あと3週間……この頃ではカレンダーを見るたびに胸が高鳴る。口角は上がるし、心なしか背筋も伸びる。つくしの絵が描かれているからじゃないーー渋い絵柄の卓上カレンダーは年末、燐音はんに押し付けられた。パチンコの景品らしいが、なかなか重宝している。
机の上には真新しいペンケース。出しっぱなしのシャープペンと、角が丸まった消しゴム。復学の準備は順調に進んでいる。書類に学用品の調達、初めての課題。ときどきHiMERUはんに助けてもらいながら、なんとか進めているところで、今日で6割がた終わった。
それから、今日は制服も届いた。おかげで全く集中できない。もうひと頑張りしようと机に向かったものの、何度かぶりを振ってもすぐ、視線も意識も壁へと逸れてしまう。パリッと糊の効いたブレザー、ピシッと折り目のついたスラックス。新しい衣装を見た時とはまた違う高揚感で、胸がいっぱいになる。
ちょっとだけ着てみよかな、せっかく届いたんやし。お風呂入った後やから、変に汚れることもないやろ。いやべつに、楽しみで仕方ないんとちがうで? ほら、当日の朝さっと着られんと大変やからな。
誰にしているのか分からない言い訳を重ねながら、パリッとした袋からシャツを取り出した。無機質な糊のにおい。透明な板を取り出して、ベッドに広げてみる。規則正しく並ぶ小さなボタン。
多少手間取りながらも全て閉め、よたよたとズボンを履き替える。あとはブレザー。差し込んだ手の甲が裏地に触れる。ツルッと冷たい感触に、身が引き締まる。ネクタイは……何度試してもうまくいかない。覚えたと思っていたのに、しばらく付ける機会がないうちに忘れてしまった。
まあ、良ぇわ。ジュンはんが帰って来たら教えてもらおう。それよか鏡を……うん?
HiMERUはんほどとは言わないまでも、少しは期待していたのに。新鮮ではあるものの、大人っぽいとはお世辞にも言えない姿が姿見に映っている。
衣装として着用した蛮カラ学園の時とは違って、卒業までほとんど毎日着ることになる。だから成長期に大いなる期待を込め、大きめサイズで誂えた。それがまずかった。スラックスは革靴の踵で誤魔化せるとしても、問題はブレザー。肩は落ち、袖は指の付け根まで覆い隠してしまっている。これでは服に着られているどころか、食べられているようにすら見える。
いや、でも大丈夫。最近は早く寝るようにしとるし、お腹もよぉ空くし、これくらいすぐ伸びるやろ。いっぱい食べると大きくなるって斑はんも言うとったし。まあ、いくらなんでも復学までに伸びるなんてことはないと思うけど。
諦めきれずにネクタイと格闘していると、控えめなノック音が三つ、部屋に響いた。反射で返事をしてドアへ向かいながら、ぼんやり、ジュンはんが鍵でも忘れたんかなと考える。ちょうど良ぇ、よっぽど疲れてなかったらこれ教えてもらお……でも、降ってきたのは思いもよらない声だった。
「HiMERUです」
「ひ、HiMERUはん?」
そうなると話が変わってくる。届いたばかりの制服をうれしそうに着ている姿を他でもない、HiMERUはんに見られるのは恥ずかしい。かといって、細かいボタンをまたちまちま外して着替えるとなると、まだ寒い早春の廊下にHiMERUはんを待たせてしまう。
「ご、ご用件は?」
とりあえず、尋ねながらぐちゃぐちゃになったネクタイを解く。
「桜河? かしこまって、どうしました? 桜河の物と思われる書類がHiMERUの荷物に紛れていたので、届けに来たのですよ」
「え、ほんまか……今開けるわ」
「いえ、あの……お取り込み中なら出直しますが」
モタモタしている間に変な気遣いをされてしまい、余計に恥ずかしくなる。観念して、スラックスをずり上げる。
「大丈夫やけど、一つだけお願いしても良ぇ?」
「何ですか?」
「笑わんといてな」
言いながらドアを開けると、HiMERUはんの目が真ん丸くなって、瞬いた。居た堪れなさに目を逸らす。
