辺りを憚る可愛らしいノック音に荷解の手を止め、スリッパを突っかける。スコープを覗く前から浮かぶ来訪者の姿に、自然と笑みがこぼれる。天城らに逢瀬を茶化されたくないのだろう。桜河は外泊時、人差し指の先でドアを叩く。
チェックイン時、2階に大浴場があるのだと説明を受けた。てっきり風呂の誘いかと思ったが、迎え入れた桜河はこっぽりジャンパーを着込んでいて、「な、コンビニ行こ」と誘った。歌うような調子につられて笑い、「仕方ありませんね」とコートを羽織る。何が仕方ないのか分からないが、今夜の桜河は特別ご機嫌で可愛らしい。
23時28分。充電器から引き抜くと、スマホに時刻が表示された。新着メッセージはない。あの賑やかしい天城と椎名のことだからきっと、何かろくでもない祝砲を仕込んでいるものと睨んでいたのに見当違いだっただろうか。この時間から出かけては、桜河は外で誕生日を迎えることになる。まさか空気を読んで2人きりにだなんて、後が怖くて思いついた瞬間から首を振った。また俺の挙動を面白がって笑う桜河に微笑み返し、マフラーを巻く。
表に出ると、身を切るような風がひゅうと鳴り、乱暴に髪をかき乱した。剥き出しの耳がキンと痛んで、マフラーに埋めようと首をすくめる。多少みっともないが、ぴょこぴょこと身体を揺すって歩く桜河だって大差ない。
「雪でも降りそうな寒さですね」
表通りから1本外れた路地に往来はなく、濡れたアスファルトに街灯がきらきら散っている。
「うん、起きたら積もってるかもしれんっちスタッフはんらが言うとったわ」
「うれしそうですね。ふふ、まあでも撮影に支障なければ俺も雪は嫌いじゃないな」
「そうなん? 寒いのは苦手やのに」
「あのね桜河、雪を楽しむ方法は雪遊び以外にもたくさんあるんですよ」
寒風に背を押され、気持ち早足になって角を曲がると、車線の向こうにコンビニが見えた。見慣れた看板と異質なまでに明るい店舗。旅先のコンビニはいつも、安心感と平行世界のような奇妙さを併せ持つ。俺はそのチグハグさに心惹かれ、桜河は生活圏と微妙に異なる品揃えを見るのが面白いらしい。いつからか度々、時間を持て余す晩はこうして連れ立って宿を抜けるようになった。
「ところで何を買うんですか?」
普段は特段尋ねないが、今日ばかりは気になった。撮影が押したおかげで夜は深まり、この調子でいけば桜河は二十歳の誕生日をコンビニか外で迎えることになる。それもこんな凍てつく晩に、何か入り用のものでもあったんだろうか。
水たまりの中に亀裂を見つけ、ポケットから手を出すようにと付け加えると「手袋忘れてしもたんじゃ。出したらぬしはん、つないでくれるん?」と小癪に笑う。
「あのな、その、お酒をな? 買おうかなっち思って」
「お酒」
思いがけない答えを咀嚼するように、口の中で呟く。お酒、お酒。どこかに引っかかる記憶があって、目を伏せて手繰り寄せる。
「忘れてしもたん?」
「いえ、探しているところなので少し待ってください」
「思い出す、やなくて? えらい前のことやし忘れとっても構わんけど、コッコッコ。そういえばぬしはんは『セクシーコンピューター』なんやっけ」
「いくら桜河でも怒りますよ」
お酒、二十歳、誕生日――ああ、覚えている。あれは2年、いやもう3年ほど前になるのか。桜河と交わした約束があった。
こんな風に夜更けにコンビニへ行ったとき、ドリンク類の陳列棚にたむろする女性客がいた。2人組で、風貌からして地元の大学生だったはずだ。大晦日でもないのに突然カウントダウンを始めたので、自然と人目を引いていた。ゼロを割愛した2人はおめでとう、ありがとうと言い合うと、缶チューハイを手にレジへと向かった。どうやら購入する様子を動画に収めていたらしい。
「なあHiMERUはん。あのひと、いま二十歳になったっちこと?」
「そうですね、おそらくは」
興味深そうに様子を窺っていた桜河に尋ねられ、眩しい気持ちで頷いた。人知れず二十歳になった俺には無縁の光景だったのに、憧憬というには満ち足りた、妙な温かさを感じていた。隣に桜河がいたからかもしれない。
「わしんときもああやってしたら、ファンの人らは喜んでくれるやろか」
