午後1時:これからの話

 ▼こはく

  HiMERUはんが作ってきてくれた素うどんを両手で抱き、もちゃもちゃと咀嚼する。皿に1本取り分けてもらった冷凍うどんはしっかり捕まえていないとつるつる滑ってのたうち回り、食べにくいことこの上ない。この食べ方ではつゆを口に含めないどころか、薄茶色に染まった4面が一度に口に入らないので小麦粉の風味が異様に強い。ときどきうどんを解放し、レンゲに分けてもらったつゆを屈み込んですすりながら、少しずつ食べ進める。

 持て余していた蕎麦気分はめんつゆで少しは落ち着いたものの、予定通り出かけられなかった残念さは今ひとつ拭えない。

「今更やけど、蕎麦食べに行こっち約束守れんくてごめんな」

 HiMERUはんも蕎麦気分で楽しみにしていたかもしれないと思うと申し訳なくて、つゆだくの顔を拭って謝る。HiMERUはんはティッシュでするっとわしの顔を撫でると、

「桜河が連絡をくれたおかげで待ちぼうけをせずに済みましたし、気にせずとも大丈夫ですよ。蕎麦は桜河が無事もとの姿に戻ることができたら、お祝いにHiMERUがご馳走しましょう」

 と言って微笑んだ。

 1本の半分も平らげられずに合掌して、べちゃべちゃに濡れた上半身をおしぼりに擦りつける。残したうどんはHiMERUはんの箸がひょいと摘まんで、ちゅるんとくちびるの中に吸われて消えた。

 訳の分からない事態に陥っていてもお腹は空くし、寝起きの顔を洗うとさっぱりする。

 昼食を調達しに行ったHiMERUはんは、わしのためにあれやこれやと気を利かせ、日用品として使えそうなものをかき集めてきてくれた。

 歯ブラシの代用品だけは思いつかなかったと言って持ってきてくれた液体歯磨きは、ミントの臭いが強烈で、顔を近づけるだけで目が痛かったけど、耐えて良かった。まだ一度もお世話になったことがないのに、歯医者にはなんとなく苦手意識がある。

 濡れたティッシュを引っぺがしたつま先までおしぼりで拭いて、さてと立ち上がる。足もとには大量の服が散乱している。

 わしらを模してつくったぬいぐるみが人気なのだとラブはんに聞いた記憶がある。もらった試作品を話の流れで譲ってしまったのですっかり忘れていたけれど、HiMERUはんはそれなりに大事にしているらしい。おかげで新作の洋服が発売されるたびにサンプルをもらうとかで、ありったけを持ってきてくれた。

 いかんせん、ぬいぐるみ用なので腰回りがガバガバだったり、襟ぐりがだるんだるんだったりして、なかなか身体に合う服がない。着てはずり落ちてはを繰り返し、最終的にトレーニングウェアに落ち着いた。ズボンの紐をぎちぎちに縛り、ジャージのジッパーを上まで上げるとなんとか着ることができた。

「ふふ、よく似合うのです」

 頬杖をついたHiMERUはんがニコニコ、やけにうれしそうにしている。

「なんやえらい楽しそうやな。言うとくけど、わしは着せ替え人形と違うで」

 HiMERUはんが思いついてくれなければ、いつまでもティッシュの腰蓑で過ごす羽目になっていた。あんな情けない姿より、多少サイズが合わなかろうが洋服を着ていた方が落ち着く。だからこれくらいのことでムッとするわけではないけれど、念のために釘を刺しておく。なんとなく、目の前にいるのが良くないときのHiMERUはんのような気がした。

「ええ、もちろん分かっていますよ。桜河はHiMERUたちと同じ人間なのです」

「おん……まあ、そうなんやけどな」

 本当に分かっとるんかこの人はと苦笑いして、差し出された手のひらに乗る。この身体になってからまだそう時間は経っていないのに、HiMERUはんの手に乗って移動するのが当たり前のようになってきてしまった。

「さて、これからどうしましょうか」

 話しやすいようにしてくれているのか、目線の高さをそろえてHiMERUはんが問いかける。食器を洗った後、ハンドクリームを塗ったらしい。足もとからうっすら、花のような果物のような匂いが漂っている。

「ぬしはん、午後は用事あるっち言ってなかったっけ」

 昨夜お誘いのメッセージをもらったとき、だから駅で解散したいのだと書かれていた。

「あれならわしをシナモン……いや、ニキはんとこやと手羽先とかと間違えてうっかり食べられてしまいかねんか。えっと、この姿やったらパチンコ屋に入っても咎められんやろうし、送ってくれるなら燐音はんとこにでも行くけど」

