること。2人で出かける時は普段より少しだけはしゃいでいること。その日あったいい事を教えに来てくれること。俺にだけ分けてくれるお菓子の数が多いこと。全部、分かっているのに見ないふりをしていた。桜河の想いにも、俺自身の想いにも。

 そんなふうに慕われて、可愛くないはずがない。嬉しくないはずがない。目が合うたびに、いたいけな恋情を向けられるたびに、心がキュッと掴まれた。俺が生きるために失くしたものや捨てたものを、まだ知らず全て抱える腕。その幼さを言い訳にせず、年上の俺たちと肩を並べてステージで輝くためにひた走る姿。俺だって…俺だって桜河が好きだ。

 けれど……これを受け取るということが、HiMERUにとって何を意味するのか、どう影響するのか、俺には分からない。分からないなら無闇に踏み出すべきじゃない。目を背けることでずっと守ってきた一線を超えないための、おあつらえ向きの言い訳が見つかって少し安堵する。

「桜河、HiMERUは……」

 HiMERUはHiMERUです。だから受け取ることができない。ただ、それだけのことを告げれば、HiMERUを確実に守ることができる。なのにどうして、続く言葉が出てこない。

「……ぬしはんが言いたいことは、痛いほど分かっとるよ」

 声が震えている。それでも逸らさない澄んだ瞳に膜が張り、みるみるうちに膨れ上がっていく。表面張力いっぱいの涙の粒が、月明かりにきらめく。

「分かっとるよ。でも、だって好きなんやもん……寝ても覚めてもぬしはんのことばっかり考えてしまう。どうしても、誕生日おめでとうっち言いたかった」

 長いまつ毛が瞬くと、ついにポロポロと溢れ落ちる雫。桜河は、どんな気持ちでこのプレゼントを用意してくれたんだろう。今夜、どんな気持ちで俺を待っていたんだろう。愛しさと苦しさで胸が詰まって、うまく息ができない。

「桜河……」

 泣かないで、なんてどの口で言えばいいのか。はっきり拒絶することすらできないで桜河を泣かせたのに、不意に告げられた想いに高鳴る胸を抑えきれない。濡れた瞳に射抜かれて、指先がピクリ脈打つほど甘やかな痺れが駆け巡る。

 HiMERUでいるために殺すと決めた恋心に、いまこの瞬間、俺はどうしようもなく支配されてしまっている。

「初恋は叶わんっちあれは、ほんまのことなんやね……失恋が苦しいっちのも。さっきから、胸が痛くてかなわんわ……」

 桜河はHiMERUを尊重して2人になれる時を待ってくれていたのに、これを受け取ることの何が問題なんだ? だけど俺が俺として受け取ってしまったら、HiMERUに綻びできてしまう。本当はうれしいくせに、心に蓋をして桜河を苦しめて? 心を偽っても、常に完璧なHiMERUでいないと。受け取ったら俺はHiMERUではいられないのか? それは分からないが……分からないからこそ。右に、左に、天秤が激しく揺らぐ。

 答えは出ない。何も言えないままに、せめて涙を拭いたくて手を差し出す。中途半端な優しさがかえって傷つけることになるのは分かっているのに。

 濡れた頬をすり寄せて微笑む桜河。手の平に触れた頬の、なんて柔らかく熱いことか。

「困らせて堪忍な、HiMERUはん……わし、もうやめるから。ぬしはんのこと好きでおるのはやめるから……ちょっとは時間かかるかもしれんけど……やから、忘れてくれて良ぇよ」

 俺の手をそっと下ろして、桜河が立ち上がる。

「おやすみ」

 水溜まりを踏みつけて駆け出す、桜河の腕を咄嗟に掴む。もう、理屈じゃなかった。思い切り引き寄せ、抱きすくめる。この瞬間を逃したら桜河が離れて行ってしまう。それだけが明白だった。嫌だ。いまの一瞬、他のことは何も考えられなかった。

「そんなんされたら、性懲りも無く期待してしまう」

 腕の中で、桜河がぐずぐずになって泣く。俺だって泣き出したかった。言い訳を積み上げたバリケードで堅く守ってきた扉の前に、桜河が立っている。

 しゃくりあげる背中をトントンと叩く。伝えなければならないことがあるのに、いっこうに考えがまとまらない。もう、ここまで来たら洗いざらい話してしまっても同じか。散々逡巡しておいて、口を突いて出る言葉に任せる。