アイドルとして常に自分にできることを探している横顔がいじらしく、誇らしかった。
「ええ、きっと」
「ほな、わしが二十歳になるときはぬしはんが見届け人になってな」
桜河が二十歳になる日なんて到底思い描けなかったのに、どうするつもりだったんだろうか。二つ返事で依頼を請け負って、そのくせとっくに諦めてしまっていた。
依然HiMERUとしてのみ向き合い、「友人」に付けたハテナを取りきれずにいたころだった。桜河には本心でぶつかり合ってできた友達が何人もいて、だからきっとHiMERUでなくとも、俺でなくとも構わないだろうと思っていた。出来事自体は覚えていても、俺とした約束なんてきっと桜河は忘れてしまう。そうやって勝手に予防線を張って、忘れてしまっていたのは俺の方だった。
「思い出した?」
信号機が消えた横断歩道を渡りながら、桜河が振り返る。
「ええ、見届け人になる約束でしたね。動画も撮りましょうか?」
「ううん、お店に要らん迷惑掛けてしまうかもしれんし動画はええよ。本当のところは、明日も仕事やっち夜更けにHiMERUはんを誘う口実がほしかっただけじゃ」
照れくさいのか、早口に紡ぐくちびるでマスクがつんと尖っている。
「ふふっ、馬鹿だな。桜河の誘いを俺が断るわけないでしょう」
「ぬしはんはな。ほんで馬鹿っち言う方が馬鹿やし」
「ええ、俺が馬鹿でした。でもせっかくですから後ほど、初めてのお酒と写真を撮りましょうか。ファンもきっと喜ぶでしょうから」
「そやね、頼むわ」
自動ドアをくぐるとたちまち日常に取り込まれ、外が寒かったことすら忘れそうになってしまう。壁掛けの時計を見ると、0時にはまだ10分ほど時間があり、店内をぐるっと見て回ることにした。
「なあなあ、見て、こっち」
桜河は何かめぼしい物を見つける度に報告してくれる。所詮国内のフランチャイズ。そう目を見張るほど変わった物はないのだが、地域限定の餅菓子入りクレープだとか、少し前に高峯さんが探し歩いていたゆるキャラのクリアファイルだとか、桜河にかかれば宝の山に変わる。
5分前。そろそろ一緒にいようかと桜河を探すと、雑貨の棚の前にいた。近づいてみれば陳列されているのは絆創膏やウェットティッシュなど衛生用品の類いで、アイドルが何を真剣な顔して見ているのかと通りざまに太ももを叩く。
「こら、もう時間ですよ」
「わっ、もう?」
ソフトドリンクとそう変わらないディスプレイなのに、いざ冷蔵庫の前に並び立つとあの桜河がもう二十歳なのかと感慨深くなる。いちご、梅、桜。おあつらえ向きの限定商品が敷き詰められたガラス戸に、「わぁ」と目を輝かせる桜河の顔が浮かんでいる。出会ったころから大人じみた考え方をする子だったけれど、こうして無邪気に喜ぶ顔は今も子どもみたいで愛らしい。
「どれがええかな?」
「そうですね。あの姉の血筋で酒に弱いなんてことはないでしょうが、美味しく飲みたいでしょう?」
天城が好んで飲むので、桜河のイメージではお酒と言えばビールだろう。視線はその辺りを彷徨っているが、ブラックコーヒーのように一口舐めてパスでは「大人」になった気分を味わえないかもしれない。
「初めはこの辺りがいいんじゃないでしょうか。明日に影響が出るような度数ではないですし、甘くて飲みやすいと思います」
「ビールは飲みにくいん?」
「ええ、独特の苦みがあるので慣れるまでは美味しくないでしょうね」
「ほっか、ならビールはまた今度にしよかな」
「そうですね。これからはいつでも買えますし、居酒屋でだって飲めますから」
くちびるに泡を付けて顔をしかめるさまが目に浮かぶようで、口角が上がる。しゃがみ込んでチューハイを選ぶ桜河を見ていると、ポケットが震えているのに気がついた。取り出したスマホに、おびただしい数のメッセージと着信履歴が残っている。全て天城と椎名からで、どうも0時ちょうどに桜河の部屋に突撃しようと俺を誘いに訪ねたらしい。そういうことはせめて解散する前に共有しておくべきだろうとため息をつき、桜河のつむじに軽く触れる。
「なに?」
「あと1分です」
桜河とコンビニにいる旨を送り、ホールハンズを閉じて画面を見せる。
