ささくれ

 遮二無二走ったら、見知った場所へ行き着いた。汗ばむ腕に貼りつく風は鬱蒼として重く、不愉快なまでに甘ったるい。弾む呼吸、心臓さえもが疎ましく、かなぐり捨てるようにタオルを抜く。擦れたうなじがチリッと痛んで、この世の全てに腹が立つ。

 昼間上った血は夜になっても降りてこず、頭で膨れ上がっていた。怒り心頭に発すとはまさにこのことで、ともすれば血管の一本や二本、簡単にはち切れそうな程激しく身体を突き上げる。HiMERUにはそぐわない感情が、決して口には出せない言葉の群れが、腹で煮え立ちとぐろを巻く。

 微笑んでいても歯がきしむ。目が据わる。夢や希望を振りまく「アイドル」と怒りや悲しみは、基本的に相性が悪い。今晩のうちに処理しなくては明日の撮影に差し障る。

 気を紛らわそうと鳴上さんにハーブティーを分けてもらい、宵の口から本を開いた。真っ白になった頭には当然、文字など一つも入ってこない。そんな状態の人間を相手に、カモミールもラベンダーも為す術はなかった。

 押し込めた憂さの晴らし方が分からない。HiMERUである以上、思うまま罵ることなどできはしない。暴食に耽ることも、夜道を飛ばすことも、くちびるの皮を剥ぐこともできない。考えあぐねて走りに出た。というよりはもう、考えることすら煩わしかった。

 PBBとして引っ張りだこだった間はロードワークもまともにこなせていなかった。軽く慣らすつもりで寮を出たのに、知らぬ間に随分遠くまで来てしまった。クチナシが茂る生け垣を抜け、芝生を進むと並木の奥に病院が見える。

 息を整えつつ、クールダウン代わりに今さらストレッチをして、手近なベンチに腰掛ける。深く吸って吐けば、しじまに響く虫の声。夜は夜で賑やかなのに、昼間とはまるで表情が違う。

 吸って、吐いて。繰り返すうち、親指で親指を撫でる自分に気がついた。ささくれなどHiMERUの手にあるはずがないのに、無意識のうちに探している。ぴっと毟り取るかつてのくせ。

 親指を握り込んで、下くちびるを軽く噛む。脈拍はとっくに落ち着いているはずなのに、呼吸はいつまで経っても荒いまま。揺れる前髪をかき上げて、頭からタオルを被る。

 招かれざる客、お邪魔虫、目の上のこぶ――というのは慣用句として用いているのであって位置は定かでないが――三毛縞斑。アイドルとしてのキャリアで言えば当然HiMERUの「上」なのだが、未だ先輩と呼んだことはない。直接言葉を交わしたのも、おそらく今日が初めてだった。

 人の職場に真っ昼間から集い、ときに麻雀を打ちながら話し合う。ユニット会議とは名ばかりで、十中八九が与太話。分かっていても号令に応じて「渋々」顔を出す。そんな、ようやく落ち着きを取り戻しつつある日常がぶち壊されたのは、昼食を待っていたときだった。

 厨房から漂う焼けたチーズの香り。きゅうと鳴いた腹の主と目配せをして、わざとらしくため息をついた。椎名が揃うまでは2対1。後の祭りとはいえ、4pieceの件は一度、天城を問いただしておく必要があった。座順通りの勢力図で、桜河が口を開けばすかさずHiMERUが加勢するいつもの算段。

 実際、PBBの仕事とオーディションの掛け持ちなど不可能に違いなく、PBBとして活動することを選んだのは俺自身に他ならない。突き詰めるなら、桜河が参加できなかった責任の一端は俺にもあるのだろうが、鶏が先か卵が先かを論じたところで意味はない。一緒になって眉を下げ、呆れた顔を作ってみせた。

 梅雨明けはまだらしいが、外は爽やかな五月晴れ。空腹を満たしたら午後は桜河と買い物に出てもいい。珍しく素直に謝る天城をいぶかしみながら、どこか浮き足立ってしまっていた。ピザを持つ椎名の背にたたずむ影を見るまでは。

 湯気を、途中からは冷めたピーマンを眺めていた。アポイント無しで現れただけでも迷惑極まりないというのに、明らかに飯時のテーブルで始められた「尋問」。了承した覚えはないのに勝手に「証人」とやらにされ、持って回った言い回しで天城が俎上に上げられた。

 天城はナイスPと旧知の仲である――得た情報自体は悪くないにしても、とかく全てが気に食わなかった。無断でショーを始める厚かましさ。迷惑がる空気を気にも留めない図太さも。何より、急襲して天城対その他に絵図を描きかえる手慣れたやり口。

 桜河はCrazy:Bにこそあるべきだという顔をしておきながら、桜河を当てにずかずかと巣に上がり込む。その神経が分からない。

 律儀な桜河はできるだけ手を止め、話者の顔を見る。隣に掛けていても、終始黙する俺には目もくれず、身体を捩って伸び上がっていた。いつも豪快に開かれたデニムの膝が閉じ、座面にずり上がりそうなほど懸命に。

 用が済んだらさっさと帰ればいいものを、いたずらに話を長引かせる天城と椎名にも腹が立った。くだらない無駄口を叩く隙を与えるからつけ上がり、いっそう余計な口をきく。

 つっけんどんな態度をとっていても、桜河が三毛縞との掛け合いを楽しんでいることくらい分かる。相槌のたび、ふわふわと揺れる後ろ髪。ころころと声が裏返る、ご機嫌なときのかわいいくせが今日はどうにも耳についた。