「俺は……俺はHiMERUが一番大切で、それは変えられない。でも……桜河が離れていくのは嫌だ」

「な、なんやの?」

「横暴なのは分かってる……けど、やめないで」

「……なにを?」

「好きでいて」

 腕に力を込め、懇願する。桜河はパタリと泣き止んで、浅い呼吸を繰り返している。

「な……なんで? わし、全然分からんのやけど、もしかして……まさかとは思うけど、ぬしはんも……ぬしはんも、わしのこと好きなん?」

「うん……好きだよ、桜河」

 覚悟を決め恐る恐る囁くと、腕の中で桜河が小さく跳ねた。

「なんやの……ほんま……言うん遅いわ……」

 気が抜けたのか、ぐったりと崩れ落ちる桜河の身体を抱えて「すみません」と微笑んだ。自然と出た言葉や振る舞いが紛れもなくHiMERUのものだったので、心底ほっとする。桜河が俺を好きでも、俺が桜河を好きでも、俺がHiMERUであろうとする限りHiMERUはHiMERUでいられる。少し考えれば分かりそうなことが、踏み出す前はどうしても分からなかった。

「HiMERUはん助けて……腰抜けたかもしれん……」

「ちょっ……と踏ん張って桜河……!そこに座るとお尻が濡れますよ」

 踏み出してしまえば何のことはない。桜河も傍で笑っている。引っ張って立ち上がらせながら、つられて笑った。

「これ、開けてみて?」

 元のベンチに並んで腰掛けると、桜河がくれた包みを指す。小間物屋のシールを剥がして和紙を開くと、出てきたのはつげ櫛だった。

「櫛贈るんは縁起悪いっち言う人もおるけど、むかーしはお守りにしとったらしいし、あと……いやそれは忘れたけど、ブラシより髪綺麗になるっち姉はんら言うとったし、長持ちするし……どうやろ?」

 早口に捲し立てる様子に口角が上がる。桜河が言わなかったもう一つの意味を、実は知っている。苦も死も共にと、かつてプロポーズの際に贈られていたというもの。すでにこれ以上ないほど照れている桜河には、黙っておくことにするけれど。

「ええ……とても気に入りました。ありがとうございます。大切にしますね」

「うん」

 石畳を並んで歩く。桜河は弾む足取りで半歩前を行く。

「なんか、夢みたいや。寝るんが怖いわ」

 何度もこちらを振り返って、ニコニコと笑っている。

「ほんまは皆まで言うつもりはなかったんやけど、小石も投げてみれば届くもんやな……」

「石?」

「知らん?昔の人が詠んだ歌やわ。何やっけ……小石でも投げれば届きそうな川やのに、天の川のせいで会えんわ、みたいな」

 どこかで聞いたような話だなと思って、車中のバラードを思い出す。あれはたしか、「川が広くて渡れず、翼もない。どうか2人が乗れるだけのボートをください」だった。

「投げてみたら良かったのにな。それで届いたら、泳いで会いに行ける川幅やっち分かったかもしれんのに」

 な、と桜河が小首を傾げる。なぜそうしなかったのか全く分からないという顔に、心底敵わないと思った。しないんじゃない、それが出来ない人の方が多いから、たぶんその歌は今も残っているんだろう。だけど、川に遮られていても、俺が対岸で諦めようとしていても、この子は小石を放り投げて、泳いで会いに来てくれる。

「桜河」

「ん?」

「目を閉じて」

 素直に瞼を閉じた無防備な顔。乾いた涙の跡を親指で撫でる。

「HiMERUはん? もう開けて良ぇ?」

「まだですよ……」

 キスされるなんて、夢にも思っていないんだろうか。びっくりするかな。たまらない気持ちでくちびるを押し当てる。少し乾いたくちびる。じんわり胸が熱くなる。

 ゆっくりと離れて目を開けると、桜河は顔を真っ赤にして、口をぱくぱくさせて固まっていた。しばらく見つめていると、今度はくちびるに指を当てて、何やら考える。

「いま……ひょっとしてチューした?」

「はい、しましたが」

「まだ手もつないでないのに!?」

 桜河が間の抜けた声を上げるので、吹き出しそうになる。中学生じゃないんだから……と思ってから、いやそんなものかと思い直す。

「だめでしたか?」

「だめなことない……けど、心の準備出来てなかったから……も、もっかいして……」

 そう言って、くっと背伸びした桜河と2度目のキスを交わす。

「わし、ドキドキして寝られんかもしれん」

 手で顔をパタパタと仰いでいる。

「ちゃんと目を冷やして寝るんですよ」

 自分が泣かせておいて何をと思いつつ、目が腫れないよう冷やし方を教える。明るいエントランスに入って見ると、あまり酷い有様にはなっておらず、胸を撫で下ろす。

「じゃあ、おやすみ」

「ええ、また明日。おやすみなさい」

 桜河と分かれ、それぞれの部屋へ向かう。思わぬプレゼントをもらってしまった。櫛と小さな恋人……大切にしよう、どちらも。胸ポケットの櫛にそっと触れる。なんだか温かいような気がした。

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