陽だまりのベンチに桜河と2人、並んで掛けている。見上げれば空は青く澄んでいて、やわらかな風が髪を揺らす。春の風は青く、甘く、ほんのり湿った土の匂いがする。
深く深く吸い込んで、吐く。背もたれに身体を預けると、じんわりと熱が伝わる。古びた木製の長椅子は、太陽の熱をいっぱいにため込んでいて、目を閉じればまどろんでしまいそうになる。
すーっと抜けていきそうな意識を捕まえて、だだっ広い原っぱを眺めている。風にさんざめく木々は絶えず緑の濃淡を変え、きらきらと光る。
すぐ側でざりっ、ざりっと音がして、見れば桜河が赤土を蹴って遊んでいる。きゅっと結んだ口、微かに膨らんだ頬。尻に手のひらを差し込んでいるおかげで肩が怒っている。
手持ち無沙汰なのか、何か桜河なりの目的があるのか。妙に真剣な横顔を、白かったはずのつま先を、黙ってじっと見守る。
おそらくは前者だろう。桜河の右足は一定のテンポで地面を擦るけれど、何かを掘り出したり、かき分けたりする意思は感じられない。ざりっ、ざりっ。環境によってはノイズとも取れるような音が、どういうわけか耳に心地よく響く。
知らず、次を待っている自分に気付いたころ、音はぱたりと止んでしまった。見とったんかい、とでも言いたげな目とちろり、目が合って逸れる。ふいとそっぽを向いた桜河の頬がうっすら色づいている。
視線や気配に敏感な桜河が、まさか気付いていなかったのか。気恥ずかしさが伝染したような気がして、咳払いを一つする。桜河にしてみれば、子どもじみた振る舞いを見られてきまりが悪いのだろうが、そんな桜河を盗み見ていた俺の方が余程どうかしている。
人の裏や醜さを十分知っているはずのこの子が、こうして無邪気に見せてくれる隙や無防備は、決まって俺をなんとも言えない気分にさせる。いくらでも避けようはあるだろうに、心のやわらかい部分に手を伸ばすことを、触れることを許されている。信頼されている。俺はそんな桜河にも本当の「俺」を見せずにいるのに。泣きたくなるほど激しくかき乱すくせに、ほんのり温かい。春の嵐のような感情の渦。
何か話した方がいい気がするのに、うまく言葉が出てこない。何を言いたいのかもよく分からない。口には出来ない思いが喉の奥に詰まっていて、黙ったまま、風に騒ぐ葉の音を聞いている。
ちょん。右手の小指に温かいものが触れる。見ると、桜河の手が寄り添うように置かれている。
甲にくっきりと刻まれたポケットの縫い目。指先でなぞると、皮膚の凹凸や骨、細い血管がぷっくりと盛り上がっているのをはっきり感じられる。
つばを飲む音がいやに生々しく聞こえた気がして、はっと我に返る。満たしてはいけない欲望が喉を介して、キュウと渇きを訴える。
振り切って放した指はけれど、するりと捕まってしまう。たどたどしくつながれた手はベンチよりもずっとぽかぽかと温かい。少し汗ばんでいて力のこもる、生命力そのものみたいな手に包まれて、束の間、いつも握っている痩せた手を――握り返してくることもほとんどない、ひんやりと薄く青白い手を思う。
赤茶けたスニーカーの先に、開きかけのタンポポが2輪、並んで風にそよいでいる。遠くでウグイスが鳴いている。ホーケキョッキョ……ケキョッ。その下手くそなさえずりに耐えきれず、桜河がうくくと笑い出す。
「これを聞くと、春が来るなっち思うわ」
「ふふ、そうですね」
たった今まで、ウグイスのさえずりなんて気にしたことすらなかったのに、桜河が言うとすとんと胸に落ちてくる。ずっと前からそう感じていたように思える。
「庭にウグイスが来ると、座敷牢にも聞こえてくるんよ。頑張れっち思ってずっと聞いてると、どんな下手っぴでも春が来るころにはホーホケキョっち鳴けるようになるんじゃ」
桜河は伏し目がちに笑って、もぞもぞと手をつなぎ直す。きゅっと力が加わるたび、甘い痺れが全身に、波のように広がる。
心は今にもとろけてしまいそうなのに、どこか冷静な頭がずっと、妙なデジャブを感じている。前にも、桜河と同じやりとりをした気がする。
「レッスンが要るのは、ウグイスも人間も変わりませんね」
まだ考えているのに、口が勝手に答えている。まるで、そう返すことが初めから決まっていたかのように。
レッスン。そういえば、この後はどうする予定だっただろう。HiMERUが仕事の予定を忘れるはずはないが、そもそも今日は何日で、なぜここへ来たのか、さっぱり思い出せないことに今さら思い至る。予定がないのなら、要のところへ行かなくては。そろそろ寝間着を替えてやりたいと思っていたのに、あまりゆっくりしていると面会時間が終わってしまう。
「桜河」
手を放そうと声をかけた矢先、ぽてんと肩に重石が乗る。風が、やわらかな髪が頬をくすぐる。ぎゅっと手を握られて、かかった力の分だけ強く、心臓が収縮する。
「どこ行くつもりなん」
甘えたような、すねたような声が肩に響く。
「まだ、ここにおってや」
俺だってここに、桜河の側にいたい。なのに言い知れない焦燥感が胸を焼く。要のところへ行かなくてはならない――でも、それは何故? 本当は、自分だけ幸せでいるのが後ろめたくて、苦しくて、だからここから逃げだそうとしているのかもしれない。
「桜河、でも」
だからこそ、行かなければならない。弟には俺しかいないのだから。決意とは裏腹に、引かれたままの後ろ髪と手を振り切るため、とにかく立ち上がる。
「行ってしまうん?」
一度だけ軽く手を引かれて、見つめ合う。目を見てはいけないと分かっていたのに。