「どうしよ、まだ決まってないんやけど」
「ふふっ。べつに日付が変わってから決めても問題ないのでは?」
「あ、そっか。そやね、コッコッコ。わしは何を焦っとるんやろ」
出会ったころは一人で洋服も着られない15歳の子どもだったのに。老成した思考を備えていても、まだまだ成長途中の幼気な少年だった。ともに過ごした月日の長さに胸がじんと熱くなって、そっと肩を合わせる。ほとんど毎日顔を会っているのに、改めて見ると随分逞しく精悍に育ったものだと思う。
「じゅう、きゅう、はち」
2人で秒針を見つめ、声をそろえる。あっと思ったときにはするり、左手が掠われていて、苦笑しながら握り返す。どうせ店員からは死角になっている。監視カメラはどうだか知らないが、桜河は見えないと踏んだのだろう。まあ、どっちでもいいーーいやそんなわけはないが、いま理性は手のひらで溶けて、桜河とキスがしたい以外のことが考えられないくらいとろとろになってしまっている。
曖昧な呂律でカウントダウンを終え、ゆっくり顔を見合わせる。ニッと気恥ずかしそうに笑いかけられて、いくつになっても桜河は桜河だなと当たり前のことに安堵した。
「お誕生日おめでとう、桜河」
「おおきに。なんや、何も変わってないのにこれでお酒が買えるようになったなんて、どうにも不思議な気分やわ」
そっと手をほどきながら立ち上がって、桜河は冷蔵庫を開ける。
「そうですね、そんなものかもしれません」
レジへと向かう桜河に付いて歩き、後ろから見守る。桜河の初めてをこれ以上独占するのは流石に良心が咎めて、今さらながら動画を撮った。天城や椎名、姉たちにくらいは分けてやっても減るものではない。
年齢確認を求められた桜河がちらっとこちらを振り返り、「結局撮るんかい」と破顔する。「合っていますよ」と頷いて見せると、自信を取り戻したのか威勢良く20歳以上のボタンを押した。
「二十歳の気分はどうですか?」
なんとか会計を済ませ、ほくほくした様子の桜河にレンズを向ける。うっすら頬が赤くなっていて、緊張したんだろうなと思った。
「うん、なんて言えばええんやろ。やっぱりこれといって実感はないけど、やっとぬしはんらと同じ台に乗れたんやなっち思うと悪い気はせんよ」
「ふふ、ありがとうございます」
「こちらこそ。で、インタビューはこんでええんか?」
「はい。待ちぼうけの天城が暴れては椎名が可哀想なので、そろそろ帰りましょう」
桜河を待たせて適当な酒を3本選び、会計を済ませる。明日の集合はそう早くないとはいえ、まだ入浴も済ませていない。手っ取り早く天城をなだめるためには4人で飲むのが一番良いだろう。
「しかしあいつらも阿呆やな。言うとかんからすれ違ってしもたやん」
「同感なのです。まあでも、おかげで二十歳の桜河を最初に祝福する栄誉を得られたので、今日ばかりはご馳走するとしましょう」
「昨年の一彩はんの時もなんや拗ねたりえらい上機嫌になったりしとったけど、ほんま忙しいひとやなあ」
「ふふ、兄というのはそういう生き物なんだと思いますよ……もちろん姉も。後で先ほどの動画を送るといいでしょう」
ずっしりと重い袋を提げて、来た道を行く。もう桜河も大人なんだから1人で良識ぶらず、あの小箱も買えば良かったーーなんて思わないでもないが、どのみち開ける機会はないだろう。帰ったら天城と椎名が待ち構えていて、底抜けに騒がしい宴が始まるに違いない。
「こはく」
角を曲がり、街灯が途切れたところでマスクをずらして呼びかける。とんと口角のあたりを叩くと、桜河は艶っぽい顔で微笑んだ。
「ん」
かかとを持ち上げた桜河のくちびるが素早く触れて、ちゅっと音を立てる。
「大人なら酒の味だけじゃなく、悪さも少し覚えないとな」
「おん。わしら泣く子も黙るCrazy:Bやし、ご指導頼んます先生」
悪さ。例えばカウントダウンの最中、ポケットで震えるスマホには気付かないふりして桜河を独り占めしたことなんかもなーーとは口にせず、今度は俺からくちびるを重ねた。
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