 あいつのことや、小さくなったわしを見たらこれ幸いとばかりに何らかの悪事に荷担させてくる気がせんでもないけど、他に寄る辺もない。浮かぶ顔といえば、それこそわしをお人形はんみたいにしてキャッキャしそうなのがいくつかと、尻ででもうっかり踏んで潰しそうな大男。どう考えても面倒なことになりそうなので、できればこんな姿は見せずにおきたい。

 それに全容は分からないままにせよ、天城村とやらの技術力は相当なものらしい。燐音はんに任せれば、なんらかの力でもとの姿に戻してもらえるかもしれないという期待も持てる。

 あれ、でも村に入るには村の誰かと結婚せなあかんとか言うとったな。それはちょっと、姉はんらに知れたらえらい騒ぎになるかもしれん――すっかり燐音はんのところへ行くつもりになって考えを巡らせていると、HiMERUはんがうーんと小さく唸っているのに気がついた。

「どしたん、なんぞ問題でもある? あ、そうか。HiMERUはんもパチンコ屋の前に立ってるところ見られるとまずいんか」

「いえ、それはまあ何とでもなると思いますが……」

 せっかく目線をそろえているのに、HiMERUはんは目を伏せてじっと押し黙ってしまう。小さくなったわしの親指から小指ほどもある長い睫毛が頬に影を落とす。同じ夏を並んで越えたはずなのに、HiMERUはんの顔は嫌というほど見ていた春先と変わらず白い。

「その、HiMERUがこれから行く先は病院なのです」

「ああ、さよか」

 わざわざ口にしないまでも、弟はんのお見舞いだと分かった。なにもそんな絞り出すようにしてまで言わずとも、わしのことなんて気にせず置いて行ってくれればいいのに、難儀な人やな。

「ほな道中悪いけど、頼んでも良ぇやろか」

 落ちたままの視線を拾うように、覗き込んで尋ねてみる。わしの方は大丈夫――安心させたくてにこっと笑ってみせると、HiMERUはんは反対に、思い詰めたような表情に変わった。

「あの、桜河」

「ん?」

「その、良ければ、HiMERUと一緒に行きませんか」

「ほへ?」

 予想だにしない提案に、首が勝手に傾いてしまう。斜め45度から見上げるHiMERUはんは再び俯いて、早口で話し始める。

「HiMERUには何が起きているのか分かりませんでしたが、人体のことです。医者の意見を仰いでみれば何か分かるのではないかと……いえ、UMAつまり未確認生物のような扱いを受けないとも限らないので直接診せるべきかどうかは悩むところですが、HiMERUについている医者は以前にも好感度……・こういった訳の分からない症状の治療法を言い当てたことがあります。少なくともパチンコ屋やシナモンにいるよりは、HiMERUに付いて来た方が何らかの手がかりを得られる可能性が高いと思うのです」

 一息にわーっとまくし立てたと思ったら、そっとテーブルの上に下ろされる。落ちたままの視線とようやく目が合った。さっきとはまた違う、変な顔をしているような気がする。

「お医者はんに聞いてもらえるのはそら有り難いけど……その、良ぇんか?」

 顔はさておいても、弟はんのいる病院に一緒に行こうだなんてあまりにも突拍子ない提案に、「変」を確信する。PBBの騒動で、Crazy:B内ではある程度明るみに出てしまったとはいえ、弟はんのことはわしらにも隠しておきたかった秘密のはず。なのに、自らわしを近づけようなんてどういう風の吹き回しなのか。

 困惑して見つめ返すと、HiMERUはんの方も今更になって戸惑うような表情を浮かべている。自分でもどうしてそんなことを言ってしまったのか分かっていないのかもしれない。

 気にせんと撤回してくれれば良ぇよ――せっかく言ってくれたのに断るのも忍びなく、そう言おうか迷って、撤回を提案するのも悪いかと思い直す。人差し指と親指の付け根にそっともたれかかると、さっきまで温かかった手は冷や水に浸けたみたいに冷たくて、触れた腕からふくらはぎから、心臓がびくっと震えた。

 HiMERUはんがこんなことを言い出すからには何かしら理由があるんだろうが、全くもって見当も付かない。けれどなんとなく、病院へ行くのはわしのためというよりHiMERUはんのためという側面が強いような気がした。

