変わった鳥がベランダに来るのだと、初めに聞いたのはもう何ヶ月も前の話。それから度々話題に上がるその鳥は、手のひらくらいの大きさで、羽は水色、言葉を話す。桜河の話から、大方何処かから逃げ出したセキセイインコだろうと推察できた。
名前はピーちゃん――たった今、当の本人がそう名乗った。上下左右に頭を振り回し、ご機嫌にステップを踏みながら……思いのほか低い声で。
土曜日の午後、桜河の部屋に招かれた。白鳥から、彼や鳴上さんが出演した映画のブルーレイをもらったのだという。一緒に見ないかと誘われて、二つ返事で承諾した。封切りのタイミングですでに鑑賞していたことなどは、おくびにも出さずに。
舞台は大正時代、身分差の恋を描いた華やかで切ないラブストーリー。カーテンを閉め切った部屋に、白鳥の沈痛な声がしんと残る。マグカップを包む指先が鈍く疼いた。隣に桜河がいるからか、言い訳を積み重ねて伝えられなくなった想いについ、必要以上に同調してしまう。
コンッ、ココンッ、コンッ。台詞が途切れた刹那の静寂、場面にまるでそぐわない、陽気な金属音が響いた。ココンッ、コンッ。
「ピーちゃんや」
困惑する俺を置き去りに、飛び上がった桜河がカーテンを開ける。瞬間、まぶしさに目が眩んだ。コンッ、ココンッ。暖かなリビングに吹き抜けた1月の風に身震いしながら、ゆっくりと窓辺に近寄る。
「ピー、チャン」
桜河の指先を目で追うと、セキセイインコが手すりを突いていた。一言話したかと思えば、また一心不乱に嘴を叩きつける。痒いのか、あるいは餌になる虫でもついているのか。
「な、賢いやろ? ちゃんとご挨拶できるんよ」
なぜか誇らしげに俺を見上げる桜河。歳を重ねても変わらない表情、仕草に、心の柔らかい部位をキュッとつねられたような心地になる。
「カワイイネ……ネッ」
小首を傾げるピーちゃんに気持ちを代弁されてしまい、映画の中断を余儀なくされた苛立ちはほろほろと崩れて消える。
桜河の話によれば、ピーちゃんは同じマンションの住民が飼っている脱走常習犯で、しばらく自由な空を堪能したら自分で帰っていくのだという。なるほど、上機嫌でステップを踏むピーちゃんは綺麗な羽をして、丸々と太っていた。
「ピーちゃん、この人はHiMERUはん。な、HiMERUはんにもお喋り見せたってくれる?」
桜河が子どもと話すとき、しゃがんで目線を合わせるのは知っていたけれど……インコと話すときもそうするのは初めて知った。
差し出された人差し指にノスッと飛び乗って、ピーちゃんはヘッドバンキングよろしく、激しく頭を振る。
「タッチャン、シュクダイ、オワッタノ? ダカラ、イッタデショ? オトーサン! クツシタ!」
縦乗りが止まらないピーちゃんは、おそらくは複数の家庭で仕入れてきたであろう情報を、流れるような調子で喋り続ける。住民のゴシップを収集するため、飼い主が意図的に放しているのだと言われても、とっさには否定できないほど正確に記憶された日本語の数々。
「オイシイ? カワイイ、カワイイネ、ピーチャン。ゴチソウサマ」
「ほら、すごいやろ? わし、いっぺんぬしはんにも見せてあげたかったんよ」
桜河は手慣れた様子でピーちゃんを撫でながら、うれしそうに笑った。成人して、寮を出てから1年弱。初めての一人暮らしが寂しくなかったのは、このピーちゃんのおかげなのかもしれない。
ええ、そうですね――やさしい気持ちでそう口にしようとしたその時、ピーちゃんはバサッと羽ばたいて、俺の肩に降りた。見た目通り、それなりに重い。
「ヌシハン? ヌシハン、ルルッ……ハンミタイ」
「え?」
ぴこぴこと足踏みをするピーちゃんに聞き返す。桜河の言葉を覚えたらしいが、何を言っているのかいまいちよく聞き取れなかった。
「ヌシハン、ヒメ……ハンミタイ」
「あかんてピーちゃん!」