 無遠慮な言葉の応酬が張りぼての隙間から垂れ、炙るように皮膚を溶かした。ぶっきらぼうな口調に込められた気安さや甘えもじくじく、膿んだ傷口に染みた。

 早く帰れ。猫だなんだとふざけた茶番を見せられながら、心の底からそう思った。何一つとして面白くなかった。刻一刻と冷めていく昼食、会話を目的とした会話、返す返す重なる視線。思わずふんと鼻を鳴らせば、胸の辺りがぽかんと響いた。

 そんなはずはないと分かっているのに、当てつけかと思わずにはいられない。表と裏、二つの顔でつながっているとかいう桜河と三毛縞。背中を預けるどころか、顔を合わせることさえ拒ませるほどにあの子を縛って苦しめた俺。泡沫のこととはいえ、2人ユニットとして活動しても俺たちは「相棒」にはなれなかった。

 桜河と「家族」になりたかった。もっと深いところでつながった、特別な関係になりたかった。友人にハテナがついたあのころから状況は何も変わらないのに、何度求められても本当の「俺」を晒すことなどできはしないのに、あの子の心がほしかった。

 目障りでたまらない。どれほど共にいようが、俺が「HiMERU」でいる限り一定以上の関係にはなれないのだと知らしめてくる存在が。俺が欲しくてたまらなかったものを手にしておきながら、一人で無理を押す傲慢さが。癇に障って仕方がない。

 苛立ちがピークに達したところで、ようやく散会を促した天城に賛同した。HiMERUとして、沈黙の次に正しいであろう言葉を並べ立てて。

 口を開くと桜河の目が向いて、一瞬ふっと気が和らいだ。そういえば桜河は空腹を訴えていた。ピザはカロリーも糖質も高い。桜河が望むなら、HiMERUのぶんを一切れ食べてもらおうか。

 気を取り直して考えていると、三毛縞と視線がぶつかった。人の良さそうな、それでいて緻密に作られているような「快活な」笑み。人を試すような目つき。口角を上げ、黙ってじっと見返した。

 瞬間、仰々しく話すやつの瞳孔がしゅっと開いた気がした。

「俺はむしろ、自分が善人で正義だと信じて疑わない人間に恐ろしさを感じるしなあ?」

 語尾と視線を持ち上げて、わざと桜河の方を見た。何食わぬ顔で、獲物を捨て置いて帰る飼い猫のように。

 何度思い出しても目が眩む。耳がきんとする。言い知れない怒りと羞恥でかっと身体が熱くなる。

 うるせえな、どの口が言ってんだ? 「必殺お仕事野郎」が、何様のつもりなんだ。正義面で天城を「尋問」にかけておきながらぬけぬけと、その言葉そっくりそのまま返してやる。

 お得意の諜報で何もかも知っているんだろう。桜河が過呼吸を起こしたことも、原因が「正義」を押し付けた俺にあることも。分かっている。そっちは違うと何度も手を引かれたのに顧みず、曖昧な希望に拘泥して、ついには「HiMERU」さえ見失いかけた。

 心から反省している。でも、それは俺と桜河の問題だ。お前はどの立場から、何のつもりで干渉している? Crazy:Bの桜河をDFなどという壮大な回り道に巻き込んだくせに、お前もあの子に守られたくせに。

 塞がり始めた傷口に狙って塩を塗り込んで、いったいどこがママなんだ。分かったようなことを言いやがって。お前なんかにHiMERUが、俺の葛藤が分かってたまるか。

 きつく握った拳に、腕に血管が青く浮く。三つゆっくり瞬いて、6秒たっぷり息を吸う。昼間効いたアンガーマネジメントが今はさっぱり機能しない。

 腹が立って仕方がない。三毛縞などではなく、あんな言葉でたじろぐ自分の弱さに。「HiMERU」を慕い愛してくれるあの子にも明かせないで、本質を暴かせた甘さに反吐が出る。

 舌打ちをして空を仰ぐと、タオルがするりと膝に落ちた。雨にも日よけにもならない辛気くさい雲。ぷぃん、ぷぉん。行き交う羽音に鳥肌が立つ。衝動に任せて頬を打てば、乾いた音がぱんと響いた。

 芝生を突っ切り、大通りに出る。要の病院まで歩くと、ロータリーの自販機でコーラを買った。いつものことながら、なぜ最上段に置くのかが分からない。勢いよく飲み下すと、冷えた炭酸水が喉に直接当たって気持ちが良い。

 見切れた看板。背の高い病棟の角から下へ三つ、右へ二つ窓を数える。消灯にはまだ早い。大半は灯りがついているのに、要の部屋に影は見当たらない。

 要、今日な。眠る弟に語りかけるように念じかけて、すぐにやめた。HiMERUの活動報告でもなければ、今後の展望でもない。ただ俺が痛かっただけの話。

 なんでもない、今度はもっと明るい時間に来るよ。笑って誤魔化して、背を向ける。

 信号で足を止め、言えない本音をコーラで流し込む。ついでだから、にこやかに毒を吐き出した。

「俺はむしろ、自分が善人で正義だと信じて疑わない人間に恐ろしさを感じるしなあ?」

 ええ、HiMERUもそう思います。あなたのような人間を見ているとねーーなどと口にはしないが。見てろ、次は余裕綽々に頷いてやる。

 公園の時計はまだ8時を回ったところだった。蓋をしたペットボトルには、まだ3分の2ほどコーラが残っている。歩いて帰ろう。振らないようにゆっくり、しっかり。

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