恋する瞳は油性ペン

 あたし、だるま。「だるまさんが転んだ」って知ってるでしょ? そう、そのだるま。でも、あんな厳めしいおじさんたちと一括りにしないでね。あたしは特別な、可愛いだるまなの。背丈も人差し指1本分くらいしかないわ。

 そもそもだるまさんが転ぶだなんて、どういう扱いを受けていたらそうなるのかしら。ここへ引き取られて来てもう5ヶ月は経つけど、あたしの持ち主、こはくくんはそんなことはしない。

 こはくくんの部屋の端、小さな棚があたしの住処。あたしを生んだおばあさんの所からここへ移って来た日、こはくくんはあたしに左目とこの場所をくれたの。同居人のジュンくんに「なんですかそれ?」って聞かれながら油性ペンで描き込んでくれた目は、あたしの世界を彩ってくれたわ。

 声や話し方、おばあさんからあたしを受け取る仕草だけでも素敵な子だと思っていたけど、この目で顔を見た瞬間、うっかり転びそうになったわ。人間って生き物はみんな、こんなにも美しいのかしらと驚いたものよ。きめ細やかな肌、桃色の頬、柔らかく光を透かす髪、意志の強そうな口、大きな目。その凛とした眼差し。一目で好きになったわ。

 この棚の正面には大きなテレビがあるの。それで知ったわ、全ての人間が美しいわけではないということ。ジュンくん、日和くん、HiMERUくん……他にも、この部屋に訪れる人間はみんな息を呑むほど整った顔立ちをしている。おかげで、初めてテレビを見た時は随分戸惑ったわ。

 まあ、十人十色ってやつよね。あたしたちだるまも、作り手によって顔立ちが全然違って見えるもの。そうよ、あたしが特別可愛いのと、こはくくんたちが特別美しいのと、きっと同じことなんだわ。

 あたしが特別可愛いってことも、テレビのおかげで知ったの。テレビって電源が入っていない時は暗い鏡のようになるのよ。それで初めて分かったわ。おばあさんがどうして、ロケとやらに訪れた彼にあたしを贈ろうと思ったのか。あたしってば、こはくくんの髪と同じ色の身体に、桜の絵が描かれているの。これもテレビで知ったのだけれど、こはくくんの名前には桜の字が含まれているそうよ。

 とにかく、あたしはこの部屋で幸せな毎日を送っているの。でも、悩みがないわけじゃないわ。だってこのところ、こはくくんがため息をつくんだもの。あたしはこはくくんの願いを叶えるためにここへ来たのに、これがなかなかうまくいかないのよ。

 知ってる? だるまって神様じゃないのよ。神様とのコネクションなんかも持っていない、ただ祈りを込めて作られただけの置物なの。あたしたちにできることはただ、左目をくれた人の夢や希望が叶うよう、一緒に、精一杯願うことだけなのよ。

 でもね、目をくれていなくてもきっと、あたしはこはくくんの願いが叶うよう祈ったわ。大好きなの。ときどき、眠る前にあたしのこと人差し指で撫でてくれるのよ。だからあたし、一晩中願うの。こはくくんの夢にHiMERUくんが出て来ますようにって。

 あたし、左目に込められた願いが何なのか、はっきりとは知らないの。でも、大好きなこはくくんの想い人くらいは分かるのよ。だから応援するの。いつも笑顔でいてほしいから。

 なのに、こはくくんがため息をつくのよ。HiMERUめ、あたしのこはくくんの何が気に入らないって言うの? こんなにかっこよくて、かわいくて、優しくて、努力家で、お礼をちゃんと言えて、手は温かくて、ほんのりお線香のいい匂いがして……それに、ジュンくんにバレないか心配になるほど分かりやすくHiMERUに焦がれているというのに。

 そう不満を募らせていた矢先、HiMERUが訪ねて来たわ。ジュンくんがいない夜を知っていたかのように。まあ、それ自体は珍しいことでもないけれど……今日は全くと言っていいほど会話が弾まない。

