王様の耳はロバの耳

 やった、やったで、やったった。るんたった踊り出しそうな脚を押さえつけ、一目散に廊下を抜ける。常に片足は地面に着いているので、競歩のルールに則れば走っていない。が、そんな屁理屈が寮監に通用するとは思えない。見つからないように全神経をそばだてて、長い道のりをちゃっちゃか行く。

 早く、早く部屋に帰らんと。気を抜けばぬふんと解けるくちびるを都度一文字に結び直し、どかどか進む。上体を傾けているせいで、カーブにかかるとでんでん太鼓みたいに拳が振れる。端から見たら阿呆みたいかもしれんなと思いつつ、ちょっと面白くてぶらぶら、吹き込む風に遊ばせておく。

 5月の風はほんのり甘いツツジ色。窓を横切るたび、汗ばんだうなじをふぅと冷まして去っていく。特別暑い日でもないのに顔が、拳が火照って火照って仕方ない。

 HiMERUはんはまだ長袖を着ていた。思い出すと左肘がこそばゆくなって、背筋がにょろにょろ波を打つ。七分に折った袖が当たるたび、全神経に集合の令がかかっていたせいで馬鹿になっているのかもしれない。

 飛び込んだ自室には幸い誰も居なかった。念のため大きな声で「ただいま」を言い、耳をすませてから、まっしぐらに机へ向かう。「私、もう一生手を洗いません」。握手しながらそう言ってくれるファンの人らの気持ちがようやっと分かった。

 二重底にした引き出しを片手で開けて、革張りの黒いノートを取り出す。厳重に仕舞ってあるからといって、触ってもリンゴ好きの死神は見えない。名前を書かれた人間はどうこうなんて力があるわけでもない。しかし、このノートを覗いた人間には心臓麻痺でも起こしてもらわなければならない事情がある。

 小さな錠前を開けて、表紙の裏に左手を置く。中指からそっと、全体が収まるよう慎重に。見えない形を取るみたいにぐっと押し込んで離すと、厚紙がぺらりと吸い付いて剥がれた。我ながらお子ちゃまじみた発想だとは思うが、こうしておけば今日をそっくりそのまま保存しておけるような気がした。

 分厚いノートは日記帳で、まだほんの数ページしか埋まっていない。それもそのはず、HiMERUはんがこれを贈ってくれたのは告白に応えてくれた日の帰り道。行きつけらしい大きな本屋に連れて行かれ、わけも分からないまま一緒に選んだのは2週間前のことだった。

「桜河が情報の扱いに長けていることは承知していますし、口の堅さを疑っているわけではないのです。ファンのためにもきっと守ってくれることでしょう。俺も桜河をよく見ていますから、そのくらいのことは分かります」

 そう言ってHiMERUはんは膝に包みを取り出した。リボンのシールが貼られた薄茶色の紙袋。夕方と夜のあわい、公園には人っ子一人いなかった。葉桜のざわめき、香水とシャンプーの匂い。頬はずっと熱いのに、ブランコがキィキィ音を立てるたび半袖の腕が粟立った。

「ふふ、じゃあどうしてか? 秘密を守るということは、責任や孤独を伴うものです」

 ふっと空を仰ぎ見て、溢れた髪をすくうとHiMERUはんはひそやかに笑った。

「冷えてきましたね」

 HiMERUはんは羽織を取り出すと、わしの肩にふわっと掛けた。馴染む体温に、立ち上る香水の清潔な甘さ。弟はんと暮らすようになってから、HiMERUはんはますます男を上げた。気が利くというか面倒見が良いというか、優しいというか。いや、それは昔から変わらないけど。

「桜河はいつも、俺たちに『うれしい』や『楽しい』を分けてくれるでしょう。それは美味しいお菓子や本にとどまらず、出来事や思い出であっても。俺はね、そんな桜河が好きです。だから、俺のために桜河に窮屈を強いたくない」

