むすんでひらいて

 右の手のひらをじっと見る癖に気が付いたのは、2週間と少し前のことだった。食堂で一緒になった司に指摘されて初めて、こはくは自分が何分もの間、ぼうっと手を握ったり開いたりしていたことを知った。自分の手が好きだとか綺麗だとか、あらゆる意味で思ったことはない。ただ、そんな癖がついてしまった理由には心当たりがあった。

 わしが坊をよく見とるのは当然としても、坊の方でもよぉ見とるもんやな――感心した後で、そこはかとない居たたまれなさがどっと湧き出してきて、こはくはお椀で顔を隠すようにして味噌汁を啜った。セーターを裏表逆に着て歩いているのを耳打ちされた時のような、単純な羞恥心とは違った。もっと苦々しく、後ろめたいような、毒々しいような気持ち。経験したことのない類の苦さで、喉がきゅうきゅうと締まった。木綿豆腐の欠片をお茶で押し込みながら合掌し、適当な理由を付けて逃げるように席を立った。

 こはくにとって、右手は特別な意味を持つ。しきりに気にしてしまうのは、紙で切った小さな傷がチリチリ痒みを訴えてくるからでも、占い番組で結婚線が2本あると言われたからでもない。たった一度だけ、好きな人と体温を分け合ったのがこの右手だった。

 サービスエリアで車中泊をする羽目になった晩があった。バラエティー番組のロケで、機材トラブルと他の演者のアポイントミスが同時に起こったからだった。夕食の間中、フードコートの隅で新人らしい男性がこってり絞られていたので、あのとき食べたきしめんの味が思い出せない。

 中型のロケバスは後部座席2シート分が機材で埋まっていて、移動からして1人で2席使えるような余裕は無かった。交代で番をするスタッフはいたものの、たいした席数が空くわけでも無く、元の座席のまま――こはくはHiMERUの隣で眠ることになった。

 星冴ゆる1月の夜、シートは硬く、狭かったけれど、車内は少し熱いくらいに暖房が効いていた。触れ合った肩の温もりに、息づかいに、始めこそ緊張していたものの、歩き回って疲れていたのが良かったのか、エンジンの細かい振動につられたのか、思いのほかすんなり眠りに落ちることができた。

 目を覚ますと、ひどく喉が渇いていた。薄っぺらいカーテンがぼんやり光る車内はひんやりとしていて、20人近くが眠っているはずなのに、咳払いをするのもはばかられるほどしんと静まりきっていた。

 手を洗うついでに温かいお茶を買って、軽くストレッチをしてからバスに戻ると、HiMERUは帽子を目深にかぶって腕を組み、窓ガラスに頭をもたせかけて眠っていた。あわよくば寝顔を見られるかと思ったのに、マスクまでしとるし――心の中で独りごちて、そもそもこの人は本当にHiMERUなのか、席は合っているのか不安になった。それで前の席を覗くと、燐音とニキが折り重なるように上手にもたれ合って眠っていて、こはくは半笑いでスマートフォンを取り出した。

 起こしてしまわないよう細心の注意を払って座ったのに、ひやっとした物が手に触れた。慌てて引っ込めようとすると、くっと小指を引かれたので、こはくのお尻は2センチほど浮いた。薄明かりに目を凝らして見ると、触れているのはHiMERUの手だった。

 お茶のボトルを握っていたとはいえ、外から戻ってきたところなのに、絡まった小指はHiMERUの方がよっぽど冷たかった。温めようと思った、というのは後付けの理由でしかない。だいたい、こはくが一方的に握ったわけじゃなかった。どちらからともなく、としか言いようがない。とにかく次の瞬間、こはくの手のひらにはしっとりとした手のひらが、甲には冷えた長い指が、そっと触れていた。

 それから1時間もの間、こはくは身じろぎもできずにただ、じっと右手を見つめていた。体温が溶け合っていくのを、手のひらがじっとりと汗ばんでいくのを感じながら、呼吸の仕方を懸命に思い出そうとしていた。

 そんな状態でも、隣にいる人が本当に寝ているのかどうかくらいの判断はついた。まして、日ごろずっと目で追っている相手のこと。どれだけ上手く気配を偽っていても、違和感に気付かないはずがなかった。それに、こはくは座るとき、彼が腕を組んでいたのをたしかに見た。