声に驚いて見ると、桜河の顔が真っ赤に染まっている。迫り来る桜河の手を、見た目に似合わぬ機敏な動きですり抜けて、ピーちゃんは手すりに飛び移る。
「ヌシハン、ガ、スキッ!」
「ピーちゃん! 今までそんなこと言わんかったやん!」
「キレイヤネ、ココッ……キレイ、ルルッ……ハン、オナジ」
桜河の話し方は特徴的で、真似しようと思ってできるものではない。実際、同じ言葉を使う人にはこれまで、桜河姉を除いて1人も出会ったことがない。まして、そんな人が偶然このマンションに住んでいる確率となると、限りなくゼロに近いだろう……何より、必死でピーちゃんを制止しようとする桜河の反応が、これは桜河自身の言葉だと証明していた。
「桜河、その、今のは……」
「オトーサン! ゲンキデスカ?」
「ピーちゃん、今から大事な話するから、あっち行くか静かにするかして」
分かっているのかいないのか、ピーちゃんは元気よくうなずくと、それきり黙った。
「HiMERUはん、あのな」
桜河の手が、俺の手をすくい上げて包む。あまり変わらなかった目線に対して、手はずいぶんと大きくなった。もしかしてまだ伸びるのかもしれないと思うほどに。
「わし、ぬしはんが好きや……ずっと言えんくて、ついにはピーちゃんに先越されてしもた。本当はこんな情けない告白やなくて、もっと格好良く言いたかったんやけど……好きです。わしと、付き合うてくれませんか?」
この歳になって初めて「告白」されたなんて、桜河は信じてくれないだろうな。微かに震える手を握り返して、熱に浮かされた頭で考える。「好きです、付き合ってください」なんて、フィクションの中にしか存在しない台詞だと思っていた。あのヒロインも、あの脇役もみんなこんな気持ちだったんだろうか。こんな、今死んでもいいような、夢でも見ているかのような。
「あかんならあかんで、そう言うてくれれば良ぇから……」
「俺も、桜河が好きです」
沈黙をかき消した桜河の言葉を追って、やっとの思いで声を絞り出す。顔が熱くて、息が苦しい。
「ほんまに? ほんなら、わしら両思い……恋人同士っちこと?」
「ええ、そうなりますね」
「うれしい!」
「わっ」
ぎゅっと抱きついてきた桜河を受け止めて抱き返す。体温が高い桜河の身体はほかほかしていて、柔軟剤と、ほんの少しお香のような匂いがふわりと鼻先を掠めた。腕に力を込めると、桜河の腕にも力が加わって、息ができないほどに強く抱きしめられる。肩甲骨に食い込む指の感触に、もうずっとこのままでいいのにと思った。
瞬間、コンッ、ココンッ、コンッ。神経を引っ叩くように高らかに、あの金属音が轟いた。はっとして身を離す。
「カワイイネ、ネ……クツシタ! ゴチソーサマデシタッ」
すっかり存在を忘れ去っていたピーちゃんがばさばさと翼を広げ、堰を切ったように話し始める。地上13階とはいえ、ベランダにいるのを失念してしまっていた。
「ごめん、外やったな」
「いえ、俺も舞い上がってしまって……えっと、そろそろ入りましょうか。映画もまだ途中ですし」
それに、ここではできないことがしたい。期待を込めて袖を引くと、桜河はますます顔を赤らめて、こくりと小さく頷いた。
「ピーちゃん、わしらそろそろ中入ろうと思うんやけど」
一生伝えられないと思っていた想いが通じるきっかけを生んでくれた手前、1羽置き去りにするのも申し訳ない気がして、2人そろってピーちゃんを窺い見る。本当に分かっているのかいないのか、水色の羽のキューピッドはぶんぶんと上体を左右に振ると、最後にもう一度名乗りを上げて飛び立った。
「ピーチャン!」
いつの間にか日が傾いている。コツンと当たった小指が絡む。早くカーテンを閉めたい。突っかけを揃えて置きながら、他のことは何も考えられなかった。
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