 それはもう、十分懲りましたから。差し出されたノートを受け取ると、HiMERUはんは細長い指で眉をなぞった。不意打ちの「好き」にお礼もつっかえるわしとは正反対の白い頬。

「『王様の耳はロバの耳』の穴じゃないですけど。そういう、聞かせたいのに話してはいけないことは、書いてしまうと少し気が楽になると思うのです」

 ちょんと膝が触れ合うと、心臓が弾けそうなほど強く早く脈打った。真っ白に飛んだ頭のどこが動いているのか、ぺりぺり鳴る紙袋を抱いて、この人自身がそうやって秘密を抱えてきたんやろかと思った。ノートなんて致命的な証拠は残さなくとも、何か似たような手段を用いて。

 だけどもし、もし本当にHiMERUはんにもノートがあるのなら、あの大人っぽい字が記すのはわしと同じ「うれしい」や「楽しい」がいい。「悲しい」や「苦しい」が息を潜めて縮こまるほど、わしの名前を書いてほしい。

 帰りましょうかと立ち上がる腕を捕まえて、咄嗟にデートの約束を取り付けた。

 そんなわけで付け始めた日記はラブノート、このノートに名前を書かれた人間はEve(ジュンはん、あのMV撮るとき緊張せんかったん?)……えっと、さっきからわしは何を考えていますか? 照れすぎて頭沸いたんか。日記なんだから当然他の名前も出てくるし、キスなんて今日のポンコツエスコートを省みると到底できそうにない。いや、頭沸いとるっちいうんはそういう話やなくてな。

 一人でぼけて突っ込んで、あまりのお上りさん具合に顔から火が出そうになる。ルームメイトが帰ってくる前に正気を取り戻さなければ、やっとできた後輩たちの信頼を失ってしまう。

 机に突っ伏して左手を見ると、汗がきらきらLEDを弾く。握って、開いて、鼻先に寄せればうっすら土埃のにおいがする。手に残る感触、エンドロールに照らされたHiMERUはんの素顔、うれしいのに泣きたいような気持ちになったこと。どれ一つ忘れたくなくて、シャープペンを手に取った。

5月11日
 ひめるはんと手をつないだ。ぎゅっと握ったら熱くて、もぞもぞひっくり返して手のひらと手のひらがくっつくようにしてくれた。ひめるはんの手が下で、わしの手が上やった。ひめるはんの手の方が大きいはずやけど不思議とそんな感じはしなくて、なんかこう、細っこくて手の甲がすべすべしてた。

 これまでも手くらい触ったことあるはずやのに、信じられんくらいどきどきした。嫌やないか確かめたいのに顔も見られんし、聞こうにも言葉という言葉が全部頭から飛んでしまった。でもきゅってするときゅってし返してくれて、そのたびに心臓もきゅってなるから、ずっとこのままがいいけど、ずっとこのままやったらそのうち死んでしまうかもしれへんっち思った。

 初デートいうたらやっぱり映画やろ。念のため「初デート 場所」で調べたら映画館が定番やっち書いてあったから、どこがいいかいろいろ調べたり聞いて回ったりした。ひめるはんも楽しかったっち思ってくれてるやろか。

 デートなんてしたことなかったから分からんけど、目標とかあったほうがええんかな。なら手つなぎたいなっち考えたんやけど、それやとお客はん少ない映画館がいいとか、あんまりこてこてのラブシーンがあるとかえって気まずいかもしれんとか、慣れん気遣いすぎてわけわからんくなってしまった。

 集中して見られんくてもついていけるような内容で、恋愛ものやなくて、全然話題になってないけど面白い映画知らん?なんて無理難題ふっかけたのはわしやし、斑はんにしては珍しく概ね注文通りの回答やったけど、1発どつきたい気分じゃ。わし以外、いったいどこの誰が初デートであれ見ようっち誘うんじゃ?