 こはくくんのベッドに並んで腰掛けた二人。ポツポツと話しては、俯いて黙り込んでしまう。しんとした空気に、あたしの心までザワザワしてしまう。こはくくん、頑張って! あたしが考えたって仕方がないのに、必死で話題を探していた。その時よ、HiMERUの右手がこはくくんの左手を包んだのは。

「桜河」

 HiMERUはそう囁くと、そっと両の目を閉じた。こはくくんの顔が目の前にあるのに見ないってどういう了見なの? あたしなんか四六時中、左目をかっ開いて見つめているというのに。

「早く……」

 俯いたままカチコチに固まったこはくくんの手を引いて、HiMERUが何かを催促する。悔しいけれど、こはくくんのこんな顔はHiMERUがいる時にしか見ることが叶わない。あたしは左目に全神経を集中させ、おじさんたちのボディーほども赤く染まった頬を焼き付ける。

「ちょ、ちょっとだけ待ってくれん?」

「もう十分待ちましたよ」

「そ、そやけど……まだその、心の準備が」

「先週もそう言って、結局今日に延期したでしょう?」

 先週。やっぱり、こはくくんのため息はHiMERUのせいだったのね。いったい何の話をしているのかしら。ほんのちょっと意地悪そうに、やれやれと微笑んでみせる色男。こはくくんをいじめるのはやめて。棚から必死で睨め付けるけど、まるで効いちゃいない。

「うぅ……でも、だってわし初めてやし、どうしても緊張してもて」

「ええ、だから1週間待ちましたよ。だって、その初めては桜河からが良いのでしょう?」

「うん……」

 二人きりの世界に籠城されて、なんの話をしているのかさっぱり分からない。ところでさっきから、あたしの頭は一つのハテナでいっぱいになっている……こはくくんの願い事って、「HiMERUはんと両思いになりたい」ではなかったのかしら?

 あたしたちは、合格だるまでもない限り、持ち主の願い事を詳しく知ることができない。だけど、あたしの身体はピンク色だから、恋愛成就だろうとうっかり思い込んでいた。

 今あたしの前にいる二人は、重ねた手を解かず、恥ずかしそうに視線を交わし合っている。どう見ても恋人同士にしか見えない。

 もしかして、願い事はべつにあるのかしら? それとも、こはくくんが右目を入れるのを忘れているだけなのかしら。そうかもしれない。こはくくんて、ちょっぴりそういうところあるもの。

「早くしないと漣が帰ってきてしまいますよ」

 胸に手を当てて深呼吸するこはくくんを、HiMERUが急かす。帰ってこないわよ。ジュンくん、今日は遅くなるって言ってたもの。

 こはくくんの恋人になったのだとしても、なんとなくHiMERUが気に入らない。これは嫉妬なのかしら。

 あたしだってこはくくんが好きなのに、HiMERUへの恋路を一生懸命応援していた。願いが叶ったら、両目をもらったら、もうここには居られないかもしれないと思いながら、精一杯。一瞬だけでもいい、喜ぶこはくくんの顔を両目で見てみたかった。

「よし、いくで……今度こそちゃんとするから」

「ふふっ、いつでもどうぞ」

 こはくくんの両手が、背丈の割に薄いHiMERUの肩をがっしり掴む。ギュッと目を瞑り、ゆっくりと顔を近づけていく。少しとんがったくちびる。ベッドの軋む音がする。あたしはだるまだから、目を背けることができない。

「わーっ!」

 くちびるが触れ合った途端、こはくくんは勢いよく仰け反って大声を上げた。あたしは涙すら浮かばない片目で、HiMERUの顔を見つめている。こんな満ち足りた表情ってあるのかしらと思いながら。

「や、柔らかかった……」

 両手でくちびるを抑えて、こはくくんが呟く。

「ちょっ……と桜河、感想を言うのはやめてください」

 同じくらい赤く染まったHiMERUの頬に、こはくくんが手を添える。本当に悔しいけれど、こはくくんは見たこともないほど幸せそうな顔をしていた。

「もっかいしてもええ?」

「ええ、何度でも」

 また二人のくちびるが触れ合う。片目のまま願いが叶ってしまったあたしは、生まれて初めて自分のために祈っている。どうか、どうかジュンくんが一刻も早く帰って来てくれますようにって。

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