 起きていると確信した上で、訳が分からなかった。一歩詰めると必ず一歩引くくせに、こうして気を持たせるようなことばかりする。薬指の付け根を撫でる長い指は時折、何かを確かめるようにきゅっと力を加えてきた。そのたびに全身が甘く痺れて、胸が苦しくなって、目には涙がにじんだ。こはくの方は瞬きも忘れて目に、手に、心に焼き付けようとしているのに、一向に狸寝入りをやめない想い人がほんの少し、恨めしかった。マスクを取ったら口元が笑っているような気さえした。

 結んで、開いて、思い出す。つないだ手の温もりや大きさ、指の細さや肌の感触、込められた力の強さ。何をしていても右手に意識が集まってしまう。授業中も、指輪をしていても、お湯に浸かっていても繰り返し、結んで、開いて、思い出す。

 開いた手のひらにボールペンが乗るようになったのは数日前――17歳の誕生日を境にしてだった。夜、同室のジュンの手を借りてプレゼントを整理していると、持ち帰ってきた紙袋の中に、見覚えのない小箱が紛れ込んでいるのを見つけた。

 ESでは毎年たくさんのプレゼントが行き交うので、誰が贈ったのか分かりやすいように記名したり、メッセージカードを添えたりする習慣ができあがっている。おかげで布団の上に並んだプレゼントは、一つを除いて全て、誰にもらった物か正確に分かった。例えばHiMERUからの帽子とお菓子にはそれぞれ署名付きのメッセージカードが添えられていたし、藍良からの靴下にはハートのシールが貼られていた。差出人が明記されていなかったのは、灰色の包装紙にねずみ色のリボンがかけられた箱だけ。さらには、この包みに関してのみ、こはくには受け取った記憶がなかった。

 いぶかしむジュンの横で、こはくはゆっくりと、強く拳を握った。間一髪、叫び出しそうな歓喜を飲み込んで、ごくりと大きく喉が鳴った。十中八九、意中の人に違いないと思った。そんな芸当ができたのは彼を置いて他にいない。紙袋はパーティーの間、ずっとこはくの傍にあった。ただ一度だけ手元を離れたのは――帰路、手洗いに寄る際に預かると言ってくれたのは、他でもないHiMERUだった。

 小箱は、ジュンが浴室へ行った後、1人になってから開けた。はやる気持ちを抑えられず、破れてしまった包装紙を床に放ったまま、しゃがみ込んで抱きしめた。黒い箱は、撫でると「Bye-Bye Buddy」の手袋によく似た質感をしている。たっぷり3回深呼吸をして、もう一度首だけ伸び上がって周囲を確認してから、そうっと中を覗き込んだ。

 握りっぱなしのボールペンをくるっと回して、こはくはため息を吐く。限界まで小さく畳んだ便箋を放ると、プラスチックの屑籠はポコンと小気味の良い音を響かせた。それきり、部屋は静寂に包まれる。

 今しがたまで聞こえていたはずの寝息が途絶えてしまった。明日早いっち言うとったのに、起こしてしまったやろか――息を潜めて振り返る。時計は1時5分を指していた。ジュンはもぞもぞと一つ、二つ寝返りを打つと、また静かに、規則正しい寝息を立て始める。胸をなで下ろして、またペンをくるっと回した。金属製のペンは心地よい重さと冷感を伴って、再びぴたり、手の中に収まる。なだらかな流線形はスタンドライトの光を浴びて、夜明け前の空のような色を湛えている。開いた手のひらに転がすと、そこに一筋、光の道が走る。

 ペンは馴染みのあるノック式ではなく、両手で軸を回して芯を繰り出す必要がある。この一手間が魔法だった。左手を添えてくりっとひねるだけで、こはくを余裕ある、一人前の大人になった気分にさせてくれる。インクがもったいないと気付くまでの数日は、アンケートの回答から課題のプリントまで、全てボールペンで書き込んだ。濃い藍色の光沢に指紋が付くたびにシャツの裾で磨き上げ、ローテーションが尽きるまでは胸ポケットの付いた服ばかり選んで着た。そして、暇さえあれば右の手のひらにペンを乗せて、光の道を見つめていた。

 こんな具合だから、誰も彼もが褒めてくれた。あまり話したことのないスタッフでさえ、手のひらで転がしているペンを見て、誕生日プレゼントですかと話しかけてくれた。誰からの、という問いは笑って誤魔化したので、変な勘違いをされてしまったかもしれない。未だ確認が取れていないのは、こはくに意気地がないからじゃない。何度も俎上に上げようと策を巡らせているのに、するする器用に逃げ回られるせいだった。

