今日はたつが朝からイヤイヤって暴れたせいで、ちゃきの髪は二つに分けて結んだだけになってしまった。寝る前に明日は三つ編みねってママと約束していたから、大好きなうさぎさんの飾りをつけてもらっても、ちゃきはちっともうれしいって思えなかった。
そのうえ下駄箱で振り返ったとき、ママはもうこっちを見ていなかった。いつもちゃきが見えなくなるまで手を振ってくれているのに、きっとたつが泣きだしたんだ。たつはまだ幼稚園に行っていないから、帰ったらずっとママと一緒。なのに、どうして今泣くんだろう。
そんなあれこれを、ちゃきはお姉ちゃんだから許してあげた。もう5才になったんだから、ちゃきはそんなことで泣いたりぐずったりしない。でも、だから今日は、なんていうか、ユーウツだった。
おはようございますって教室のドアをくぐったら、ちゃきが最後の1人だった。いつも優しいゆうこ先生は「みさきちゃんおはよう」って笑うなり、お席に座るように言った。
「みんな、ママはぐタイムって知ってるかな?」
ぱんと一つお手手を叩くと、先生はみんなに聞こえるように話し始めた。知ってる、大好き。口々にお返事をすると、先生はにこっとして頷いた。
「今日は、この幼稚園にママはぐタイムのお兄さんたちが来てくれます。もう少ししたらカメラマンさんたちが来るから、みんなでお出迎えしようね」
カメラマンさんたちってどういう人のことか、ちゃきにはよく分からない。だけど、お出迎えは分かったので元気よくお返事をした。
前にもお兄ちゃんたちをお出迎えして、おもちゃの作り方を教えてもらったことがある。みんなで鬼のお兄ちゃんを追いかけて、新聞紙のマメを投げつけた。
あの日はすごく楽しかったから、今日もきっと楽しくなる。そう思うと、ちゃきのユーウツはどこか遠くへ飛んでいってしまった。
ホールで並んで待っていると、黄色いお兄ちゃんとピンクのお兄ちゃんが入ってきた。ちゃきは、前来たお兄ちゃんたちは「お兄ちゃん」って感じだったけど、今度のお兄ちゃんたちはちょっと違うなと思った。
「みんな、こんにちは。なずなお兄さんだよ。今日はよろしくお願いします」
黄色いお兄ちゃんがぺこっとおじぎをする。お兄ちゃんが顔を上げると、男の子たちはざわついた。きっとまたゆうこ先生のお話をちゃんと聞いていなくて、なずなお兄ちゃんのことをお姉ちゃんだと思ったんだ。でも、ちゃんと聞いていたちゃきだって、あれ、お姉ちゃんだったかなって思ってしまったくらい、なずなお兄ちゃんはかわいかった。
「こんにちは、桜河こはくっち言います。こはくお兄はんて呼んでな」
みんなが静かになるのを待って、いつまで待てばいいのか分からなくなったピンクのお兄ちゃんは、大きな声で挨拶をした。勢いよくおじぎをして、起き上がる。お洋服でトラさんががおがお吠えていたので、ちゃきは思わず二度見してしまった。
「これからお兄はんらがタイトルコール……えっと、なんて言うたら伝わるんやろ?」
こはくお兄ちゃんの言葉はちょっと変わっていて面白い。「ちゃん」とか「さん」とかを「はん」って言うくせがあるんだなと、ちゃきは気がついた。じゃあ、こはくお兄ちゃんが歌ったら「森のくまさん」は「森のくまはん」になるのかな。
「うーん、そうだな……お兄ちゃんたちがこれからカメラに向かって『ぎゅーっとはぐはぐ、ママはぐタイム』って言うから、そしたらみんな、わーって盛り上げてくれるか?」
ぼんやり考え事をしていると、なずなお兄ちゃんが「一度練習してみよう」と言ったので、ちゃきはちょっぴり困ってしまった。これではゆうこ先生のお話を聞いていなかった男の子たちのことを笑えない。
練習があったおかげで、本番はちゃきも一緒に「わーっ」と叫ぶことができた。それからお兄ちゃんたちと鬼ごっこをして、ロンドン橋落ちるをして、お歌を歌った。残念ながら「森のくまさん」じゃなかったけど、楽しかったからまあいいやとちゃきは思った。
全身真っ黒のおじさんが「一旦休憩入ります」と言って、ちゃきたちは初めてお腹が空いていることに気がついた。
年長さんの教室には、こはくお兄ちゃんが来ることになった。机で輪っかを作っていると、ゆうこ先生とお兄ちゃんが歩いてくる。
「ここ、座っても良ぇ?」
こちらにどうぞと案内されてきたのに、こはくお兄ちゃんは反対側のひまりちゃんにも同じことを聞いた。ちゃきのお席じゃないのにどうしてそんなことを聞くのか分からなかったけど、ちゃきは全然イヤじゃなかったから「いいよ」と答えた。それから、もしもちゃきがイヤって答えたら、こはくお兄ちゃんはここには座らないつもりなのかなと考えた。
「おおきに。幼稚園も給食が出るんやね」
