無声慟哭

 だから何だと言うのか。口から息を吐き出して、浴槽にもたれかかる。軽くうねった湯がちゃぷんと鳴る。ほんの小さな音なのに、空っぽの胸にはよく響いた。

 肩まで浸かると一瞬、温かいような気がした。すっかり冷えた湯はかえって体温を奪い、底の方は温水とすら呼べないほど冷たい。いったい何時間こうしていたんだろう。身体は冷え切り、指先はふやけている。しわしわの手で目元を拭い、深呼吸を繰り返す。

 知りたくなかった事実を知ってしまったからといって、何が変わるわけでもない。知ろうが知るまいが、俺にはどうすることもできない。だから動じる必要などない……頭では分かっている。なのに、吐き出しても吐き出しても、胸に黒い靄が湧く。とぐろを巻く。

「えーっ! こはくっち、好きな人いるのぉ!?」

 白鳥の声が蘇る。共有ルームの前を通りかかった時、悲鳴まじりの歓声が耳に飛び込んできた。その一言一句が焼き付いて離れない。

 逃げるようにその場を立ち去った。だから、白鳥の話し相手が桜河だったのかどうかすら知らない。予定通りキッチンへ向かったはずだが、何を食べたのか、誰がいたのかさっぱり思い出せない。気付いたら自室のベッドに座っていた。

 馬鹿馬鹿しい。今さら何を傷ついているのかと、自分の辛気臭さに腹が立つ。想いが成就しないことを失恋と呼ぶのなら、自覚した瞬間からそうだった。桜河が誰を想っていようが、俺には関係ない。ユニットメンバー、かわいい後輩……友人と呼べるかすら曖昧な俺には関係しようがない。想いが露見することを恐れて指も咥えず、ただ見ているだけ。

 栓を抜いて立ち上がる。戸を開け、濡れた手でスマートフォンを掴む。吹き込む冷気に身体が震える。16時47分……同室の2人はまだ帰ってこない。ホールハンズにメッセージが届いている。天城から麻雀の誘い。見なかったことにして端末を放った。

 桜河は行くだろうか。熱いシャワーを浴びれば少しはスッキリすると思ったのに、結局思考は振り出しに戻る。できれば、今日は会いたくない。目敏いあの子から動揺を隠し通せる自信がない。目を合わせて上手に笑える気がしない。

 排水溝がコポコポと音を立て、浴槽が空になる。抱えた水槽いっぱいの、今にも溢れ出してしまいそうなこの惨めな恋心も、栓を抜いて流すことができたらどんなに良いだろう。こんなことでいつまでもじくじく痛む心ごと、取り出して捨ててしまえればいいのに。

 べつに、桜河が俺のことを想ってくれるなんて有り得ない幻想に酔っていたわけではない。むしろ積極的に否定しては心に爪を立て、傷を広げて、こんな日に備えていたのに。

 桜河の心が俺のものになるはずがない。そんなことは初めから分かっている。でも、他の誰かのものになるなんて、そういえば考えたことがなかった。期待なんてしていなかったはずなのに、どうして絶望に打ちひしがれているんだろう。かわいい桜河。俺のことなんて見てくれなくていい。せめて……せめて、誰のものにもならないでほしかった。ただそれだけでよかったのに。

 シャワーを止め、髪と顔を軽く拭って浴室を出る。体調が優れないことにして、当たり障りなく逃れよう。本当ならキツめの酒でも煽ってさっさと寝てしまいたいのに、何が悲しくて麻雀など。着替えてスマホを開くと、新着メッセージが表示された。

「シナモン行く? ぬしはんが行くならわしも行こかな」

 息が詰まって、親指でそっとアイコンを押す。2人で出掛けた商店街にいた、ぶさいくな野良猫。腹が櫛団子のような柄だった。桜河はあまり写真を撮らない。他に適当なものがなかったから選んだのだとしても、俺にとっては特別な意味があった。

 「HiMERUはやめておきます」。打っては消して、また打つ。矛盾する心。会いたい。爪痕だらけのひしゃげた心を慰めてくれるのもまた、桜河しかいない。

「桜河が行くのなら、行ってもいいです」

「ん、一緒に行こ。寮におる?」

「はい」

「ほな18時20分くらいに玄関で」

 履き替えたジーンズにスマホをしまい、髪を乾かす。軽く充血した目に目薬をさして、化粧を施していく。鏡の中、出来上がっていくHiMERUの顔を見つめて唱える。大丈夫、こんなのはなんでもない。俺はHiMERUで、HiMERUは完璧なアイドルで、完璧なアイドルは恋なんてしない。

「特にHiMERUは、古いタイプのアイドルですから」

 声は震えていない。穏やかなHiMERUの声色。上着を羽織って、香水をつける。時刻は18時05分。イヤーカフ、指輪をつけ、バッグを掴む。部屋を出る直前、ミラーを振り返る。写っているのがHiMERUであることを確認して、明かりを消した。

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