Eyes on me.

 昼時の社員食堂は喧噪で満ちている。椅子や人にぶつからないよう移動しながら辺りを見渡し、席を立ちそうな利用客を探す。知った顔がいれば相席を持ちかけることもあるが、どのみち今日は気分ではない。

 だいたい一周したところで諦めようかと考えつく。会議室に近いというだけで、食堂にこだわる必要は全くない。シナモンに降りた方が早いかと踵を返すと、合掌する2人連れが目に入った。

 荷物を置き、ホールハンズでコーヒーと根菜サラダを注文してから、ダスターを取りに立つ。道すがら、少し離れた席に座る桜河が目に入った。胸に勇壮な虎が描かれたお気に入りのシャツを着て、白鳥と天城弟、ひなたと談笑している。

 椅子に荷物を移して、ソファーに腰を下ろす。人と話すのが億劫で相席を探さず、窓に向かって座るつもりでいたのに、何をしているんだろう。

 「HiMERU」として問題ない範囲とはいえ、この頃、頻繁に誤作動が起きる。俺も一度、医者に診てもらったほうがいいのかもしれない。受け取ったコーヒーに口をつけながら、目を閉じて考える。

 細切り大根にドレッシングを絡ませ、黙々と口に運ぶ。フロアに視線を向けて、知人と目が合いでもしたら面倒くさい。頭ではそう考えているのに、気づくと桜河の背中を見ている。

 4人とも食事は済んでいるのか、白鳥の差し出すスマートフォンを覗き込み、身体をよじって笑っている。箸が転んでもおかしい年頃、という言葉は少年にも使えるんだろうか。16歳らしい屈託のない笑顔につられ、自然と口角が持ち上がる。

 マトリックス以降、ALKALOIDと鉢合わせる度に神妙な面持ちでいた桜河が、ある時を境に天城弟に話しかけるようになった。親しげな様子を不思議に思い、聞けば友達になったのだという。

 あれで天城によく懐いている桜河が、全くタイプの異なる弟と友達にというのは、初めこそ意外だった。しかしまあ、考えてみれば天城や白鳥、仕事に武道、外に出るまで知らなかったこと――話題には事欠かないようで、みるみるうちに馴染んでいった。今の様子を見るに、知らぬ間にひなたとも友達になったのかもしれない。

 今年度に入ってから、連れ立ってESやテレビ局を移動している際、同僚、スタッフを問わず、桜河に声がかかることが増えた。玲明でものびのび過ごせているらしく、時折り学園での話を聞かせてくれる。パソコンやスマホをいじっていても、以前のようにネットサーフィンに興じているだけでなく、誰かとメッセージのやりとりを楽しんでいることが多いように見える。

 桜河の世界は、ここ数ヶ月でさらにぐっと広がった。世間や同年代との隔たりに戸惑っていた姿は見る影もなく、好奇心旺盛に世界へ向かって手を伸ばす。世界は喜んであの子の手を掴む。

 俺はそれがうれしくて、眩しくて……ほんの少し、狼狽えている。

 桜河が友達と出かけたオフの土曜日、大の大人が3人、真昼間から雁首そろえてテレビを囲んでいた。見たい番組があったわけではなく、降り続く雨に囲われて、何をする気にもなれずにいただけ。

 ずるりと重たい空気で満ちた共有ルームに、教育番組の音声だけが響いていた。ポテトチップスを平らげた椎名がくずの付いた指を舐め、天城に小突かれたあと、沈黙を破った。

「なんか、ちょっとだけ気持ちがわかる気がするっすね」

 スマホから顔を上げると、テレビには動物のドキュメンタリー番組が映っていた。まだ幼さの抜けない子ライオンが巣立つ場面。

「手放しでうれしいはずなんすけど、なんとなくさみしいというか……なはは」

 天城も俺も答えはしなかったけれど、椎名が何について話しているのかはわかっていた。寝返りを打った天城の拗ねたような背中を見れば、おおかた同じような気持ちなんだろうなと察しがついた。そもそも、そうでもなければ3人無意味に集っている理由がなかった。

 俺が抱いているのも、天城や椎名のそれと同種のさみしさだと思っていた。そう、あるべきだった。

 感傷に浸っていたことなど梅雨明けとともに忘れてしまったかのような2人に対して、俺は未だ、言い知れない感情を持て余している。さみしさの中に一握り、焼け付くような不安があって、空っぽの胸が早鐘を打つ。

 桜河の世界が広がっていくのはうれしい。紛うことなき本心なのに、なぜ不安になるのか。考えるまでもない。今日に至るまで、「俺」は「俺」として桜河と向き合っていないから。

 無意識の下、「友人」にクエスチョンマークを付けたあの日から、俺は何も変わっていない。変わるわけにもいかない。どれほど長い時間を共にしても、俺が本心を晒さない限り、一定以上の関係にはなれない。そんなことはとうの昔にわかっていて、それでも「HiMERU」でいることをやめるわけにはいかない。

 変わらないことを選んだのは俺自身なのに、変わっていくあの子に置き去りにされるような焦燥感に駆られている。桜河の世界が広がれば広がるほど、あの子の心に与えられた居場所が小さくなっていくような気がしている。そんなもの、「俺」にはもとより無いというのに。

 最後の一口を流し込み、口元を拭う。腕時計を見ると、移動するにはまだ少し早かった。

 桜河たちは話題が尽きる様子もなく、追加で頼んだらしいデザートをつついている。

 頬杖をついて、うれしそうな横顔をじっと眺める。気づいた桜河が振り向くかもしれないと思いながら。分からない。なぜそんなことを考えているのか。俺は桜河に振り向いてほしいんだろうか。

 午後はCrazy:Bのミーティングなのだから、歩いて行って

「桜河もいたんですね。午後は会議室でしょう、一緒に行きましょうか」

 と声をかければいい。それは間違いなく「HiMERU」らしい行動のはずなのに、どうしてできないんだろう。

 ため息をついて、立ち上がる。この頃、本当にどうかしている。エアコンを付けていても、思うように眠れていないのかもしれない。早めに会議室に入って、5分でも目を閉じていようか。

 トレーを片手で持ち、テーブルを拭いて振り返る――その時、アーモンド型の大きな目がぱちぱちと瞬いて、電撃を放った。

 手を振りながら近づいてきた桜河は、歌うような調子で

「今から会議室やろ? 一緒に行こ」

 と微笑む。

 ただそれだけのことで満たされては、笑うしかなかった。

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