目は口ほどに物を言う。桜河は「わしがHiMERUはんにここにおってほしい」のだと、そう振る舞っておきながら、目では「『ぬしはん』は、ここにいたいんやろ」と。「それの何があかんの」と、穏やかに俺に問いかける。
答えを探していると、不意に、懐かしい笑い声が鼓膜を揺らした。
弾かれたように振り返ると、草原に要が立っている。叫ぶこともなく、暴れることもなく、自分の足で立って、日の光を浴びている。
「お兄ちゃん!」
呆然と立ち尽くしていると、こちらに気付いた要が大きく手を振る。
なぜここに、いや、まずいつ目覚めたんだ。身体は大丈夫なのか、医者は知っているのか。次から次へと湧いてくる不可解に目が回る。桜河に促されるままベンチに戻り、目を閉じる。
大きく深呼吸をして顔を上げると、いつの間に来たのか、天城と椎名が要の傍らに立っている。乱暴に頭を撫でる天城にじたばたと反抗しながら、要は
「メルメルではありません、HiMERUです」
と言い放つ。
「まったく、天城のせいで髪がぐちゃぐちゃなのです」
むくれた顔で頭を撫で付けるくせに、堪えきれないというふうに笑い出す。最後に見たのはいつだったかも思い出せない、あどけない笑顔。
メルメル、HiMERUくんと要が呼ばれる姿を見ていると、足元がガラガラと崩れ落ちていくような感覚に陥る。座っているのにめまいが止まず、傾いた身体を桜河が支えてくれる。
要がHiMERUで、HiMERUは、俺は――混乱する頭で1本1本、こんがらがった糸を解く。でも、本当はとっくに気付いていた。だって俺は桜河の手の温もりを知らない。知る由もない。全て夢だと分かっていて、わざと目を瞑っていた。
陽光を全身に浴びて仲間たちと楽しそうに笑う要を見ていると、これが現実だったらどんなにいいかと考えてしまう。このまま目が覚めなければいいのに。起きるのが怖いとさえ感じる。要も同じなのかもしれない。
起きなくては。このまま、俺までもが夢の世界の住民になってしまったら、誰が弟の目覚めを待つのだろう。
「どうしたん? 何や、疲れたりしとるんか?」
心配そうに俺を見上げる桜河の手を引いて、そっと、頬を合わせるだけの挨拶をする。夢の中ではきっと、桜河は何をしても受け入れてくれる。それが分かっていて、キスなんてできるはずがなかった。
A4のアンケート用紙をすらすらと埋めていく。初デートに行くなら、得意教科は、起きて最初にすることは――コーヒーの銘柄を決めること。続く言葉を考えながら、小さくあくびを噛み殺す。
胸元のシャツを握りしめること。浅い呼吸を繰り返し、失った痛みをやり過ごすこと。夜更かしのあの子からメールが来ていないか確かめて、胸骨に爪を立てること。それが本当の、「俺」のモーニングルーティン。
夢を見る。夜ごと、温かな日々を夢に見る。失った物や捨て去った物、手に入るはずのないもの。全てに手が届くささやかな幸せを夢に見る。
これ以上ないほど満ち足りているのに、必ずアラームより先に目が覚める。薄暗い部屋で、寝不足の頭で、自分が「誰」かを思い出す。紛い物の幸福感を身体から掻き出して爪を立て、痛む輪郭を確かめる。曖昧になった境界を引き直して、HiMERUの仮面を被り直すために。
いっそ、全て失うのならまだいい。偽りの記憶は、目覚めた時にはおぼろげで、ルームメイトと挨拶を交わす頃にはもう、思い出そうとしても思い出せないほど遠くへ押し流されている。
いつもいつも、感触だけが消えない。触れ合った手に、頬に。現実には感じたことのない温もりが、いつまでもやさしく残る。
叶わない夢なら見たくはない。満たされることさえ知らなければ、きっと俺は平気でいられる。未だ目覚めない弟を一人待つことも、自分を殺すことも――一方で、弟が目覚めれば居心地良く整えた巣を明け渡さなければならないことも、「俺」を探るような目に惹かれてやまないことも――何も、何も苦しくはなかったのに。
悪夢を見ないようにする方法は調べればいくらでも出てくる。学術的な論文からまじないのようなものまで、枚挙にいとまがない。にもかかわらず、幸せな夢を見ないようにする方法を調べると、幸せな夢を見る方法ばかりが表示される。
当然だと思う。幸せな夢を見るために悪魔の甘言に乗るような寓話があるくらいだ。せめて夢の中でくらいは報われたいというのが人の常なんだろう。
かの有名な心理学者は、夢は願望の表れだと説いた。それが真実ならば、俺は「Crazy:BのHiMERU」でいたいんだろう。要が目覚めることを切に望みながら、HiMERUではない自分が誰なのか分からなくなるほど、HiMERUでいることを求めている。
そのくせ「俺」はここにいるのだと、心が静かに叫んでいる。「俺」は「俺」としてあの子に愛されたいと、惨めなほど強く願っている。あの子ならHiMERUごと、張りぼての内にいる俺まで愛してくれるかもしれないと思っていた。それが願いにすり替わったのはいつだったんだろう。
考えたって仕方がない。答えなんて出すつもりは毛頭ないのだから。
鳴りだしたアラームを止めて、ベッドから起き上がる。ルームメイトと挨拶を交わし、身支度を調えて、コーヒーを淹れる。
この頃、マンデリンばかり飲んでいる。酸味のきいた苦いコーヒーで甘やかな夢を中和して、なんでもない今日を始めるために。
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