 ただ医者に話を聞くだけなら、HiMERUはんが1人で行ったってわしを連れて行ったって変わらない。むしろ弟はんのことが余計に知られたり、わしを運搬したり、余計なリスクが降りかかる。けれど、HiMERUはんの口ぶりではなんとかしてわしを病院に連れて行きたいみたいだった。

 それが何故なのかは分からないけれど、もしかしたらHiMERUはんはわしに付いて来てほしいのかもしれない。そう思うと、すとんと腑に落ちる部分があった。

「えっと、ほな、連れて行ってもらおかな」

 人の心配をしている場合ではないが、かといって他にやるべきことも見つからない。燐音はんにはどうせ夜にでも会うだろう。だったらHiMERUはんの言うとおり、医者の意見を仰いでみるのも一案だと思う。ついでにHiMERUはんの曇りも晴れるなら、それに越したことはない。

 ぺちんと手の甲を叩くと、HiMERUはんは安心したように笑って、黙ったまま反対の手のひらを差し出してきた。流石アイドルと言うべきか、仕草は様になっているのに、親の背中を見つけた迷子のような顔をして笑っている。

「よろしく頼んます」

「ええ、どうぞ」

 HiMERUはんの胸ポケットに滑り込むと、優しい匂いが鼻をくすぐった。柔軟剤なのか香水なのか、HiMERUはんのタオルを借りたときと同じ、良い香りで肺が満ちる。

「苦しくはないですか?」

「うん。まあ居心地が良いとは言えんけど、問題ないで」

「ふふ、良かったです。では行きましょうか」

 HiMERUはんはんが立ち上がる弾みにポケットが乱高下して一瞬、昼食が出そうになった。なんとか持ち直して、とほほとため息をつく。先が思いやられるが幸い、Crazy:Bで逆バンジーを飛ばされたときにHiMERUはんが言っていたとおり、どうもわしは三半規管が強いらしい。

「念のために桜河のスマホと、あと、何か問題が起きたときにHiMERUに知らせるツールが要りますね」

 何か1人でぶつぶつ言っていると思ったらポケットが開いて、ヘアピンを渡された。困ったことがあったらこれで突けばいいらしい。

 星奏館を出ると、ポケットにいても少しだけ風を感じる。よじ登って頭を出すと、HiMERUはんが気付いて微笑んだ。

 見慣れた光景のはずなのに、ただ大きいだけで全てが新鮮に映る。1年半の間にずいぶん表の世界にも慣れたもんやなとしみじみ実感して、誇らしさにふふんと笑みが漏れる。

 単にわしが小さいからか、はたまたHiMERUはんの脚が長いからなのか、座敷牢でさんざん見ていたストリートビューのようにびゅんびゅん景色が流れていく。

 あっという間に中庭を突っ切って、門が近づいてきたところで、慌ててポケットの中に引っ込んだ。犬を連れた大神はんが立っている。

 いつもなら可愛らしいなと思ってしばらく見させてもらうこともあるけど、今日ばかりはそんな余裕はない。あんなのに追いかけ回されでもしたら、流石のわしもひとたまりもない。万が一食われでもしたら、本当に一寸法師になってしまう。そんなことになったら犬も可哀想で、触らぬ神に祟りなしと気配を消してやり過ごす。

 HiMERUはんが挨拶を交わすのを聞いて、しばらくすると靴の音が変わった。そろりと鼻先まで伸び上がってみると、信じられないくらいビルが高い。道行く車が大きい上に速く、あまりの喧噪に目が回る。

 都会のネズミやら野良猫は大変やな。妙な同情をしてしまって、そういえばいつか助けた木から降りられなくなった猫は元気だろうかと思い出す。あれ以来見かけていないけれど、あんな簡単に登れる木から降りられないなんて、あの猫は都会だろうが田舎だろうが関係なく苦労しそうや。

 どうでもいいことを考えていると、適度な揺れも相まって、だんだんと眠くなってくる。身体が小さい分、疲れやすくなってしまっているのかもしれない。

 寝て起きたら小さくなっていたわけなので、もしかして、寝て起きたらもとに戻ってないやろか。そうなるとわしは素っ裸で街に放り出されて、HiMERUはんのポケットも裂けてしまうことになるかもしれないけど、なりふり構ってはいられない。そういえばこのシャツはわしと出かけたときに買っていた。せっかくよく似合っているのにHiMERUはんには悪いけれど、それでもいいから元に戻りたい。

 うとうとしながら考えていると、段々と身体が沈んでいく感覚がする。ああ、電車に乗るんかな――それだけ思って、もう支えきれない瞼を閉じる。薄れていく意識の隅っこで、ピピッと改札が開く音を聞いた。

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