秋麗の候、恋人たちは

 本が好きだ。それは子どもの頃から変わらない、数少ない趣味の一つ。もっとも、趣味と呼べるようになったのは、よほど大人になってからだったかもしれないけれど。

 知りたいことは全て本に書いてあった。雲はなぜ日によって形が違うのか、河岸の不気味な花はなんという名前なのか……母の病はどんなものだったのか。子どもの足で30分のところにあった図書館はそれなりの規模があり、探せばどんな本でも見つかった。父と心を通わせる方法を描いた物語でさえ、掃いて捨てるほど収蔵されていた。その全てに綺麗事ばかりが並べたてられていたおかげで、俺は早々に児童書コーナーに見切りを付けることとなった。

 それでも本はいい。どんな本でもひとたびページをめくれば、意識は本の世界のものとなる。家に漂う息苦しい空気も、頭の悪い同級生たちの陰口も、上っ面だけの好意や同情も、持て余した時間の気の遠くなるような長さにも、心を裂かれずに済んだ。本は数少ない、心強い味方だった。

 待ち合わせまでまだ半刻ある。特にすることもないので、読みかけの推理小説を手にベッドへ腰掛けた。これがなかなか面白く、ちょうど佳境に差し掛かったところだった。

 本を読むのに季節など関係あるものかと思う反面、やはり読書の秋と言うだけのことはあって、この頃は集中しやすいようにも思う。ルームメイトが室内にいても、出て行っても全く気にならない。足下に避けた掛け布団につま先だけ差し込んで、黙々とページをめくる。

 謎が謎を呼んだところで空白のページが挟まって、ハッと意識が戻った。しまった、待ち合わせの時間に遅れてしまう。慌てて本を閉じると、足元にちょこんと桜河が座っていた。

「お、桜河……えっ、今何時……」

 すぐさま時計を確認すると、あれから1時間も経っていた。つまり30分の大遅刻。さすがの桜河も怒っているだろうなと表情を伺うと、やはり憮然とした顔が向けられる。

「鉄虎はんが入って良ぇって言うたから、さっきからお邪魔しとるで」

「ええ、それはもちろん……というより、お待たせしてすみません。すぐに支度します」

 立ち上がろうとする俺を、桜河は手で制してふるふると首を振った。黙って差し出されたスマートフォンを覗き込むと、目的地の喫茶店のアカウントが表示されている。

「本日分終了しました、やって」

「すみません……」

 よりにもよって桜河との待ち合わせをすっぽかしてしまったばかりか、目当ての個数限定モンブランがもうなくなっているという現状。言い訳のしようもなく、どう埋め合わせをしたものか考えていると、桜河がぷっと吹き出した。

「コッコッコ。ぬしはんでも失敗すると動揺するんやね。よう見てみ、それが投稿されたんはわしらの待ち合わせ時間より前じゃ」

 たしかに、改めて見せてもらった画面には14時53分と書かれていた。待ち合わせは15時。

「どのみち今日は縁が無かったっちこと。正直なところ、わしも5分くらい遅れてもたし、あんま気にせんで良ぇよ」

「いえ、5分と30分ではわけが違うと思うのです」

「まあ、ええやん。モンブランはまた今度食べに行こ。最近忙しかったし、わしはぬしはんと過ごせるならカフェやなくても構わんよ」

 桜河は大人びた笑みを浮かべながら、立てたままの膝にこてんともたれかかってくる。

「そうですね、HiMERUも同感です……ですが、今日のお詫びとして今度のモンブランはごちそうさせてくださいね」

「おん。楽しみにしとるで」

 土曜の午後はルームメイトが出払っている。俺は本の続きを読み、桜河はスマートフォンをいじっている。伸ばした膝とお尻が少しだけ触れ合うように座り直した桜河の体温が愛おしい。

「なあ、HiMERUはん」

 従来、本を読んでいる時に話しかけられるのは大嫌いなはずなのに、鼓膜をくすぐる楽しげな声色をうれしく感じる。だいたい「特にやることもないし、そんなに面白いなら」と勧められるまま再開したものの、読書は全くと言って良いほど捗っていない。ページをめくっては戻って、一から読み直している。

「どうしましたか?」

 口から出した声が、思っていたよりも甘やかに響いて驚く。

「ちょっと、一瞬本持ち上げてくれん?」

「こうですか?」

 言われるままに肘を伸ばすと、出来上がった輪にしゅるり、桜河が滑り込んできた。あまりに一瞬の出来事。妙に冷静な脳がどこかの領域で、猫が空き箱に飛び込む動画を思い出している。

「ちょっと、重いんですが」

 口先だけ抗議をしてみたものの、身体にのしかかった桜河の体重に言い知れぬ心地よさを感じている。小刻みに震える背中をぽんと叩く。

「ふふっ、自分でしておいて照れるんですか?」

「や、あの、思ったより顔が近くて」

 腕から出ていこうとする身体を両手で抱きしめて、じたばたと攻防戦を繰り広げる。10秒もしないうちに可笑しくなってきて、顔を見合わせて笑い転げた。

「重くないので、このままここにいてください」

「え、でも本の邪魔やろ?」

「いいから、ここにいて」

 本が邪魔か、桜河が邪魔かの二択となれば圧倒的に前者なのだ。遅刻するほど熱中しておいて、にわかには信じがたいことに。

「桜河」

 解いた腕で軽く腰に触れ、そっと瞼を下ろす。桜河の体重移動に合わせてベッドが軋んで、くちびるが柔らかく合わさった。かと思えば、ちゅ、と小さな音を立てて離れていってしまう。

「み、見られたらどうするん」

 この部屋の事情を知らない桜河は、ぽすっと俺の胸に突っ伏す。紅葉より赤くなった耳。

「桜河、もう一回……」

「あかんて」

 頭を撫でるように髪をすくと、気持ちよさそうにすり寄ってくる。今のこの状態だって人に見られたら相当まずいと思うが、そこまでは思い至っていないらしい。

「なあ、この本読み終わったら貸してくれん?」

「構いませんけど、海外の作家ですから少々癖がありますよ。もっと読みやすいのを見繕いましょうか?」

「ううん、今ぬしはんが読んどるやつが良ぇ」

 もっとぬしはんのことが知りたいんよ。何考えとるんかとか、何が好きなんかとか、もっと知りたい。桜河ははにかみながらそう言って、「あ、嫌ならもちろん良ぇで」と付け足した。嫌なはずがない。

「では、そうしましょう。読み終わったら感想を聞かせてくださいね」

「うん」

「それから、桜河の好きな本も良ければ貸してください」

 俺も桜河のことがもっと知りたい。心を砕いて向き合いたい。こんな気持ちは、本を読むだけでは分かり得なかった。

「おん、良ぇよ」

 ようやく羞恥心が落ち着いたらしい桜河が伸び上がって、俺の頬にくちびるをつける。そしてまた真っ赤になって突っ伏してしまった。ただ持っているだけになった本をチェストに置き、隙だらけの脇腹をくすぐる。

「あはっ、ちょ、やめ、HiMERUはん!」

「やめてほしかったらもう一度キスしてください」

「わかった、する! するから!」

 笑い過ぎて息が上がった桜河とキスをする。まだ16歳のかわいい恋人は、くちびるが触れ合うだけのキスで満足らしい。

 特別な人と過ごせば、特別なことをしていなくても特別な時間になるのだと、遠い昔に読んだ児童書に書かれていたのをふと思い出した。当時は鼻で笑ったものだが、今なら分かる気がする。あの本は何という題だったか……もう一度読んでみるのもいいかもしれない。読書の秋はまだ始まったばかりなのだから。

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