 オー*ティン*ワーズはどうだぁ?言うて、ちょうど今やっとるからって古い映画ばっかりやるって穴場の映画館も教えてくれたわけやけど、何が「大きく分ければスパイもの」やねん。映画を「スパイもの」とそれ以外で2分したら「スパイもの」で間違いないけど、阿呆の算数にもほどがあるやろ。0*7のオマージュっち言うてたけど、ああいうんはオマージュやなくてパロディっち言うんじゃ。

 あんまり下調べしても楽しめんくなるかと思って、ひめるはんに見たことあるか確認するだけにしたんやけど、ちゃんと調べといたらよかったやろか。終わってみれば面白かった気もするけど、どぎつい下ネタの連続で途中意識飛びそうになってしもた。

 映画館は空いてるどころか、わしらの他にはおじいはん1人しかおらんくてほぼ貸し切り状態やった。スクリーンの両端にえんじ色の幕がかかっとって、清潔やけどほんのちょっとカビとか埃のにおいがするような古い建物。座席も同じえんじ色のもけもけの布が貼ってある木の椅子で、座ると固めなのがなんでか知らんけど気に入った。

 ひめるはんも「よくこんなところを知っていましたね」っち言うて褒めてくれたから、わしも斑はんに教えてもらって初めて来たなんてことは黙っておくことにした。辛うじて自販機はあったけど、ポップコーンなんて売ってるはずがなくて正直ほっとした。手つなぐっち目標があるのにべたべたポップコーン触ってられんし、第一真ん中に置いたら邪魔やろがと思って心配やったんじゃ。

 おじいはんの7列くらい後ろに座って、何を話したらいいか分からず右の手すりを撫でとるうちにビーッて鳴って、すぐに映画が始まった。わしがもじもじしてる間、ひめるはんはペットボトルの水を静かにちびちび飲んどった。横にコーラもあるのにひめるはんが水のボタン押した時、これはデートなんやって実感が湧いてうれしかった。

 1960年代に活躍したスパイが悪の親玉を追いかけて冷凍睡眠に入って、30年後に2人とも解凍されるっち導入はわくわくした。オープニングも曲は聴いたことあって、この曲はこの映画が元やったんやねっち耳打ちしたら、ひめるはんも知らんかったっち言うた。

 映画館で映画見ながら喋る趣味があるわけやないけど、どのみちその後はひそひそ話なんてできんかった。解凍されたスパイのおっさんが温められたりシャワーで洗われたりするんやけど、30年も寝てたから一生おしっこ止まらんっちシーンがあって、最悪やった。あんまりしつこいからうっかり笑いそうになってしまって、そんなもんで笑うところを絶対ひめるはんに見られたくないから必死で気を逸らした。

 その時点で斑はんに1発入れようっち決めたんやけど、そういうお下劣な下ネタはまだかわいい方やった。30年前に組んでたお姉はんの娘(バネッサはん)が相棒になってからが本当に酷かった。セクハラに次ぐセクハラで、口開けば「息子」がどうの「運動」がどうの言うて、バネッサはんが「黙って!」っち言う前からわしの方がよっぽど強く黙ってっち思っとったわ。

 もうとてもじゃないけどひめるはんの方は見られんくて、手つなぐどころやなかった。1回だけまともに良いムードになる場面があったけど、助平じじいがバネッサはんに触れんのにここで手つないだらえらい浅ましいような気がしてできんかった。ほんで、そうやって尻込みしてる間に抜け作スパイが浮気しよった。

 理知的やのに「酔ってない」っち言うては大笑いするバネッサはんが、なんかちょっとだけ、酔っ払ってる時のひめるはんに似て見えてかわいいなっち思った。その矢先やったから余計、おっさんのことぼこぼこにしばいたろかと思った。

 一応実力を買われて30年も冷凍されてたわけやし、竜宮城から帰ってきた浦島太郎みたいな孤独とも付き合っていかなあかんわけやし、それを押しても守りたい信念とか自由がおっさんにもあるって分かったから、終わってみると不思議と嫌いじゃない。今でも黙ってほしいって心から思うけど。