 ペンについてはそれで構わないと思っている。ほとんど毎日顔を合わせているのに、ただ1人だけ、一切触れてこないことこそが何よりの証拠だった。問題は、ぶつけたい質問がもはやペンに限った話ではなくなっていること。言いたいことが、聞きたいことが山ほどある。ぬしはんが好きや、ぬしはんもわしのこと好きなんやろ――思いははち切れんばかりに膨れ上がっていて、17歳になったばかりの心にはもう、1バイトたりとも余裕がない。

 だから、計画を立てた。手紙なら――今度の握手会で、HiMERUのレターボックスに忍び込ませることができれば――受け取ってもらえる公算は大きい。事務所のチェックが入ると言っても、隅々までじっくり読むわけではない。パッと見て好意的な内容だと判断できれば、時間はかかっても確実に届くはずだと考えた。

 改まった手紙は縦書きでと、参考にしたいくつかのサイトにはそう書かれていた。座敷牢で育った手前、家族以外に私人として手紙を書く機会はほとんどなかった。恋文の書き方なんて、なおさら知っているはずがない。

 立春を迎えたとはいえ、2月の夜は冷える。裸足の爪先をすりあわせて暖を取る。ペンを握ってから何時間経ったか分からない。もう何枚の便箋をだめにしたかも。

 新しい便箋をLEDに透かして、和紙の繊維をぼんやりと眺める。薄々、便箋選びから間違えたような気がしている。こはくが受け取る手紙――ファンレターはどれも横書きで、封筒とセットの絵柄がついた、可愛らしい便箋に書かれていることに今さら思い至った。おまけに「拝啓」や時候の挨拶なんて、ほとんどの場合省略されている。

 そうはいっても、握手会の日が迫っている。レターセットから選び直すような時間はない。次の機会なんて悠長に構えていられる余裕も、あるわけがない。

 軽く伸びをして、ボールペンを握り直す。今度は「てへん」を書いただけで気に食わず、親指大になるまで折り畳んで、そっと捨てる。プライバシーの保護を第一に考えれば、びりびりに破いて捨てた方が良い。分かっていても、たった3画とはいえ、気持ちを込めた物を引き裂いてしまうのは忍びなかった。

 ペンがすっかり手になじんだころ、街はすっかり春めいていた。ソメイヨシノなどは、いつ咲いてもおかしくないほどに膨らんだつぼみを枝いっぱいに携えて、風が吹くたび、重そうに身体を揺すっている。

 土曜日の昼下がり、こはくは共有ルームのソファーでうたた寝をしていた。春眠暁を覚えずというのか、この頃は寝ても寝ても眠くてたまらない。身長が伸びている気がして悪い気はしないが、撮影の合間20分の休憩ですら起きていられないのには少し困っている。

 ふっと人の気配がして目を覚ますと、向かいにHiMERUが座っていた。

「起こしてしまいましたか?」

 寝起きだからか、いつもの声色と違って聞こえた。

「ん……ああ、また寝てしもたんやなわし。昼まで寝とったのに」

「春ですからね。ちょうどコーヒーを淹れるところですけど、桜河も飲みますか?」

 あくびをかみ殺しながらうなずいて、やはりHiMERUの声が少し上ずっていると感じた。

 牛乳がたっぷり入ったコーヒー、もとい、コーヒーがちょっぴり入った牛乳を一口飲んで、辺りを見渡す。こはくが来たときはある程度人数がいたのに、いつの間にか誰もいなくなっている。

 視線を戻すと、机の上に置かれた手紙に目がとまった。

「ああ、ここでファンレターのお返事書くん? 邪魔すると悪いし、わしはこれ飲んだらシナモンにでも行ってこよかな」

 口に出してから違和感に気付いた。それにしては、1通しかない。

「いえ、ここにいてください。返事を書く前に2点ほど確認が必要なので」

「確認?」

 HiMERUが開こうとしている便箋が三つ折りになっていることに気が付いて、こはくは勢いよく起立――着席した。

 手と心、いずれにしても届かなかったものと思って、返事は半ば諦めかけていた。書いて、ある程度すっきりしたというのもある。何より、人には人の事情があるとよくよく知っている。自分の気持ちばかりに気を取られて、好きな人を追い詰めるような真似をしてしまったのではないかと少しばかり落ち込んで、すっかり立ち直っていた。

