大人のくちびるで

 2月5日。いや、もう6日か。Crazy:Bの4人で誕生日を祝った帰り道、足元がおぼつかない桜河を引きずるようにして歩く。

 繁華街とは打って変わり、静寂が支配する住宅街。濡れたアスファルトが街灯に照らされ、ぼうっと光っている。冷たい風が吹き抜ける。つないだ手だけが、春のひだまりのように温かい。

 やはり、タクシーを捕まえた方がよかったか。ふらふら右に流れていく桜河の身体を手繰り寄せ、考える。

 20歳になった桜河は、今日が初めての酒席だった。知らず周りのペースに乗せられてしまったのか、雰囲気に当てられてしまったのか、お開きのころにはすっかり眠ってしまっていた。俺の膝を枕にして。

「こはくちゃん?起きて、帰るっすよ~」

 椎名が声をかけても、揺すっても、桜河は起きない。

「いや、こりゃ起きねーっしょ」

 会計を済ませた天城は戻ってくるなり、寝顔を写真に収めてニヤニヤと笑った。桜河の眉毛がピクリ、持ち上がる。

「んじゃま、こはくちゃんはあんたのお持ち帰りってことで」

「お持ち帰りも何も、ただ帰るだけなのですが」

「でも、一人で大丈夫っすか?タクシー呼んでもらう?」

 椎名が卓上の漬物や刺身のツマをさらげながら、呼び鈴を押そうとする。桜河の手がクッと、上着の裾を引っ張った。

「ありがとうございます、椎名……ですが、歩いて帰れそうです」

 そう言って断ると、桜河のくちびるが小さく弧を描いた。たぬきめ、天城には通じていませんよ。赤らんだ頬にぺしっと手のひらを当てる。

「桜河、ほら、帰りますよ」

「ん……」

 今起きましたというような顔をして、桜河が起き上がる。実際、酔いが回っているのは確からしく、手を目に当ててじっと耐えている。

「うぅ~~、ぐわんぐわんする……」

「ギャハハ! こはくちゃんもやっと大人の仲間入りだなァ!」

「騙されないで、こはくちゃん。燐音くんの飲み方は大人の飲み方じゃないっすから」

「んん……」

「はぁ……あとはこちらでどうにかするので、天城と椎名は気にせず、お先にどうぞ」

 天城と椎名を見送って、桜河の腕を引っ張り身体を起こす。荷物を拾い、上着を着せてマフラーを巻きつけ、靴を履かせて立ち上がらせた。

「で? 歩いて帰りたいんですね?」

「うん……」

「歩けるんですか?」

「うーん……たぶん」

 初めは本当に寝ていたのだろう。眠そうな眼を擦って、ニコニコ笑っている。

「手ぇつないで帰ろ」

 ん、と差し出された手のひら。思わず破顔して笑ってしまう。それで歩きたかったのか。桜河は付き合い始めた頃から今も変わらず、手をつなぐのが好きだ。

「暗い道に入ってからじゃないとダメですよ」

「あ、そやったわ」

「ほら……帰りますよ」

 歩き出した瞬間、壁にぶつかる。絵に描いたような千鳥足。

「わぅわ! すみません!」

「……壁なのです」

 ここから家まで25分。タクシーを呼びたい気持ちをグッと抑えて、桜河の腕を掴んだ。

 家まであと少し。わずかながら足取りがしっかりしてきた桜河と、手をつないで歩く。

 手が大きくなった。背が高くなった。顔つきはほんの少し精悍に、声も少し低くなった。背は越されなかったものの、つないだ手は俺の手より大きく、骨張っている。出会った時はまだ、衣装も一人で着られない幼気な少年だったのに。

「桜河」

「ん?」

「……大人になりましたね」

 人前で、人の膝でたぬき寝入りを決め込むような一面があるとしても、見違えるほど大人になった。それがうれしいのに、ほんの少し寂しいと思う。言葉は正直に、少ししんみりとした響きを持って寒空を漂った。

「そやろか」

 桜河はマフラーに顔を埋め、恥ずかしそうにしている。手をキュッとつなぎ直す。高さ3センチを目だけで見上げ、にっこりと微笑んだ。

「……そやったらうれしいな。やっと、ぬしはんと同じ歩幅で歩いて行ける」

 照れ隠しなのか、前に後ろに、振り子のように手を振るので、コートのポケットで鍵がチャリ、チャリと小さく鳴っている。

 もう、あの角を曲がれば。冷たい空気を肺いっぱいに吸い込み、白い息を吐く。

 帰ったらお湯を溜めて、桜河に水を飲ませて、一緒に湯に浸かろう。今夜はたぶん、セックスはしない。芯まで温まったら手をつないで、ただ一緒に眠ろう。

 エントランスに入る前に、どちらからともなく手を離した。宅配ボックスを開け、桜河姉からのプレゼントを取り出す。エレベーターの中、鏡を盗み見る。並んで立つ背中は、桜河の方が少し広い。

「やけど、ビールが美味しいっちいうんは嘘やろ?」

 わしは騙されんで。桜河が呟く。

「ふふ……どうでしょうね」

 9、10、11……ゆっくりと上昇する狭い箱。部屋に着くのが待ち遠しい。帰ったら。への字になった口をじっと見つめる。帰ったら……まず、キスをしよう。ビールを覚えた、大人と大人のくちびるで。

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