 最後はおっさんとバネッサはんが悪の根城に乗り込んで親玉を追い詰めるんやけど、また宇宙へ逃げて冷凍睡眠に入ってしもた。悪の親玉はおっさんみたいに上手に玉手箱を開けられんくて、こじ開けようとして余計孤独になってしもたのに、さらに未来に逃げるなんて意気地無しやな。

 悪の組織の企みを止めたり、お色気お姉はん型の攻撃アンドロイドをおっさんがセクシーダンスで爆破させたりしてるの見てたら、あっちゅう間に大団円に差し掛かっててどないしよかと思った。何をとち狂ったかおっさんとバネッサはんが結婚して新婚旅行しとるんやけど、上司からのテレビ電話に素っ裸で出ててわけが分からんかった。大事な部分はメロンだのパイナップルだので隠してるのが余計阿呆くさくて、ついに鼻で笑ってしもた。

 しまったと思ってひめるはんの方を見ると、ひめるはんも眉をしかめて笑っとった。わしが見とるのに気がついて、顔見合わせて笑ったらなんか気抜けて、もうかっこ悪くてもええわっち思えた。

 下向いて確認したらひめるはんの右手は軽く握って膝に置いてあった。自分の膝で汗拭ってから、えいって手伸ばした。

 こうやって思い出しとるだけでどきどきして手汗もすごいんやけど、つないでる間、ひめるはん気色悪くなかったかな。聞きたかったけど、手つないだ感想なんて聞いたら余計気色悪い男になってしまう気がして、堪えたまま帰ってきた。

 毎日ああしてこうしてって考えてたけど、なかなか思った通りにはいかんことのほうが多かった。待ち合わせからしてぐだぐだやったし。早めに行って待ってようっち思ってたのに、方向が同じやから電車の中でばったり会ってしもた。

 見たことない服やったし、変装もしてたけど、すぐにひめるはんやって分かった。落ち着いた大人っぽい服装で、今日は一つも指輪してなかった。寮出るぎりぎりまで、一彩はんと出かけた時に買ってまだ下ろしてなかった竜魚のシャツかラブはん一押しのセットアップ?っちやつと迷ってたんやけど、ひめるはんがえらい褒めてくれたことを思うと、ラブはんの言うこと聞いといて良かった。ガラス越しに並んで歩く姿見ても、ひめるはんとつり合い取れてたように思うし。

 あと何か書いてないことあるやろか。全部忘れんように書いておきたいけど、わし作文とかあんまり書いたことないし、難しいわ。

 エンドロールがそろそろ終わるなっち思って、手はどういうタイミングで離したらええんか分からんくて、ちらっとひめるはんの方を見た。ひめるはんと手つないでる間、あったかくて、どきどきして、うれしくて、なんかちょっと泣いてしまいそうやったんやけど、ひめるはんもそんな顔に見えた。ひめるはんもわしと手つないでしあわせっち思ってくれてたらいいな。

 あと何書いたらええ?また思い出したら書けばいいか。あー、わし本当にひめるはんがすき。まだ信じられんけど、ひめるはんもわしのことすきなんやな。うれしくて、どないしたらいいんやろ。今夜もまた寝られん気がする。寝坊せんようにせんと。

5月23日
 ニキはんから聞いた話なんやけど、ひめるはんがこの間の映画の半券を本のしおりにしてるらしい。コーヒー運んでいったら机に置いてあったから、ニキはんが映画見たんか、面白かったかっち聞いたんやって。そしたらひめるはん、あんまり覚えてないって答えたらしい。捨てずに取ってるのに面白いかは覚えてないなんて不思議っすねーっち言うてた。

 まさかとは思うんやけど、もしかして、ひめるはんも緊張してたんかな。涼しい顔して、いつも冷静沈着で記憶力も抜群やのに、わしが隣におったから?そんなことあるんやろか。でも、そしたらどうしよう。心臓がぎゅんぎゅんする。恋は病とはよく言ったもんじゃ。これ以上ないくらいすきやっち思ったから伝えたはずやのに、どんどんすきになってしまう。もう一生治らんかもしれん。

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