「おや、これは」
「いや、ほら、わし洋服苦手やからな? せっかく届いたんやし、一回練習してみようと思って。朝手間取って遅刻するとあかんし」
HiMERUはんは律儀に口元で笑みを堪えてくれているのに、聞かれてもいない言い訳を早口に捲し立ててしまう。
「ふむ……蛮カラ学園は拝見しましたが、桜河の制服姿をこうして見るのは初めてですね」
「うん……」
HiMERUはんは頭からつま先、右手にぶら下がるネクタイまで、じっくり眺めて微笑んだ。口を開くまでの刹那、言ってほしい感想を並べて固唾を呑む。
「よくお似合いですよ、初々しくて可愛らしい。HiMERUと違って、制服が負けている感じもしません」
「う、覚えとったんか」
HiMERUはんの制服姿を見た時、ドキドキして口走ってしまった言葉がしっかり返ってくる。服に着られていることについては自覚があるからいいけど、それに伴いしても。
可愛らしい……か。この袖、この裾でかっこいいなんて言われるわけないのは分かっとったのに、ほんの少しだけ心がしぼむ。わしだってHiMERUはんをドキドキさせたかったのに、全然かっこつかん。いつもわしばっかり。
「ふふふ。ネクタイはどうしたんですか?」
「ああ、結び方を忘れてしもて」
なんとでも言い逃れて後でジュンはんに聞けばよかったのに、つい素直に答えてしまった。こんなことで意地を張っても仕方ないにしても、とことんまで格好がつかない。すっかりしょぼくれてしまって、ため息が漏れる。
書類を受け取って、早いこと着替えてしまおう。そう思って手のひらを差し出すと、HiMERUはんはわしの髪をくしゃっと撫でて笑った。
「よければ、HiMERUが教えましょうか」
「ほんま?」
「ええ、お邪魔しても?」
格好悪くても、もう少し一緒にいる口実になるなら全部帳消しになる。大きく頷くと、最早用無しとなった紙切れがそっと、手のひらに乗った。
「そう、この輪に通して……あとは形を整えてください」
「ん……できた」
「ふふっ。うん、上手にできましたね」
顔を上げると、ネクタイが加わっただけで少し大人っぽくなったように映る。それから……思いついて、結び目を緩めてみた。
「おや、苦しかったですか?」
「ううん。この間、HiMERUはんがこうやっとるの見て、かっこええなっち思ったから」
わしもHiMERUはんの目にかっこよく映らんかなと思って。チラッと見上げると、HiMERUはんは一瞬驚いたような顔をして、それからうれしそうににっこり笑った。
「あーあ、HiMERUはんと同じ学校やったらよかったのにな」
隣にボスッと腰を下ろす。勢いよく座ったせいでマットレスが弾んで、HiMERUはんの身体も揺れた。風呂上がりだからか、香水を付けていないからか、昼間会う時よりも濃く感じるシャンプーの匂い。キュッと甘く胸が痺れる。
「そう言ってもらえるのは光栄ですが、桜河とHiMERUは学年が違いますから。どのみち、学園で会う機会はあまりないのではないでしょうか……漣だってそうでしょう」
「そっか、ジュンはんもHiMERUはんも先輩やもんな」
頭では分かっていたけれど、言葉に出して認識みると、少し不安になる。同じクラスにジュンはんがいるわけない。全く知り合いのいないコミュニティーに飛び込むのは、実はこれが初めてかもしれない。
「桜河ならきっと、すぐに友だちができますよ」
「うん」
HiMERUはんと目を合わせて頷くと、小さな心配事なんて吹き飛んでいく。
たぶん、何とでもなる。それよりも……わしの「あーあ」はそうやなくて、単純に、好きな人と一緒に登下校してみたいっていうささやかな願いは叶わんのやなあっち意味なんよ。そんな遠くないとはいえ、行き先が違うのに「一緒に行こ」っち言うのは変やろか。
ぼんやりと考えながらネクタイを撫でる。てらてらした素材は妙に肌触りが良く、つい手遊びをしてしまう。