コッコッコと不思議な笑い方をするこはくお兄ちゃんを見て、ちゃきはこのお兄ちゃんが好きだなと思った。鬼ごっこでは誰よりかけっこが速くてかっこよかったし、座っていいですか?どうぞ、なんて大人同士のやりとりみたいでうれしかった。
「ぬしはん、お名前は?」
「ぬしはんて、ちゃきのこと?」
知らない言葉を聞き返すと、こはくお兄ちゃんは「あ、堪忍な」と眉毛を下げる。カンニンナもちゃきにはよく分からなかったけど、こはくお兄ちゃんが困っているみたいなので、聞くのはよしておいた。
「ちゃきはんとひまりはん、お遊戯は好きやろか?」
「うん、ひまりお遊戯好き」
お昼を食べたらお遊戯の時間で、その後お兄ちゃんたちは帰ってしまうのだとゆうこ先生が言っていた。こはくお兄ちゃんがお隣にきて忘れていたけど、ちゃきはまたユーウツになっていたことを思い出した。
「ちゃきはんは?」
「ちゃきは……あんまり好きじゃない」
せっかく一緒にお遊戯をしに来てくれたのに、本当のことを言ったら嫌われちゃう。そう思ったけど、ちゃきはなんとなく、このお兄ちゃんに嘘をつきたくなかった。
「ごめんね」
「えっ、なんで謝るん?」
「ちゃき、上手にできないから。こはくお兄ちゃんが教えてくれても、お手手まっすぐにできないの」
みんなで踊るということが、ちゃきはどうにも苦手だった。なんだかものすごく恥ずかしいことをしている気になって、何度先生に直されても腕をぴんと伸ばすことができないでいた。
発表会ともなると、ホールにある目がちゃきには数えきれないほどたくさんに増える。3月の発表会ではママとパパとたつにかっこいいところを見せたかったのに、余計にもじもじしてしまって、さっぱり上手に踊れなかった。だからお遊戯はあんまりどころか、本当は全然好きじゃない。
「ほっか、ぬしはんはお手手まっすぐ伸ばしなさいっち言われるのがなんでか分からんから困っとるんやね」
こはくお兄ちゃんはちゃきが話している間、お箸を持たずに聞いてくれた。ひまりちゃんもおへそを向けて聞いてくれていたけど、途中で落としたグリーンピースを追いかけて行ってしまった。
「コッコッコ。お遊戯の時間になったらこはくお兄はんが教えたるから、よぉ見ときや」
まっすぐにこちらを見るこはくお兄ちゃんの目が優しくて頼もしかったので、ちゃきは心臓がどきどきして、取っておいたミートボールを転がしてしまった。
再びホールに集まると、まずはお兄ちゃんたちがお手本を見せてくれることになった。
お馴染みの体操の音楽が流れて、こはくお兄ちゃんが踊りだす。手をひらひらさせたり、腕を大きく振ったり、お猿さんやわんちゃんの真似をしたり。やりなさいと言われたら泣き出しそうなくらい恥ずかしい振り付けを、こはくお兄ちゃんは楽しそうに踊っている。
腕をぴんと伸ばし、思い切り振って、脚を大きく開く。恥ずかしいことをしているはずのこはくお兄ちゃんが、ご飯の時よりかけっこの時よりずっとかっこよく見えて、目が離せない。今までに見たどんな人よりもきらきらしていた。
最後、腰に手を当てて振り返ったこはくお兄ちゃんが、ちゃきの方を見てニッと笑った気がした。ちゃきは、ぽっぽっとほっぺたとお腹があったかくなって、力が湧いてくるのを感じた。
「じゃあ、みんなで踊ってみようか」
「準備はええか? 腕ぶんぶんして、隣の人と当たらんとこまで広がってや」
音楽が始まって、えいっと脚を開いてみる。昨日まではどうやっても立ったまま動けなかったのに、お兄ちゃんの背中を見ていたらかぱっと開いた。頭のてっぺんまで腕を伸ばしては引き、決めポーズをする。
お猿さんの真似では、前はほっぺたまでしか上がらなかったグーの手が、しっかりおでこの上まで持ち上がった。それでもやっぱり恥ずかしかったけど、ちらっと振り向いたこはくお兄ちゃんが小さく頷いてくれたから、ちゃきは勇気を出してよかったと思った。
「ぬしはんのダンス、かっこよかったで」
お別れの挨拶の時間、こはくお兄ちゃんはちゃきの前に膝をついて褒めてくれた。
「こはくお兄ちゃんみたいにできてた?」
「うん。また腕まっすぐにするの恥ずかしいなっち思ったら、そん時はわしらCrazy:Bのライブを見てや。お母はんがダメっち言うかもしれんけど……わしが先生にお願いしとくわ」
「くれーじーびー」
「おん、覚えといて。わしはCrazy:Bっちゅーとこにおる、アイドルなんじゃ」
分かったと頷くと、こはくお兄ちゃんはにっこり笑って立ち上がる。それから次の子の前に膝をついて、ちゃきには分からないお話を始めた。
くれーじーびー、くれーじーびー。みんなの挨拶が済むまでの間、約束を忘れないように、ちゃきは口の中で何度も繰り返していた。
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