 こはくが手紙を出してから、もう2ヶ月近く経っている。あの日レターボックスに入れられた手紙は、1ヶ月ほど前にこはくの手元に届いた。返事をもらえないからといって、恋い焦がれるのをやめられるわけではない。失恋したのかどうかも分からないまま、心がちくりと痛むたびに右手を握りしめて、変わらずまっすぐに見つめている。持ち前の健やかさで、わずかな希望――わしの気持ちがぬしはんを困らせとるなら、一言そう言ってくれれば済む話……返事をくれんっちことは、むしろ同じ気持ちでおるからかもしれん――を捨てず、大切に持っていた。

「もう、返事もらえんのやと思っとった」

「やはり、差出人は桜河でしたか」

 そう言われて初めて、どこにも記名しなかったことに気が付いた。宛名だけはなんと書いて良いのか分からず、「様」だけ書いて出したけれど。

「聞いて、桜河。信じてもらえるか分かりませんが、2月に出してもらったこの手紙を俺が手にしたのは、つい先刻のことなのです」

「え、でもわしの分はとっくに……」

 気を抜くと口から飛び出しそうな心臓をポケットの上から、ボールペンごと押さえつける。

「HiMERUは1通1通に返事を書く分、受け取るのが遅れがちになるのです。それに、開けたものから順番に返事を書いていくので、中でも遅くなってしまいました……すみません、待たせてしまって」

「ううん……届かんかもしれんと思って出したから、届いてよかったわ」
 と、尻すぼみに消えていく声を絞り出して、こはくはなんとか微笑んだ。握りしめたポケットの中で、微かな希望が明滅している。あえて返事をくれないものと思っていたのに、まさか届いていなかったなんて。

 微笑みを返す顔が、どこかぎこちない。不意に見せる素の笑顔とはまた違う、何かを押さえつけているような表情。そういえば、この人はさっき「俺」と言わなかったか。

 期待していいのか、絶望に備えたほうがいいのか、判断が付かない。続く言葉が見つからない。永遠に感じられた沈黙を破ったのは、こはくではなかった。

「桜河にお願いがあるんです。聞いてもらえますか」

 三つ折りの便箋を開く指が、微かに震えている。いつもと違って聞こえる声は、自分と同じで緊張しているのかもしれないと思った。

「ペン、ありますよね。ここに書いてもらえませんか……俺の名前」

「ぬしはんの名前……」

「知っているでしょう」

 囁く声が揺れている。

 ポケットからボールペンを取り出して、ペン先を繰り出す。共有ルームの電灯に照らされた藍色はほんのりと明るく、夜明けを迎えている。光の道の先で、左手が、長い指をきゅっと握りこんだ。

「好きです。それだけのことがどうしても言えなくて、でもあなたの心が欲しくて、何度もずるをしました。許されるなら、俺ももう一度、桜河と手をつなぎたい」

 ペンを置いて、そっと右手を伸ばす。冷えた拳を上から包み込んだ。

「つなご……何回でも」

 止め、跳ね、払い。毛筆で書くときのように息を止めて、一画一画を丁寧に書く。署名と宛名の空白を埋めながら、こはくはまるで婚姻届みたいだと思った。

〈拝啓
 暦の上では春になりましたが、今日は雪が降りました。「積もるらしい」と言って食料を買い込みに行く人もいました。本当に積もったら良いなと少し期待しています。明日の昼は温かいものを食べようとあなたと約束したからです。とても楽しみにしています。
 さて、日ごろは何かと至らぬ私に、いろいろお心遣いをいただき、簡単には言い表せないほど感謝しております。今この手紙を書くのに使っているボールペンも、くれたのはぬしはんですか? 勝手にそうだと思って喜んでいますが、本当にそうだったらうれしいです。
 ところで、本日こうやって手紙を書いているのは、伝えたいことがあるからです。とにかく最後まで読んでください。ぬしはんが好きです。どこが好きなのか聞かれるとうまく言えんけど、ぬしはんが笑っているととてもうれしくなります。美味しいものを食べると、ぬしはんにも食べさせてあげたいと思います。こんな寒い夜は、ぬしはんが温かくしているといいなと考えてしまいます。手をつないだ晩のことを思い出すと、胸がどきどきして、そのたびにもっと好きになります。できればもう一度、ぬしはんと手をつなぎたいです。ぬしはんも同じ気持ちだったらうれしいです。
 まだまだ寒い毎日です。花咲く季節を待ちわびながら、お互い元気に過ごしましょう。
                  敬具
 二月十二日

          様〉

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