ふと、ずいぶん長く黙り込んでしまった気がして顔を上げる。ずっとこちらを見ていたらしいHiMERUはんは、優しく目を細めて、わしの首元へと手を伸ばした。
「ところで、玲明学園と秀越学園のちょうど真ん中あたりにアイスクリーム店が出来たのはご存知ですか? 人気だそうです」
「こんな寒いのに?」
「ええ、連日大行列だとか」
「へえ……よっぽど美味しいんやろか。行ってみたいね」
されるがままにじっとしていると、HiMERUはんは手際よくわしのネクタイを整え、満足そうに足を組み直した。
「そうですね。でも、桜河の言う通り今は寒いので、こういうのはどうです? 新生活に慣れてきた頃には暖かくなっているでしょう。放課後、待ち合わせて一緒に行くというのは?」
「放課後!? うん、わし、そういうのしてみたかったんよ」
「では、約束です。楽しみにしていますね」
こくこくと頷いて、小指を差し出す。少し間を置いて、HiMERUはんのすらっとした小指が絡まった。しっとりとしていて、爽やかな匂いがする。
「指切った」
約束にまるで似つかわしくない、物騒な歌やなと思いながら、離したくない小指を離す。じんわり残った体温が消えないよう、後ろ手にぎゅっと、拳に力を入れる。何か言わないと、照れているのがバレてしまうと言葉を探していると、ちょうど良いタイミングで鍵を差し込む音が聞こえた。
「ただいまーってあれ、靴……HiMERU?」
「ジュンはん、おかえりなさい」
「お邪魔しています、漣。ああ、もういい時間ですね。HiMERUはこれでお暇するのです」
立ち上がったHiMERUはんについて、ジュンはんと入れ違いに扉へ向かう。横目に時計を見る。たしかに、いつの間にか寝る時間が迫っていた。HiMERUはんといると、あっという間に時間が過ぎる。
「あれ、サクラくん、珍しい格好してますね」
「コッコッコ。ちょっとな、練習してみたんよ」
行儀は悪いけれど、裸足で土間に降りるとひんやりして、まだ残る気恥ずかしさを散らすにはちょうどよかった。
「ほなHiMERUはん、おおきにな」
「ええ」
ドアから半身を乗り出して見送る。2、3歩歩き出して振り返ったHiMERUはんが、いたずらっぽく、白い歯を覗かせる。
「ネクタイ、桜河はそのくらいきちんと締めていた方がかっこいいと思いますよ……では、おやすみなさい」
「えっ? うん……お、おやすみ」
痛いほどに暴れる心臓をネクタイごと押さえつけて、遠ざかる背中をじっと見送る。それきり、もう振り返ることはなかった。
しばらく土間で足踏みしてから部屋に戻ると、ジュンはんは風呂の支度をしていた。
「なあジュンはん、聞いても良え?」
「なんですか?」
「あのな、放課後に……」
待ち合わせてどっか行くのって、デートっち言うても良ぇと思う? って、聞いてどうするん。あかん、舞い上がってしもとる。
「ごめん、やっぱなんでもないわ」
口籠るわしを不思議そうに眺めた後、ジュンはんはニッと笑って、「じゃあ俺、さっと入ってきますね」と部屋を出て行った。
制服を元通りハンガーに掛けて、布団に入る。シーツはひんやりとしているのに、HiMERUはんがいたところだけ温かく感じる。確かめようと伸ばした右手の小指もまだほんの少し、温もりが、感触が残っている気がした。
結局進まなかった課題とカレンダーを見やって、目を閉じる。高鳴る胸と裏腹に、みるみるうちに瞼が重たくなっていく。
あれが桜の絵になったら高校生。放課後の約束は、さらにもう一枚めくった頃になるやろか。ああそうや、明日からネクタイ結ぶ練習しよう。楽しみやな。
遠くでシャワーの音が止む。パチンと小さく音が鳴る。もう持ち上がらない瞼の色が、橙から黒に変わった。
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